さて、私が昭和五十四年にお跡を受け、それからずっと来た平成二年の夏に、法華講の大集会を開きました。あれは「三万総会」という名目で行ったのだけれども、実際には四万人以上が集まったのです。
それからさらに、その年の十月十三日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、
「一期弘法抄ニ云ク国主此ノ法ヲ立テラルレバ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」
(大日蓮 平成二年一一月号八六㌻)
ということを申しました。本門寺の公称は未来だということを述べたのです。この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、なんとも言えない顔をしておりました。大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。
そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
けれども、私は信念を持っているのです。
いくらなんでも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。
だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。
ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望·予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫(いぶ)激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、 正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、平成三年一月の教師指導会の時にも言いました。(73)
これは前の平成二年の時の在り方から出てきておるのであります
つまり、君たちも知っているように「一一・一六」という話があるでしょう。これは、この平成二年の十一月十六日のことです。この年の十月十三日に大石寺開創七百年の慶費大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を緋誘したのが、約一カ月後の「一一·一六」の発言なのであり、池田の大諺法は歴然です。そのあとすぐ次の日に、雲仙普賢岳が噴火したというようなこともありました。そういう流れがあったのであります。
(73)大日蓮 平成三年二月号 六二、八九㌻
それからさらに、その年の十月十三日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、
「一期弘法抄ニ云ク国主此ノ法ヲ立テラルレバ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」
(大日蓮 平成二年一一月号八六㌻)
ということを申しました。本門寺の公称は未来だということを述べたのです。この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、なんとも言えない顔をしておりました。大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。
そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。
けれども、私は信念を持っているのです。
いくらなんでも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。
だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。
ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望·予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫(いぶ)激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、 正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、平成三年一月の教師指導会の時にも言いました。(73)
これは前の平成二年の時の在り方から出てきておるのであります
つまり、君たちも知っているように「一一・一六」という話があるでしょう。これは、この平成二年の十一月十六日のことです。この年の十月十三日に大石寺開創七百年の慶費大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を緋誘したのが、約一カ月後の「一一·一六」の発言なのであり、池田の大諺法は歴然です。そのあとすぐ次の日に、雲仙普賢岳が噴火したというようなこともありました。そういう流れがあったのであります。
(73)大日蓮 平成三年二月号 六二、八九㌻