高野山真言宗の総本山・金剛峯寺では、毎年、春と秋に「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」が行われている。
結縁灌頂とは、宗旨・宗派を問わず、広く在家の者に仏縁を結ばせるための儀式とされる。
同寺の公式ホームページに掲載の体験談によれば、儀式中に唱和される真言(呪文(じゅもん))が、堂内に響き渡り、その音響効果で何とも神秘的だそうだ。
そんな灌頂を受けようと、朝早くから行列ができ、中には人数制限で受けられない者もいたという。
そこで、昨年からはチケット先行販売を行うほか、高野山東京別院でも開催しており、その人気の程が判る。
怪しい儀式
儀式は大きく、灌頂と投華得仏(とうけとくぶつ)に分けられる。
灌頂は「水を頂(いただ)きに潅(そそ)ぐ」の意で、古代インドの、国王が即位する際に四大海の水を頭頂に潅ぐ儀式がもとになったもの。
それを密教が取り入れ、大日如来の五智を表す五大水を頂きに潅ぎ、仏智を得る儀式としたのである。
また、投華得仏とは、自分の有縁の仏を見つける儀式とされる。すなわち、
「目隠しをしてこの真言を唱え、印(いん)を組み、シキミの葉(華)を持ちます。(中略)そして曼荼羅(まんだら)の前にて僧侶の指示に従い、シキミの華を投華(とうげ)します。」(公式ホームページ)
というもの、どうやら、華が着地した場所に描かれている尊像を自分に有縁の仏と決めつけるようだ(ただし、実際はどこに落ちても大日如来の所に落ちたことにされると仄聞(そくぶん)する)。
この結縁灌頂は、何度でも受けられ、受けたからといって入信する必要もないという。
何ともふざけた話だ。
本来、結縁には、仏と因縁を結び、仏道修行に入るという大事な意義がある。
それを、秘儀と称する怪しげなまじないで人々を枉惑(おうわく)しているのだ。
気楽に受けられる、と言えば聞こえはいいが、正しい因果を説いていない。所詮、人々の祈りを踏みにじる無慈悲な行為と言える。
無縁の大日如来
そもそも、大日如来とは、どのような仏なのか。
真言宗では大日如来を、宇宙そのもの、命あるすべてを生み出(い)だせし最高仏であるとする。
さらに、これに対して、仏教を説き出だした釈尊のことを、大日如来の教えを弘めるために現れた化身としている。
しかし、釈尊が大日経等を説いたのは御一代の中の中間、方等(ほうどう)部である。
法華経の開経である『無量義経』には、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)
また、法華経の『法師品』には、
「我が所説の諸経 而(しか)も此の経の中に於て、法華経最も第一なり」(同 三二五㌻)
と、 爾前権経は方便の教えであり、釈尊の御一代における御正意は法華経にこそ明らかであると説示されている。
さらに、日蓮大聖人は『諸宗問答抄』の中で、
「一句一偈も大日の父母なし、説く所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来」(御書 三七㌻)
と仰せである。
すなわち、大日如来は現実世界に実際に現われ、化導をしたということは全くない。
あくまでも釈尊が衆生を導くために現わした、方便垂仏(すいぶつ)の仏である。
その架空の仏と我々娑婆世界の衆生とが結縁することなど、けっしてないと知らなければならない。
正しきに結縁せよ
このような真言宗の所業を大聖人は、
「法華経にして仏になれる衆生を真言の権経にて供養すれば、還(かえ)って仏を死(ころ)し、眼をくじり、寿命(いのち)を断(た)ち、喉(のんど)をさき(裂)なんとする人々なり」(御書 一五三七㌻)
と喝破(かっぱ)されている。
無縁の大日如来との結縁灌頂は、無益どころか、かえって不幸の原因を積む謗法の行為なのだ。
末法今日(こんにち)においては、御本仏たる大聖人が顕わされた御本尊こそ、一切衆生を成仏得道に導くのである。
