(一) 戸田城聖氏の戒壇観と池田大作の発言の遷移
さて、戸田氏は昭和三十年の三月二十五日には、当時、宗会議長だった市川真道師へ、鉄筋コンクリート製の近代的宝蔵(奉安堂)と大客殿の建立寄進を請願しております。(38)
そのあと、戸田氏は亡くなるまで、ずっと「国立戒壇」と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。これはたしかに憲法が昭和二十二年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。
そして昭和三十九年四月一日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。(39)
さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、(40)これは記憶のある人もいるでしょう。また「化義の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。
同年六月三十日には、おもしろいことを言っている。これも本当か、うそかは判らないのだが、「本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃった」と言うのです。(41)
これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかもしれない。したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかもしれません。
戸田氏は色々な面で意表を突いたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。(42)我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこと
もありました。(43)みんなも覚えがあるでしょう、とにかく色々なことを言う人でした。けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。
さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑(せきひ)のようなものだと言って、さらに、
「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」 (聖教新聞 昭和三九年七月二日付)
と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立の成就される時こそ、三千年の仏教史における最も重大な時」と言い(44)、大聖人様の御遺命が達成された意味を諸処に言い出し、
そこにたいへん執われていたのです。
そこで、昭和四十年一月一日に日達上人もおっしゃっておりますが、(45)池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというものです。けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労をねぎらう意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから・・」と、その言葉を取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。
例えば、先程言った第一回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、
「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意味をもつ旨の重大なお話があった」 (同 昭和四〇年二月二〇日付)
というように、『聖教新聞』で発表しているのです。それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」(昭和四十年三月二十六日)においても、
「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」(大日蓮 昭和四〇年五月号一四㌻)
と書いて、昭和四十年四月八日付の『聖教新聞』に載せてある。この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第一回正本堂建立建設委員会のお言葉には見られないが、既に広宣流布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。
そこで昭和四十年の四月六日には、宗門でも大石菊寿師が、
「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」(同 昭和四〇年九月号 一八㌻)
と述べている。ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。
病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。それで私が登座してから大石菊寿師を能化に昇進させたのですが、その時に常に説法をしていた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。そうしたら、私はそれまで日号を知らなかったのですが、大石師の日号が「日法」だったのです。院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。
(38) 戸田城聖「請願書」(市川真道宗会議長宛) 大日蓮 昭和三〇年四月号 一七㌻
(39) 池田大作 大日蓮 昭和三九年五月号 四六㌻
(40) 池田大作 聖教新聞 昭和三九年四月四日付
(41) 池田大作 聖教新聞 昭和三九年七月二日付
(42) 戸田城聖 戸田城聖先生講演集上 二九~三一㌻
(43) 戸田城聖 聖教新聞 昭和二八年九月二七日付
(44) 池田大作 「撰時抄講義 序」 日蓮大聖人御書十大部講義 六ー二㌻
(45) 日達上人 「今や広宣流布」 大白蓮華 昭和四〇年一月号 八㌻
日達上人全集 一 - 三 -四八四㌻
さて、戸田氏は昭和三十年の三月二十五日には、当時、宗会議長だった市川真道師へ、鉄筋コンクリート製の近代的宝蔵(奉安堂)と大客殿の建立寄進を請願しております。(38)
そのあと、戸田氏は亡くなるまで、ずっと「国立戒壇」と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。これはたしかに憲法が昭和二十二年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。
そして昭和三十九年四月一日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。(39)
さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、(40)これは記憶のある人もいるでしょう。また「化義の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。
同年六月三十日には、おもしろいことを言っている。これも本当か、うそかは判らないのだが、「本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃった」と言うのです。(41)
これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかもしれない。したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかもしれません。
戸田氏は色々な面で意表を突いたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。(42)我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこと
もありました。(43)みんなも覚えがあるでしょう、とにかく色々なことを言う人でした。けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。
さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑(せきひ)のようなものだと言って、さらに、
「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」 (聖教新聞 昭和三九年七月二日付)
と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立の成就される時こそ、三千年の仏教史における最も重大な時」と言い(44)、大聖人様の御遺命が達成された意味を諸処に言い出し、
そこにたいへん執われていたのです。
そこで、昭和四十年一月一日に日達上人もおっしゃっておりますが、(45)池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというものです。けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労をねぎらう意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから・・」と、その言葉を取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。
例えば、先程言った第一回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、
「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意味をもつ旨の重大なお話があった」 (同 昭和四〇年二月二〇日付)
というように、『聖教新聞』で発表しているのです。それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」(昭和四十年三月二十六日)においても、
「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」(大日蓮 昭和四〇年五月号一四㌻)
と書いて、昭和四十年四月八日付の『聖教新聞』に載せてある。この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第一回正本堂建立建設委員会のお言葉には見られないが、既に広宣流布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。
そこで昭和四十年の四月六日には、宗門でも大石菊寿師が、
「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」(同 昭和四〇年九月号 一八㌻)
と述べている。ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。
病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。それで私が登座してから大石菊寿師を能化に昇進させたのですが、その時に常に説法をしていた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。そうしたら、私はそれまで日号を知らなかったのですが、大石師の日号が「日法」だったのです。院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。
(38) 戸田城聖「請願書」(市川真道宗会議長宛) 大日蓮 昭和三〇年四月号 一七㌻
(39) 池田大作 大日蓮 昭和三九年五月号 四六㌻
(40) 池田大作 聖教新聞 昭和三九年四月四日付
(41) 池田大作 聖教新聞 昭和三九年七月二日付
(42) 戸田城聖 戸田城聖先生講演集上 二九~三一㌻
(43) 戸田城聖 聖教新聞 昭和二八年九月二七日付
(44) 池田大作 「撰時抄講義 序」 日蓮大聖人御書十大部講義 六ー二㌻
(45) 日達上人 「今や広宣流布」 大白蓮華 昭和四〇年一月号 八㌻
日達上人全集 一 - 三 -四八四㌻