それから、とにかく昭和四十七年中は浅井の問題がずっと起こってきて、昭和四十九年には学会本部へ 襲撃をかけたり、そのほか暴力事件を起こすような話があったり、さらに浅井の問題に関して日達上人の御指南を受けるという意味があったりと、とにかく色々なことがありました。それらのことは到底、一概には言えない、時間もありませんから申しませんが、これらの問題が終わったあと、特に昭和四十九年ごろのことだが、創価学会が色々な意味で宗門を実質的に支配しようとしたことがありました。正本堂も造ってやったし、みんな我々がやったではないかというような考え方から、宗門をことごとく支配しようとしたという不逞(ふてい)な心根が、たしかにあったわけです。
当時の大幹部に山崎正友氏と八尋(やひろ)頼雄がおり、山崎氏は池田の懐刀(ふところかたな)でしたが、まもなく学会と別れたあと、色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。ともかく、昭和四十九年四月十二日の山崎·八尋の文書があって、そこに、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得えないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です (中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭(がいかく)と思われ」
と言っているのです。本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。つまり「学会主、宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。
そして、
「そのための布石としては、(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配(2)財政面の支配(学会依存度を高める)」
と、つまり「学会に袖(そで)を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。
これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野恵万(よしかず)という当時の創価学会登山部長が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごち ゃごちゃと話すのです。
結局、あとで判 ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。
またその次に、
「(3)渉外面の支配 (4)信者に対する統率権の支配(宗制,宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)(5)墓地、典礼の執行権の委譲 (6)総代による末寺支配が必要です」
とあります。末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、
「今回のとこは(1)(2)(3)を確立し更に(4)まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるベきと思います」
というようなことを言っているわけです。
だから日達上人は、昭和四十九年四月二十五日の法華講連合会春季総登山会で、
「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違 ったことであります」
(蓮華 昭和四九年五月号三五㌻)
とおっしゃったのであります。この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。そして、
「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以(もっ)てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変 であります」(同㌻)
という有名なお言葉があったのであります。このことは本当にそう思います。
ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。(63)言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三㌻)
と「御義口伝」にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。それなのに「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。
また北条浩が、日達上人にお目通りした際のことを記録して、池田大作に報告した文書があります。そこには、要するに「貌下の話は大変ひどいもので、これが貌下かと疑いたくなるほどである。また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが書いてあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した誘法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。それを池田にはこのように報告しているのです。これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、(64)それについては日達上人が、昭和四十九年五月三十一日の寺族同心会の時に、
「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華 昭和四九年六月号八㌻)
とおっしゃっている。つまり、学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。さらに続いて、
「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。誇法厳禁という事を考えなければならない。(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒(のき)を貸して母屋(おもや)を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です。(中略) 大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同㌻)
ということを、ここにおっしゃ つておるのであります。
次に、昭和四十九年六月十八日の富士学林研究科開講式の時ですが、
「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閣浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。
皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべききでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります。(中略) どうか、一時の富貴(ふうき)を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」
(大日蓮 昭和四九年八月号一九㌻)
ということをおっしゃっております。学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多かれ少なかれ御供養が上がるでしょう。しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。
しかし日達上人御自身の上からは、昭和五十四年五月三日に、学会を最終的には許された御指南がありました。そこでもって学会を許され、そのすぐ二カ月後に御遷化あそばされたのです。そして、その跡(あと)を私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。正信会の莫迦(ばか)な者どもは「私の言うことがしょっちゅうるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきた場つもりであります。
これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。そうしたなか、正本堂建立の記念の賞与御本尊についての問題がありました。この賞与御本尊は、昭和四十九年一月二日に、日達上人から池田大作に対して授与されたもので、その脇書(わきがき)には「賞本門事戒壇正本堂建立」と認(したた)められています。しかし池田は、それでも満足しなかったのでしょう。そこでさらに、この賞与御本尊に裏書きを書かせようとしたのです。この時学会は、「此の御本尊は正本堂が正(まさ)しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」という原稿を持って要請してきたのです。このことからも、いかに池田大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主 がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る、そういうようにしたかったのです。
しかし日達上人は、当時総監であった観妙院日慈上人や宗務院の役員等とも相談して、
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願 って建立されたのを証明する本尊である」と書くことにされました。そして日達上人は、昭和四十九年九月二十日、最終的に賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。 「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。
それから池田は昭和四十七年十月十二日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、
「大御本尊公開の時運(じうん)招来の為に奮迅(ふんじん)」(大日連 昭和四七年一二月号二三㌻)
ということを言っているのです。つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、大御本尊を公開するという意味において、正本堂そのものが御遺命の事の戒壇となるという意味を、ここで言っておるわけであります。
そういう背景において、「国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。
また広布第一章·第二章ということも、池田が言い出しています。(66)そして有名なことだが、 昭和四十七年十月十二日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」という言葉を言わせたのです。(67)それを、宗門にはわからないように側近の者に命じて言わせたのだから、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。
それから、その翌年の昭和四十九年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。そのことを七月二十七日の「宗門の現況に関する説明、並びに指導会」でお話になっております。この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配をされておられました。そのほかにも色々とありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分たちの傘下にしようと画策していたのであります。
また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと、日達上人の御在世中に、正本堂 の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言ってきたことがありました。もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。そういうこともありました。
(63) 新階央「日顕宗の邪義を破す」「創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』一二四㌻
(64) 「名字の言」聖教新聞 昭和四九年五月ニ七日付
(65)日達上人 「創価学会第 四十回本部総会」蓮華昭和五 四年五月号 三七/四O
日達上人全集 二ー 五ー 六一九~六二三㌻
