最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、(48)この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、昭和五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。
つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをも、やや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。
このなかで『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は挙げてみなさい。一往、四分の一ぐらいの人が読んでいるようだね。では次に『本門事の戒壇の本義』を読んだ手を挙げてください。これは、なお少ないようです。なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに凶奔(きょうほん)し、その関係者からの強力な要請もあって、本書の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広宣流布の相より慰撫(いぶ)と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容(しょうよう)のお言葉も拝せられるのです。そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。(49)学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは言えると思います。しかし、その色々な面において、「国立戒壇」ということを言い出しているわけで、その浅井の「国立戒壇」の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。
たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。まして天皇の国事行為は憲法に規定されていて、こと宗教に関する限りにおいては全然、法律で定められた権限がない。政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。
なおかつ、浅井が言っていることは「本化妙宗式目」にある内容、つまり勅命の「国立戒壇」であります。それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日(こんにち)の日本乃至(ないし)、世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。それはむしろ時代に逆行するという批難から、正しい布教の妨(さまた)げになるとも考えられます。しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
そこで少し話を戻して、昭和四十一年に池田が、
「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成されれる」(日蓮大聖人御書十大部講義 一 - 一〇五七㌻)
と言っているが、それまでは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。その意味が、この昭和四十一年七月の
池田の言葉から出てきておるのであります。
さらに昭和四十二年一月にも、
「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」
(大白蓮華 昭和四二年一月号一四㌻)
と言っている。
そして、同年一月二日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌(そうみょう)を具(そな)えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、(50)これもまた言い過ぎた言葉です。この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは事相なのであります。先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言い切ってしまっておるのです。
また昭和四十二年五月三日にも池田が、
「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮 昭和四二年六月号一三㌻)
であると言い、また、
「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」
とも言っていっている。「いちおう」 ならば「成就」などと、当たらないことを言わないほうがよいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。
また池田は、昭和四十二年六月一日に、
「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』 と、満足そうなお顔で申されました」(同昭和四二年七月号一二㌻)
ということを言って、日達上人のせいにしている。
そのあとも、
妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この二人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。その時でも、学会はずるいことに「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく現下を障壁(しょうへき)にする癖(くせ)がある。これは本当にそうです。そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会のやり口だったのです。これもまた、激励と慰撫(いぶ)の大きなお心からのお言葉を口実にして、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。
次に、昭和四十二年七月十一日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている(51)。これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。そして同年九月十二日には、
「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同 昭和四三年二月号一一㌻)
ということをおっしゃっております。
これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。「本当の御遣命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。我々日連正宗は迩門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言葉っても、それが直ちに『三大秘法抄』 『一期弘法抄』に示される御遺命 の最終戒壇だということではない意味もあります。
おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。
ただ、昭和四十二年十月一日に、学会の教学部長であ った小平芳平(よしへい)が「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。そして「あとは、不開(あかずの)門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、(53)「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、
なんとかうまくごまかしていたのであります。ともかく学会は、本当にずるいのです。
ところが、昭和四十二年十一月号の『大日蓮』に、正本堂建立発願式の特集として「載せるから何か書け」と言われたのです。それで高木伝道房、私、藤本栄道房(常徳院日潤能化)、椎名法英房(常妙院日澄上人)、大村寿顕房(常秀院日統上人)、菅野慈雲房
(常観院日龍贈上人)等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのです。空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。
それからその翌年、八木信瑩房(常要院日照能化)も、
「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」(大白蓮華昭和四三年九月号九九㌻)
と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを言っていると思います。
次は、昭和四十三年十月十二日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。この大法要において、池田が、
「三大秘法抄 のご遺命にいわく」(大日蓮 昭和四三年一一月号巻頭グラビア)
として、
「霊山(りょうぜん)浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事(じ)の戒法と申すは是(これ)なり。三国並びに一間浮提(いちえんぶだい)の人懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず、大楚(だいぼんてんのう))天王·帝釈(たいしゃく)等も来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり」(御書 一五九五㌻)
の御文を全部挙げて、
「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」
(大日蓮 昭和四三年一一月号巻頭グラビア)
ということを言っている。ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。
ところが、これは私が平成三(一九九一)年一月にも指摘したところですが、正本堂落慶直前、和泉覚が創価学会理事長として「正本堂落慶の時を迎えて」という公式文書を『聖教新聞」に掲載して、正本堂は直ちには御遺命の戒壇 に当たらない旨を発表したのです。(54)しかし、池田本人がこれだけ言ってきたのだから、こういうことを和泉覚に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを述べたのである。これは学会問題が起きてすぐの時だけれども、そういうことが色々とありました。
そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに建たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。 さらに妙信講 に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。(55)
ここでまた、浅井が昭和四十五年三月二十五日に、宗務院に対して、第一回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉 について、
「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義·意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」(富士 昭和五〇年三月号三〇㌻)
と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを言うのであります。
そこで、昭和四十五年四月六日の御霊宝虫払大法会(むしばらいだいほうえ)における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのです。(56)これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。
これは先程言い損(そこ)ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、「今はまだ、そうではない」と言うのです。
ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』「一期弘法抄』の建物となるということです。それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。
しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。
つまり『三大秘法抄』「一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』「一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。その辺のところが非常に微妙だったのです。
ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、昭和四十五年四月に、谷口善太郎というう共産党の代議士が衆議院で行った質問(57)について、所轄(しょかつ)の東京都知事から創価学会が照会を受けるということがありました。
これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。
それに対して学会が回答したのが、次の三 つであります。(58)
一つは「本門戒壇とは、民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流(ちょうりゅう)となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。次は「現在、建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇にあたる」。三番目に「一時、本門戒壇を”国立戒壇”、と呼称(こしょう)したことがあるが、本意は一で述べた通りである」と、考え方としては、国立ということがあったけれども、それを否定した形において、信徒によって建立することになったのであると言うのです。だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、本門戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。
しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃつたのであリます。(59)
そこで日達上人が昭和四十五年四月二十二日の時局懇談会および同年四月二十七日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その定義についておっしゃったのであります。(60)これは、戒壇の御本尊が事であるから、戒壇の御本尊のまします所はいずこなりとも、場所にかかわらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。
我々は、事の戒壇というと、やはり「一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。するとその時に、
「これは御相伝である」
ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。すなわち「御戒壇説法」において、
「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩(ともがら)は無始の罪障、速やかに消滅し」云々
ということがあるのです。そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、
「広宣流布の時至れば一闇浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然(しかり)りと難(いえど)も仍(なお)是れ枝流にして、是れ根源に非(あら)ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即(すなわ)ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段 五四三㌻)
という御文を引かれておりました。そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。
これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。
だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。
そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛(まぎ)らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり「三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心·唱題·折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。
さて、昭和四十七年二月には浅井昭衛が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。一つ目は「正本堂は三大秘法抄·一期弘法抄の御遺命の事の戒壇ではない」ということですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。二つ目が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、大御本尊を厳護する堂宇である」という要求です。さらに三つ目は御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁(あかつき)、富士山天母ヶ原に建立される国立の戒壇である」と主張するのです。この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。(62)にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。
そこで昭和四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。その「訓論」には、
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(大日蓮 昭和四七年六月号二㌻)
ということを仰せであります。
このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま「一期弘法抄」の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との三つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。
(48) 浅井昭衛『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』 (平成一六年七月一六日発行)
(49) 池田大作 聖教新聞 昭和四○年五月六日付
(50)創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』 三ー九六二㌻「正本堂」の項
(51)日達上人「法華講九州地区連合会大会」大日蓮 昭和四二年九月号 三〇㌻
日達上人全集 一 -三ー三四三㌻
(52) 小平芳平 「座談会_世紀の正本堂建立へ」
大白蓮華 昭和四二年一〇月号 三七、四二、四三㌻
(53)池田大作 聖教新聞 昭和四〇年七月一五日付
同 昭和四〇年九月二二日付一
(54)和泉覚「正本堂落慶の時を迎えて」聖教新聞 昭和四十七年10月三日付
(55)日達上人「時局懇談会」 『日達上人猊下御説法』(昭和四五年五月一二日.富士学林発行)二三㌻
(56)日達上人「霊宝虫払会」『日達上人猊下御説法』 七㌻
(57)谷口善太郎「宗教団体の政治活動に関する質問主意書」
参議院ホームページ http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nst/htmshitsumon/a063005.htm
(58)佐藤榮作「衆議院議員谷口善太郎君提出 宗教団体の政治活動に関する質問に対する答弁書」
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b063005.htm
(59)日達上人「創価学会第三十三回本部総会」 大日蓮 昭和四五年六月号 一七㌻
日達上人全集 二一五ー五○○㌻