我々は、真言宗の誑惑に騙(だま)されている人を一人でも多く救うべく、折伏による下種結縁の行業に邁進(まいしん)しようではないか。
(大日蓮 第一〇〇〇七号 令和元年六月十六日号)
結縁灌頂とは、宗旨・宗派を問わず、広く在家の者に仏縁を結ばせるための儀式とされる。
同寺の公式ホームページに掲載の体験談によれば、儀式中に唱和される真言(呪文(じゅもん))が、堂内に響き渡り、その音響効果で何とも神秘的だそうだ。
そんな灌頂を受けようと、朝早くから行列ができ、中には人数制限で受けられない者もいたという。
そこで、昨年からはチケット先行販売を行うほか、高野山東京別院でも開催しており、その人気の程が判る。
怪しい儀式
儀式は大きく、灌頂と投華得仏(とうけとくぶつ)に分けられる。
灌頂は「水を頂(いただ)きに潅(そそ)ぐ」の意で、古代インドの、国王が即位する際に四大海の水を頭頂に潅ぐ儀式がもとになったもの。
それを密教が取り入れ、大日如来の五智を表す五大水を頂きに潅ぎ、仏智を得る儀式としたのである。
また、投華得仏とは、自分の有縁の仏を見つける儀式とされる。すなわち、
「目隠しをしてこの真言を唱え、印(いん)を組み、シキミの葉(華)を持ちます。(中略)そして曼荼羅(まんだら)の前にて僧侶の指示に従い、シキミの華を投華(とうげ)します。」(公式ホームページ)
というもの、どうやら、華が着地した場所に描かれている尊像を自分に有縁の仏と決めつけるようだ(ただし、実際はどこに落ちても大日如来の所に落ちたことにされると仄聞(そくぶん)する)。
この結縁灌頂は、何度でも受けられ、受けたからといって入信する必要もないという。
何ともふざけた話だ。
本来、結縁には、仏と因縁を結び、仏道修行に入るという大事な意義がある。
それを、秘儀と称する怪しげなまじないで人々を枉惑(おうわく)しているのだ。
気楽に受けられる、と言えば聞こえはいいが、正しい因果を説いていない。所詮、人々の祈りを踏みにじる無慈悲な行為と言える。
無縁の大日如来
そもそも、大日如来とは、どのような仏なのか。
真言宗では大日如来を、宇宙そのもの、命あるすべてを生み出(い)だせし最高仏であるとする。
さらに、これに対して、仏教を説き出だした釈尊のことを、大日如来の教えを弘めるために現れた化身としている。
しかし、釈尊が大日経等を説いたのは御一代の中の中間、方等(ほうどう)部である。
法華経の開経である『無量義経』には、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 二三㌻)
また、法華経の『法師品』には、
「我が所説の諸経 而(しか)も此の経の中に於て、法華経最も第一なり」(同 三二五㌻)
と、 爾前権経は方便の教えであり、釈尊の御一代における御正意は法華経にこそ明らかであると説示されている。
さらに、日蓮大聖人は『諸宗問答抄』の中で、
「一句一偈も大日の父母なし、説く所なし、生死の所なし、有名無実の大日如来」(御書 三七㌻)
と仰せである。
すなわち、大日如来は現実世界に実際に現われ、化導をしたということは全くない。
あくまでも釈尊が衆生を導くために現わした、方便垂仏(すいぶつ)の仏である。
その架空の仏と我々娑婆世界の衆生とが結縁することなど、けっしてないと知らなければならない。
正しきに結縁せよ
このような真言宗の所業を大聖人は、
「法華経にして仏になれる衆生を真言の権経にて供養すれば、還(かえ)って仏を死(ころ)し、眼をくじり、寿命(いのち)を断(た)ち、喉(のんど)をさき(裂)なんとする人々なり」(御書 一五三七㌻)
と喝破(かっぱ)されている。
無縁の大日如来との結縁灌頂は、無益どころか、かえって不幸の原因を積む謗法の行為なのだ。
末法今日(こんにち)においては、御本仏たる大聖人が顕わされた御本尊こそ、一切衆生を成仏得道に導くのである。
我々は、真言宗の誑惑に騙(だま)されている人を一人でも多く救うべく、折伏による下種結縁の行業に邁進(まいしん)しようではないか。
(大日蓮 第一〇〇〇七号 令和元年六月十六日号)