(66)池田大作「正本堂完工式挨拶」 大日蓮 昭和四七年一二月号 五七~五八㌻
(印)原島嵩「池田大作先生への手紙」 二四㌻
当時の大幹部に山崎正友氏と八尋(やひろ)頼雄がおり、山崎氏は池田の懐刀(ふところかたな)でしたが、まもなく学会と別れたあと、色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。ともかく、昭和四十九年四月十二日の山崎·八尋の文書があって、そこに、
「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得えないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です (中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭(がいかく)と思われ」
と言っているのです。本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。つまり「学会主、宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。
そして、
「そのための布石としては、(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配(2)財政面の支配(学会依存度を高める)」
と、つまり「学会に袖(そで)を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。
これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野恵万(よしかず)という当時の創価学会登山部長が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごち ゃごちゃと話すのです。
結局、あとで判 ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。
またその次に、
「(3)渉外面の支配 (4)信者に対する統率権の支配(宗制,宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等)(5)墓地、典礼の執行権の委譲 (6)総代による末寺支配が必要です」
とあります。末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、
「今回のとこは(1)(2)(3)を確立し更に(4)まで確立できるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるベきと思います」
というようなことを言っているわけです。
だから日達上人は、昭和四十九年四月二十五日の法華講連合会春季総登山会で、
「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違 ったことであります」
(蓮華 昭和四九年五月号三五㌻)
とおっしゃったのであります。この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。そして、
「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以(もっ)てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変 であります」(同㌻)
という有名なお言葉があったのであります。このことは本当にそう思います。
ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。(63)言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 一七七三㌻)
と「御義口伝」にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。それなのに「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。
また北条浩が、日達上人にお目通りした際のことを記録して、池田大作に報告した文書があります。そこには、要するに「貌下の話は大変ひどいもので、これが貌下かと疑いたくなるほどである。また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが書いてあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した誘法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。それを池田にはこのように報告しているのです。これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、(64)それについては日達上人が、昭和四十九年五月三十一日の寺族同心会の時に、
「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華 昭和四九年六月号八㌻)
とおっしゃっている。つまり、学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。さらに続いて、
「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。誇法厳禁という事を考えなければならない。(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒(のき)を貸して母屋(おもや)を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です。(中略) 大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同㌻)
ということを、ここにおっしゃ つておるのであります。
次に、昭和四十九年六月十八日の富士学林研究科開講式の時ですが、
「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています。(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍(ふえん)していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閣浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。
皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべききでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神がなくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります。(中略) どうか、一時の富貴(ふうき)を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」
(大日蓮 昭和四九年八月号一九㌻)
ということをおっしゃっております。学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多かれ少なかれ御供養が上がるでしょう。しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。
しかし日達上人御自身の上からは、昭和五十四年五月三日に、学会を最終的には許された御指南がありました。そこでもって学会を許され、そのすぐ二カ月後に御遷化あそばされたのです。そして、その跡(あと)を私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。正信会の莫迦(ばか)な者どもは「私の言うことがしょっちゅうるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきた場つもりであります。
これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。そうしたなか、正本堂建立の記念の賞与御本尊についての問題がありました。この賞与御本尊は、昭和四十九年一月二日に、日達上人から池田大作に対して授与されたもので、その脇書(わきがき)には「賞本門事戒壇正本堂建立」と認(したた)められています。しかし池田は、それでも満足しなかったのでしょう。そこでさらに、この賞与御本尊に裏書きを書かせようとしたのです。この時学会は、「此の御本尊は正本堂が正(まさ)しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為(た)ることの証明の本尊也」という原稿を持って要請してきたのです。このことからも、いかに池田大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主 がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る、そういうようにしたかったのです。
しかし日達上人は、当時総監であった観妙院日慈上人や宗務院の役員等とも相談して、
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇であることを願 って建立されたのを証明する本尊である」と書くことにされました。そして日達上人は、昭和四十九年九月二十日、最終的に賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。 「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。
それから池田は昭和四十七年十月十二日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、
「大御本尊公開の時運(じうん)招来の為に奮迅(ふんじん)」(大日連 昭和四七年一二月号二三㌻)
ということを言っているのです。つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、大御本尊を公開するという意味において、正本堂そのものが御遺命の事の戒壇となるという意味を、ここで言っておるわけであります。
そういう背景において、「国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。
また広布第一章·第二章ということも、池田が言い出しています。(66)そして有名なことだが、 昭和四十七年十月十二日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」という言葉を言わせたのです。(67)それを、宗門にはわからないように側近の者に命じて言わせたのだから、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。
それから、その翌年の昭和四十九年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。そのことを七月二十七日の「宗門の現況に関する説明、並びに指導会」でお話になっております。この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配をされておられました。そのほかにも色々とありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分たちの傘下にしようと画策していたのであります。
また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと、日達上人の御在世中に、正本堂 の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言ってきたことがありました。もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。そういうこともありました。
(63) 新階央「日顕宗の邪義を破す」「創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』一二四㌻
(64) 「名字の言」聖教新聞 昭和四九年五月ニ七日付
(65)日達上人 「創価学会第 四十回本部総会」蓮華昭和五 四年五月号 三七/四O
日達上人全集 二ー 五ー 六一九~六二三㌻
(66)池田大作「正本堂完工式挨拶」 大日蓮 昭和四七年一二月号 五七~五八㌻
(印)原島嵩「池田大作先生への手紙」 二四㌻