さて、この奉安堂においても、日達上人の時と同じように「御戒壇説法」があります。
これはもちろん二大法要の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。しかし、昔はそうではなかったのです。このことを知る人も、ここにはいないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。だいたい、総本山第六十世日開上人から第六十二世日恭上人のころで、戦前の話だが、そのころはしょっちゅう「御戒壇説法」があったのです。
例えば、ある日は十人なら十人、十五人なら十五人の登山者があると、そのなかに初登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。すると、初登山者が一人でも一二人でもある時には必ず、御法主が「御戒壇説法」をされたわけです。もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。とにかく、昔はそういうように「御戒壇説法」をしたのです。
その時の「御戒壇説法」は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。
ところが、先程話したように、私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。
それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の「(77)御戒壇説法」というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、「御戒壇説法」を扇子にずっと書かれていたのです。たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。また御先師の日應上人の「御戒壇説法」にもないのです。だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、六十世日開上人の写本としてはあったのです。もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。
ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、八百万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。しかし三十万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布(78)」に向かっての行業を進めるわけであります。要は、日寛上人が「法華取要抄文段」で、
「広宣流布の時至れば一闇浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其(そ)の処は皆是(こ)れ義理の戒壇なり。然(しか)りと難(いえど)仍(なお)も是れ枝流にして、是れ根源に非(あら)ず。正(まさ)に本門戒壇の本尊所住(しょじゅう)の処、即(すなわ)ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段 五四三㌻ )
とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。だから、「御戒壇説法」の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。もちろん、これは「御戒壇説法」の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入ることにおいて、日寛上人が
「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。このことは一年に二回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。
(77)日開上人「御戒壇説法」日開上人全集 四~七㌻
(78)日達上人「時局懇談会」『日達上人猊下御説法』一九㌻
これはもちろん二大法要の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。しかし、昔はそうではなかったのです。このことを知る人も、ここにはいないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。だいたい、総本山第六十世日開上人から第六十二世日恭上人のころで、戦前の話だが、そのころはしょっちゅう「御戒壇説法」があったのです。
例えば、ある日は十人なら十人、十五人なら十五人の登山者があると、そのなかに初登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。すると、初登山者が一人でも一二人でもある時には必ず、御法主が「御戒壇説法」をされたわけです。もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。とにかく、昔はそういうように「御戒壇説法」をしたのです。
その時の「御戒壇説法」は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。
ところが、先程話したように、私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。
それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の「(77)御戒壇説法」というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、「御戒壇説法」を扇子にずっと書かれていたのです。たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。また御先師の日應上人の「御戒壇説法」にもないのです。だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、六十世日開上人の写本としてはあったのです。もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。
ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、八百万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。しかし三十万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布(78)」に向かっての行業を進めるわけであります。要は、日寛上人が「法華取要抄文段」で、
「広宣流布の時至れば一闇浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其(そ)の処は皆是(こ)れ義理の戒壇なり。然(しか)りと難(いえど)仍(なお)も是れ枝流にして、是れ根源に非(あら)ず。正(まさ)に本門戒壇の本尊所住(しょじゅう)の処、即(すなわ)ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段 五四三㌻ )
とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。だから、「御戒壇説法」の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。もちろん、これは「御戒壇説法」の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入ることにおいて、日寛上人が
「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。このことは一年に二回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。
(77)日開上人「御戒壇説法」日開上人全集 四~七㌻
(78)日達上人「時局懇談会」『日達上人猊下御説法』一九㌻