ほかにも様々なことがあり、先程の賞与御本尊の問題もあったけれども、昭和四十九年八月から十一月にかけて妙信講の処分という問題がありました。(68)結局、道理から言っても「国立戒壇」は誤りですから、「国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて「国立戒壇が間違いだ」と言ったことは正しかったと思っております。ただ「王法」の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります。
それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということにな っていますが、浅井たちはその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。(69)
その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。(70)しかし、今はこれを省略いたします。この浅井の言っておることのなかには、特に「天母原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も「報恩抄文段』に、
「富士山天生原(あもうがはら)に戒壇堂を建立する」
(日寛上人御書文段 四六九㌻)
ということをおっしゃっているのです。それで浅井は「天母山(あんもやま)の戒壇」と言っているのです。(71)天母山というのは大石寺の東、四キロ強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。
とにかく「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が仰せだけれども、このようなことをどなたが言い出されたかと言うと、文献的に確かなものはないのです。ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。おそらく、あとから書かれたものであると思います。
そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。
また、その意味から、由緒(ゆいしょ)ある建物、正本堂等はここに建つべきであるということをおっしゃっておったのであります。
ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。そもそも「天母山」の場合は「天の母」と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段」などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかもしれないが、山の上で偏狭(へんきょう)な所です。 だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。
(68)昭和四九年八月一二日 「宣告書」大日蓮 昭和四九年九月号八㌻
昭和四九年一〇年一四日 院第二四三四号 昭和四九年 一二一月号二㌻
昭和四九年一一月四日 院第二四三九号等 同 昭和五○年一月号二㌻
(69)昭和五二年五月六日_院第二七五三号「元妙信講等訴訟事件の解決について」
|日蓮正宗宗務院「元妙信講等処分の経過について」
大日蓮 昭和五二年五月号 九㌻
(70)藤本日潤 教師指導会 「時局について」(平成九年八月二九日)
大日蓮 平成九年一〇月号 六七~六九㌻
(71)浅井甚兵衛.浅井昭衛「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」
富士 昭和五○年三月号 二七㌻
(72)日達上人「天生原.天生山.六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」
大日蓮 昭和四五年九月号 一七~三二㌻
日達上人全集 二一五ー三二五~三四四㌻
それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということにな っていますが、浅井たちはその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。(69)
その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。(70)しかし、今はこれを省略いたします。この浅井の言っておることのなかには、特に「天母原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も「報恩抄文段』に、
「富士山天生原(あもうがはら)に戒壇堂を建立する」
(日寛上人御書文段 四六九㌻)
ということをおっしゃっているのです。それで浅井は「天母山(あんもやま)の戒壇」と言っているのです。(71)天母山というのは大石寺の東、四キロ強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。
とにかく「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が仰せだけれども、このようなことをどなたが言い出されたかと言うと、文献的に確かなものはないのです。ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。おそらく、あとから書かれたものであると思います。
そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。
また、その意味から、由緒(ゆいしょ)ある建物、正本堂等はここに建つべきであるということをおっしゃっておったのであります。
ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。そもそも「天母山」の場合は「天の母」と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段」などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかもしれないが、山の上で偏狭(へんきょう)な所です。 だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。
(68)昭和四九年八月一二日 「宣告書」大日蓮 昭和四九年九月号八㌻
昭和四九年一〇年一四日 院第二四三四号 昭和四九年 一二一月号二㌻
昭和四九年一一月四日 院第二四三九号等 同 昭和五○年一月号二㌻
(69)昭和五二年五月六日_院第二七五三号「元妙信講等訴訟事件の解決について」
|日蓮正宗宗務院「元妙信講等処分の経過について」
大日蓮 昭和五二年五月号 九㌻
(70)藤本日潤 教師指導会 「時局について」(平成九年八月二九日)
大日蓮 平成九年一〇月号 六七~六九㌻
(71)浅井甚兵衛.浅井昭衛「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」
富士 昭和五○年三月号 二七㌻
(72)日達上人「天生原.天生山.六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」
大日蓮 昭和四五年九月号 一七~三二㌻
日達上人全集 二一五ー三二五~三四四㌻