ではそれならば、未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒たちの数たるや、すごいものがありますが、将来、一日に二万、三万、五万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂は小さいものだと思うのです。だからその時になればまた、建築技術も進展しているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。
要するに、 御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。
だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井たちは「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書 一六七五)
とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。国主立とは、「一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も「国立戒壇」に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、「国立戒壇」ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。要は、正法広布の御遺命を拝して、倦(う)まず弛(たゆ)まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。
しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。ただ私は、御遺命から言って、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを、強固な意志を持って考えていきたいと思うのであります。
以上をもって本日の話を終わりとします。
要するに、 御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。
だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井たちは「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書 一六七五)
とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。国主立とは、「一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も「国立戒壇」に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、「国立戒壇」ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。要は、正法広布の御遺命を拝して、倦(う)まず弛(たゆ)まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。
しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。ただ私は、御遺命から言って、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを、強固な意志を持って考えていきたいと思うのであります。
以上をもって本日の話を終わりとします。