これに対して、浅井はこの当時、昭和四十年五月二十五日には、千載一遇の時だから全講を挙げて御供養するということを言っております。(46)
現在、浅井が色々言っているけれども矛盾点があるのです。一つは昭和六十一年八月に、
「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑(おうわく)が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(趣意)」
(富士 昭和六一年八月号五三㌻)
と言っているのです。また事実、先程も言ったように、第一回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。
ところが、昭和五十二年八月には「仏教の破壊者ー池田大作を裁く」という記事で、
「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人(※日達上人)は、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨の説法をされた」(同 昭和五二年八月号 六㌻)
ということで、逆に攻撃しているのであります。(47)そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。
それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。
(46)浅井昭衛 富士 昭和四〇年七月号 八㌻
(47)この記事は、『宝石』昭和五二年九月号に掲載した特別手記「池田大作ー仏法の破壊者を裁く」から転載したもの。
現在、浅井が色々言っているけれども矛盾点があるのです。一つは昭和六十一年八月に、
「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑(おうわく)が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(趣意)」
(富士 昭和六一年八月号五三㌻)
と言っているのです。また事実、先程も言ったように、第一回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。
ところが、昭和五十二年八月には「仏教の破壊者ー池田大作を裁く」という記事で、
「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人(※日達上人)は、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨の説法をされた」(同 昭和五二年八月号 六㌻)
ということで、逆に攻撃しているのであります。(47)そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。
それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。
(46)浅井昭衛 富士 昭和四〇年七月号 八㌻
(47)この記事は、『宝石』昭和五二年九月号に掲載した特別手記「池田大作ー仏法の破壊者を裁く」から転載したもの。