(6)日達上人「時局懇談会」『日達上人猊下御說法』一三~二四㌻
「教師補任式」 同 二七~三五㌻
(61)浅井昭衛 富士 昭和四七年三月号_七㌻
(62)日達上人「天生原.天生山.六万坊の名称と本宗の関係につぃての一考察」」
大日蓮 昭和四五年九月号 一四㌻
日達上人全集 ニー五ー三一二㌻
つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをも、やや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。
このなかで『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は挙げてみなさい。一往、四分の一ぐらいの人が読んでいるようだね。では次に『本門事の戒壇の本義』を読んだ手を挙げてください。これは、なお少ないようです。なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに凶奔(きょうほん)し、その関係者からの強力な要請もあって、本書の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広宣流布の相より慰撫(いぶ)と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容(しょうよう)のお言葉も拝せられるのです。そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。(49)学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは言えると思います。しかし、その色々な面において、「国立戒壇」ということを言い出しているわけで、その浅井の「国立戒壇」の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。
たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。まして天皇の国事行為は憲法に規定されていて、こと宗教に関する限りにおいては全然、法律で定められた権限がない。政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。
なおかつ、浅井が言っていることは「本化妙宗式目」にある内容、つまり勅命の「国立戒壇」であります。それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日(こんにち)の日本乃至(ないし)、世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。それはむしろ時代に逆行するという批難から、正しい布教の妨(さまた)げになるとも考えられます。しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
そこで少し話を戻して、昭和四十一年に池田が、
「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成されれる」(日蓮大聖人御書十大部講義 一 - 一〇五七㌻)
と言っているが、それまでは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。その意味が、この昭和四十一年七月の
池田の言葉から出てきておるのであります。
さらに昭和四十二年一月にも、
「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」
(大白蓮華 昭和四二年一月号一四㌻)
と言っている。
そして、同年一月二日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌(そうみょう)を具(そな)えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、(50)これもまた言い過ぎた言葉です。この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは事相なのであります。先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言い切ってしまっておるのです。
また昭和四十二年五月三日にも池田が、
「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮 昭和四二年六月号一三㌻)
であると言い、また、
「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」
とも言っていっている。「いちおう」 ならば「成就」などと、当たらないことを言わないほうがよいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。
また池田は、昭和四十二年六月一日に、
「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』 と、満足そうなお顔で申されました」(同昭和四二年七月号一二㌻)
ということを言って、日達上人のせいにしている。
そのあとも、
妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この二人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。その時でも、学会はずるいことに「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく現下を障壁(しょうへき)にする癖(くせ)がある。これは本当にそうです。そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会のやり口だったのです。これもまた、激励と慰撫(いぶ)の大きなお心からのお言葉を口実にして、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。
次に、昭和四十二年七月十一日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている(51)。これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。そして同年九月十二日には、
「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同 昭和四三年二月号一一㌻)
ということをおっしゃっております。
これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。「本当の御遣命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。我々日連正宗は迩門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言葉っても、それが直ちに『三大秘法抄』 『一期弘法抄』に示される御遺命 の最終戒壇だということではない意味もあります。
おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。
ただ、昭和四十二年十月一日に、学会の教学部長であ った小平芳平(よしへい)が「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。そして「あとは、不開(あかずの)門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、(53)「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、
なんとかうまくごまかしていたのであります。ともかく学会は、本当にずるいのです。
ところが、昭和四十二年十一月号の『大日蓮』に、正本堂建立発願式の特集として「載せるから何か書け」と言われたのです。それで高木伝道房、私、藤本栄道房(常徳院日潤能化)、椎名法英房(常妙院日澄上人)、大村寿顕房(常秀院日統上人)、菅野慈雲房
(常観院日龍贈上人)等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのです。空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。
それからその翌年、八木信瑩房(常要院日照能化)も、
「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」(大白蓮華昭和四三年九月号九九㌻)
と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを言っていると思います。
次は、昭和四十三年十月十二日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。この大法要において、池田が、
「三大秘法抄 のご遺命にいわく」(大日蓮 昭和四三年一一月号巻頭グラビア)
として、
「霊山(りょうぜん)浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事(じ)の戒法と申すは是(これ)なり。三国並びに一間浮提(いちえんぶだい)の人懺悔(ざんげ)滅罪の戒法のみならず、大楚(だいぼんてんのう))天王·帝釈(たいしゃく)等も来下(らいげ)して踏み給ふべき戒壇なり」(御書 一五九五㌻)
の御文を全部挙げて、
「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」
(大日蓮 昭和四三年一一月号巻頭グラビア)
ということを言っている。ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。
ところが、これは私が平成三(一九九一)年一月にも指摘したところですが、正本堂落慶直前、和泉覚が創価学会理事長として「正本堂落慶の時を迎えて」という公式文書を『聖教新聞」に掲載して、正本堂は直ちには御遺命の戒壇 に当たらない旨を発表したのです。(54)しかし、池田本人がこれだけ言ってきたのだから、こういうことを和泉覚に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを述べたのである。これは学会問題が起きてすぐの時だけれども、そういうことが色々とありました。
そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに建たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。 さらに妙信講 に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。(55)
ここでまた、浅井が昭和四十五年三月二十五日に、宗務院に対して、第一回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉 について、
「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義·意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」(富士 昭和五〇年三月号三〇㌻)
と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを言うのであります。
そこで、昭和四十五年四月六日の御霊宝虫払大法会(むしばらいだいほうえ)における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのです。(56)これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。
これは先程言い損(そこ)ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、「今はまだ、そうではない」と言うのです。
ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』「一期弘法抄』の建物となるということです。それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。
しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。
つまり『三大秘法抄』「一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』「一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。その辺のところが非常に微妙だったのです。
ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、昭和四十五年四月に、谷口善太郎というう共産党の代議士が衆議院で行った質問(57)について、所轄(しょかつ)の東京都知事から創価学会が照会を受けるということがありました。
これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。
それに対して学会が回答したのが、次の三 つであります。(58)
一つは「本門戒壇とは、民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流(ちょうりゅう)となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。次は「現在、建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇にあたる」。三番目に「一時、本門戒壇を”国立戒壇”、と呼称(こしょう)したことがあるが、本意は一で述べた通りである」と、考え方としては、国立ということがあったけれども、それを否定した形において、信徒によって建立することになったのであると言うのです。だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、本門戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。
しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃつたのであリます。(59)
そこで日達上人が昭和四十五年四月二十二日の時局懇談会および同年四月二十七日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その定義についておっしゃったのであります。(60)これは、戒壇の御本尊が事であるから、戒壇の御本尊のまします所はいずこなりとも、場所にかかわらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。
我々は、事の戒壇というと、やはり「一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。するとその時に、
「これは御相伝である」
ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。すなわち「御戒壇説法」において、
「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩(ともがら)は無始の罪障、速やかに消滅し」云々
ということがあるのです。そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、
「広宣流布の時至れば一闇浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然(しかり)りと難(いえど)も仍(なお)是れ枝流にして、是れ根源に非(あら)ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即(すなわ)ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段 五四三㌻)
という御文を引かれておりました。そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。
これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。
だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。
そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛(まぎ)らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり「三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心·唱題·折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。
さて、昭和四十七年二月には浅井昭衛が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。一つ目は「正本堂は三大秘法抄·一期弘法抄の御遺命の事の戒壇ではない」ということですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。二つ目が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、大御本尊を厳護する堂宇である」という要求です。さらに三つ目は御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁(あかつき)、富士山天母ヶ原に建立される国立の戒壇である」と主張するのです。この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。(62)にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。
そこで昭和四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。その「訓論」には、
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(大日蓮 昭和四七年六月号二㌻)
ということを仰せであります。
このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま「一期弘法抄」の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との三つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。
(48) 浅井昭衛『日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ』 (平成一六年七月一六日発行)
(49) 池田大作 聖教新聞 昭和四○年五月六日付
(50)創価学会教学部編『仏教哲学大辞典』 三ー九六二㌻「正本堂」の項
(51)日達上人「法華講九州地区連合会大会」大日蓮 昭和四二年九月号 三〇㌻
日達上人全集 一 -三ー三四三㌻
(52) 小平芳平 「座談会_世紀の正本堂建立へ」
大白蓮華 昭和四二年一〇月号 三七、四二、四三㌻
(53)池田大作 聖教新聞 昭和四〇年七月一五日付
同 昭和四〇年九月二二日付一
(54)和泉覚「正本堂落慶の時を迎えて」聖教新聞 昭和四十七年10月三日付
(55)日達上人「時局懇談会」 『日達上人猊下御説法』(昭和四五年五月一二日.富士学林発行)二三㌻
(56)日達上人「霊宝虫払会」『日達上人猊下御説法』 七㌻
(57)谷口善太郎「宗教団体の政治活動に関する質問主意書」
参議院ホームページ http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nst/htmshitsumon/a063005.htm
(58)佐藤榮作「衆議院議員谷口善太郎君提出 宗教団体の政治活動に関する質問に対する答弁書」
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b063005.htm
(59)日達上人「創価学会第三十三回本部総会」 大日蓮 昭和四五年六月号 一七㌻
日達上人全集 二一五ー五○○㌻
(6)日達上人「時局懇談会」『日達上人猊下御說法』一三~二四㌻
「教師補任式」 同 二七~三五㌻
(61)浅井昭衛 富士 昭和四七年三月号_七㌻
(62)日達上人「天生原.天生山.六万坊の名称と本宗の関係につぃての一考察」」
大日蓮 昭和四五年九月号 一四㌻
日達上人全集 ニー五ー三一二㌻