そこで、平成三年三月九日に私が色々と述べたことに関してですが、私が教学部長時代に書きました「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という本があります。そのなかに、正本堂は広布の時に「一期弘法抄』「三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っております。この時はまだ正本堂もありましたから当然、その願望は込めつつも、未来の一切は御仏意に委(ゆだ)ね奉るのであると言ったのであります。(74)
ところが平成三年の十二月八日に、池田大作は、
「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した(取意)」
(聖教新聞 平成三年一二月一〇日付)
という主旨のことを言っているのです。これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。昭和五十四年からずっと総本山にいるのです。ただ平成二年十二月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、その付則として前の「宗規」によって任命された総講頭·大講頭等はいったん資格が喪失したに過ぎないのです。しかし、そういうことを言っているのです。
そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、(75)このうち日達上人のお衣や願文等、記念の品は現在、きちんとお山で保管してあります。
それで、昭和四十七年の「国立戒壇論の誤りについて』と昭和五十一年の一「本門事の戒壇の本義」は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を「三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
あのなかでは、王法や勅宣·御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。(76)これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣·御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。
それから「一期弘法抄」の「国主」ということの考え方、これもそうです。今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。
とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誠、また御命題として我々にお残しくださった「三大秘法抄』「一期弘法抄」の「戒壇」の文については、軽々に論ずるべきではないと思います。もちろん今、ある時点を予測して考えれば色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。だから、そんなことに関して今、具体的な形で言う必要はないのです。根本において、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確には顕れません。よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。
(74) 大日蓮 平成三年四月号 二九 ㌻
(75) 池田大作 聖教新聞 平成三年一二月一〇日付
(76) 「本門事の戒壇の本義』二一㌻
大日蓮 昭和五一年三月号 四三㌻
ところが平成三年の十二月八日に、池田大作は、
「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した(取意)」
(聖教新聞 平成三年一二月一〇日付)
という主旨のことを言っているのです。これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。昭和五十四年からずっと総本山にいるのです。ただ平成二年十二月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、その付則として前の「宗規」によって任命された総講頭·大講頭等はいったん資格が喪失したに過ぎないのです。しかし、そういうことを言っているのです。
そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、(75)このうち日達上人のお衣や願文等、記念の品は現在、きちんとお山で保管してあります。
それで、昭和四十七年の「国立戒壇論の誤りについて』と昭和五十一年の一「本門事の戒壇の本義」は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を「三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
あのなかでは、王法や勅宣·御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。(76)これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣·御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。
それから「一期弘法抄」の「国主」ということの考え方、これもそうです。今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。
とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誠、また御命題として我々にお残しくださった「三大秘法抄』「一期弘法抄」の「戒壇」の文については、軽々に論ずるべきではないと思います。もちろん今、ある時点を予測して考えれば色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。だから、そんなことに関して今、具体的な形で言う必要はないのです。根本において、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確には顕れません。よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。
(74) 大日蓮 平成三年四月号 二九 ㌻
(75) 池田大作 聖教新聞 平成三年一二月一〇日付
(76) 「本門事の戒壇の本義』二一㌻
大日蓮 昭和五一年三月号 四三㌻