阿含宗(あごんしゅう)とは
仏教系の新興宗教団体である阿含宗の総本山 (釈迦山大菩提寺)は、京都盆地の東にある。 毎年、二壇護摩(にだんごま)という日本最大級の護摩壇が派手に組まれ、山伏(やまぶし)姿の修行者が焚(た)く護摩木が三千万本以上。 大量の白煙を上げながら上る炎は高さ二十メートルに達し、そこに参拝者は手を合わせる。
これが宣伝で目にする「阿合の星まつり」である。
阿合系という名称だけを聞くと、歴史ある既成仏教の一派かと思いがちだが、その実は管長の桐山靖雄(せいゆう)が「観音慈恵(じけい)会」を経て、昭和五十三年に設立した。
コロコロ変わる「仏」
教団のホームページに、「仏教における信仰は、『仏』『法』『僧』の三大要素によって成り立ちます。仏教教団は、この三つの要素が正しいものであると同時に、 すべてそろっていなければなりません。つまり、正しい教団か否かは、それによって決定するわけです」と述べる。
三宝が調(ととの)っているふりをしているので、それを破す。まず「仏」は、現在は「真身舎利(しんじんしゃり)」と呼ぶものを本尊とする。しかし、ここに至るまでコロコロと本尊が入れ替わってきている。
まず阿含宗の前身、昭和二十九年に設立した観音慈恵会時代は「準胝(じゅんてい)観世音」なるものが本尊だった。
阿舎宗を立てた後も「準胝観世音」を本尊としていたが、立宗翌年の昭和五十四年、「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)」で火焔(かえん)の中に突如として姿を現わしたといって、「大日如来・釈迦如来・準胝如来の三身即一の如来」を本尊に変えた。
その後、昭和六十一年に現在の本尊に換わる。スリランカの国家的行事である仏舎利(ぶっしゃり)の分骨贈与が受取側の不都合で中止となり、たまたまその仏舎利を入手できた管長の桐山は、これを「真正(しんせい)仏舎利(真身舎利)」と称して本尊としたのである。
法華経で釈尊自身が、
「復(また)舎利を安んずることを須(もち)いず」(法華経 三一二六㌻)
と、仏舎利を本尊として祀(まつ)るのを厳しく誠(いまし)められていることを知らないのか。
一貫性ない「法」
次に「法」については、「成仏法」「如意宝珠法」「求聞持聡明(ぐもんじそうめい)法」の三つを修行法と標榜(ひょうぼう)する。
立宗時にはこれらが決まっておらず、「準胝尊。因縁解脱千座(げだつせんざ)行」から「仏舎利宝珠尊・解脱宝生行」へ変遷(へんせん)したり、
阿含経の教説に基づくとしながら実践において密教様式を取り入れたりと、支離滅裂な様相を呈(てい)している。
所依の経興も、立宗以前は「準胝観音経」や「般若(はんにゃ)心経」だったものを、立宗後に「阿含経」へ変えたりと、こちらも全く一賃性がない。
欺瞞(ぎまん)に満ちた「僧」
さらに「僧」については、教団そのものや指導者たる桐山管長のことを指(さ)すそうである。
管長の思いつきで変わる本尊や所依の経典、修行法などを見れば、指導者や教団がいかに僧宝たり得ない欺瞞(ぎまん)に満ちたものであるかは明白であろう。
『如説修行抄』に、
「諸経は無得道堕(だ)地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の法なり云云」(御書 六七三㌻)
と日蓮大聖人が説かれる通り、末法の今日は、法華経を受持信行することによってのみ、即身成仏が叶う。
仏教を必死で装う哀れさ
仏教を装いたいために、三宝を持ち出したり、著書で「釈尊に帰れ」と叫んだり。 あるいは、
「釈尊が、成仏するための修行方法は阿含経という経典のみに記されているなどということは、ずうっと後世に至るまで誰も知らないことである
(阿含宗が世に出てこれを説くまで、誰も知らなかったのである)〈趣意)」(人は輪廻転生するか 二三三㌻)
などと、大嘘をまことしやかに言ってのける。だが、
「法華経には成仏のための修行法が示されていないという欠陥がある (趣意)」(同二三三㌻)
と真っ向から法華経を否定しなければ教団が成立し得ないのだから、さぞ苦しいことだろう。
(大白法 令和二年十二月十六日)
仏教系の新興宗教団体である阿含宗の総本山 (釈迦山大菩提寺)は、京都盆地の東にある。 毎年、二壇護摩(にだんごま)という日本最大級の護摩壇が派手に組まれ、山伏(やまぶし)姿の修行者が焚(た)く護摩木が三千万本以上。 大量の白煙を上げながら上る炎は高さ二十メートルに達し、そこに参拝者は手を合わせる。
これが宣伝で目にする「阿合の星まつり」である。
阿合系という名称だけを聞くと、歴史ある既成仏教の一派かと思いがちだが、その実は管長の桐山靖雄(せいゆう)が「観音慈恵(じけい)会」を経て、昭和五十三年に設立した。
コロコロ変わる「仏」
教団のホームページに、「仏教における信仰は、『仏』『法』『僧』の三大要素によって成り立ちます。仏教教団は、この三つの要素が正しいものであると同時に、 すべてそろっていなければなりません。つまり、正しい教団か否かは、それによって決定するわけです」と述べる。
三宝が調(ととの)っているふりをしているので、それを破す。まず「仏」は、現在は「真身舎利(しんじんしゃり)」と呼ぶものを本尊とする。しかし、ここに至るまでコロコロと本尊が入れ替わってきている。
まず阿含宗の前身、昭和二十九年に設立した観音慈恵会時代は「準胝(じゅんてい)観世音」なるものが本尊だった。
阿舎宗を立てた後も「準胝観世音」を本尊としていたが、立宗翌年の昭和五十四年、「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)」で火焔(かえん)の中に突如として姿を現わしたといって、「大日如来・釈迦如来・準胝如来の三身即一の如来」を本尊に変えた。
その後、昭和六十一年に現在の本尊に換わる。スリランカの国家的行事である仏舎利(ぶっしゃり)の分骨贈与が受取側の不都合で中止となり、たまたまその仏舎利を入手できた管長の桐山は、これを「真正(しんせい)仏舎利(真身舎利)」と称して本尊としたのである。
法華経で釈尊自身が、
「復(また)舎利を安んずることを須(もち)いず」(法華経 三一二六㌻)
と、仏舎利を本尊として祀(まつ)るのを厳しく誠(いまし)められていることを知らないのか。
一貫性ない「法」
次に「法」については、「成仏法」「如意宝珠法」「求聞持聡明(ぐもんじそうめい)法」の三つを修行法と標榜(ひょうぼう)する。
立宗時にはこれらが決まっておらず、「準胝尊。因縁解脱千座(げだつせんざ)行」から「仏舎利宝珠尊・解脱宝生行」へ変遷(へんせん)したり、
阿含経の教説に基づくとしながら実践において密教様式を取り入れたりと、支離滅裂な様相を呈(てい)している。
所依の経興も、立宗以前は「準胝観音経」や「般若(はんにゃ)心経」だったものを、立宗後に「阿含経」へ変えたりと、こちらも全く一賃性がない。
欺瞞(ぎまん)に満ちた「僧」
さらに「僧」については、教団そのものや指導者たる桐山管長のことを指(さ)すそうである。
管長の思いつきで変わる本尊や所依の経典、修行法などを見れば、指導者や教団がいかに僧宝たり得ない欺瞞(ぎまん)に満ちたものであるかは明白であろう。
『如説修行抄』に、
「諸経は無得道堕(だ)地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の法なり云云」(御書 六七三㌻)
と日蓮大聖人が説かれる通り、末法の今日は、法華経を受持信行することによってのみ、即身成仏が叶う。
仏教を必死で装う哀れさ
仏教を装いたいために、三宝を持ち出したり、著書で「釈尊に帰れ」と叫んだり。 あるいは、
「釈尊が、成仏するための修行方法は阿含経という経典のみに記されているなどということは、ずうっと後世に至るまで誰も知らないことである
(阿含宗が世に出てこれを説くまで、誰も知らなかったのである)〈趣意)」(人は輪廻転生するか 二三三㌻)
などと、大嘘をまことしやかに言ってのける。だが、
「法華経には成仏のための修行法が示されていないという欠陥がある (趣意)」(同二三三㌻)
と真っ向から法華経を否定しなければ教団が成立し得ないのだから、さぞ苦しいことだろう。
(大白法 令和二年十二月十六日)