「詭弁(きべん)」の語意には、
「弁論術で、弱い根拠を強く見せかけ、間違った理屈を正しいと思いこませること」(新潮国語辞典)
というものがある。
たいした根拠もない(その根拠すら怪しい)話に、勝手な解釈を加えつつ本筋をゴマカシながら、さもそれが
正しいかのように取り繕(つくろ)う論法である。
浅井昭衛を首魁(しゅかい)とする顕正会は、この詭弁を駆使して様々な教義や事柄を「正しい」と信じこませて
会員を扇動(せんどう)し、正論や真実を指摘されて都合の悪い立場に追い込まれるとダンマリを決め込む、
ということを繰り返す性質があり、実に無責任極まりない団体である。
臨終の相についての誹謗(ひぼう)
顕正会が昨秋に突如として喧伝(けんでん)し始めた「日達上人の御臨終の相についての誹謗中傷」は、その典型的な事例と言える。
内藤某という男子部員が「日達上人の縁戚の母から聞いた」という、ただの又聞きを根拠に、「三回見舞いに行った」
などの具体的な内容を混ぜて信憑性(しんぴょうせい)が高そうに見せかけ、
「(臨終の相は)今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった」
(顕正新聞 平成三十年十月五日付)
などと発表した。
そして、それをもとに浅井や幹部、さらには末端の会員までもが、さも真実かのように嬉々として吹聴(ふいちょう)していったのである。
その後の調査で、「縁戚の母」なる人物は、日達上人の縁戚でも何でもないことが判明した。
さらに、実際に臨終時の御相猊(ごそうみょう)を拝した多くの人(立ち会った人は本宗の僧俗だけでも現在五十代以上のほぼ全員)に確認
したところ、
「悪臨終の相なんてまったくの嘘」
「生前と変わらないすばらしい相」
と証言している。
これらの事実を当欄で指摘したが、顕正新聞一月五日付けに末端の会員名で、証拠も具体的な関係も示さず印象操作のすり替え(つまり詭弁)の反論を掲載し、浅井や幹部は頬被(ほおかぶ)りを決め込んでいる。
この話の肝(きも)である「縁戚の母」が否定された以上、何も言えるはずがないのだが・・・。
反論不能ならば、自らの非を認めて謝罪なり訂正なりをすべきことは、子供でも判る道理である。
認めなければ勝ち?
また最近、顕正会では、寺院を訪問して盛んに僧侶と対論している、中には「論破しにきた」などと息巻いている者もいるらしい。
そのやり口は、どれも似通っていて、
①多人数で押しかける。
②適当な時を見計らって一斉に大声を出して威嚇(いかく)する。
③詭弁や論点はずしを駆使する
と言ったもの。
それを顕正新聞紙上で活動報告として、僧侶が「返答に窮(きゅう)した」「無智・無道心を露呈(ろてい)した」
などと、まるで論破したかのように発表するのである。
実際に対面した僧侶に話を聞いてみると、中心者の幹部以外はほとんど日蓮大聖人の御法門を知らず、その幹部にしてみても文証・理証を無視して、浅井の邪説を述べるに過ぎなかったそうだ。
録音したものを聞くと、
「僧侶を論破した」は全くの嘘で、実際には「浅井先生は正しい」と連呼するだけで、どんなに正しい道理を示されても認めず、都合が悪くなると逃げながらも、「勝った、勝った」と嘯(うそぶ)いているに過ぎない。
詭弁で成り立つ浅井ら顕正会の体質がよく現れている。
暗証の者たる顕正会
大聖人は、
「非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり」
(御書 三五㌻)
と仰せられ、経論や道理を無視する禅宗の僧らを「暗証の者」として厳しく破折されている。
御書を直接拝することができず、道理や文証を無視し、ただひたすらに浅井の己義を盲信する顕正会員は、
まさに「暗証の者」。
我々日蓮正宗の僧俗は、一人でも多くの会員を救うべく、大いに折伏に邁進していこうではないか。
(大白法 平成三十一年四月一日号)
「弁論術で、弱い根拠を強く見せかけ、間違った理屈を正しいと思いこませること」(新潮国語辞典)
というものがある。
たいした根拠もない(その根拠すら怪しい)話に、勝手な解釈を加えつつ本筋をゴマカシながら、さもそれが
正しいかのように取り繕(つくろ)う論法である。
浅井昭衛を首魁(しゅかい)とする顕正会は、この詭弁を駆使して様々な教義や事柄を「正しい」と信じこませて
会員を扇動(せんどう)し、正論や真実を指摘されて都合の悪い立場に追い込まれるとダンマリを決め込む、
ということを繰り返す性質があり、実に無責任極まりない団体である。
臨終の相についての誹謗(ひぼう)
顕正会が昨秋に突如として喧伝(けんでん)し始めた「日達上人の御臨終の相についての誹謗中傷」は、その典型的な事例と言える。
内藤某という男子部員が「日達上人の縁戚の母から聞いた」という、ただの又聞きを根拠に、「三回見舞いに行った」
などの具体的な内容を混ぜて信憑性(しんぴょうせい)が高そうに見せかけ、
「(臨終の相は)今までに見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だった」
(顕正新聞 平成三十年十月五日付)
などと発表した。
そして、それをもとに浅井や幹部、さらには末端の会員までもが、さも真実かのように嬉々として吹聴(ふいちょう)していったのである。
その後の調査で、「縁戚の母」なる人物は、日達上人の縁戚でも何でもないことが判明した。
さらに、実際に臨終時の御相猊(ごそうみょう)を拝した多くの人(立ち会った人は本宗の僧俗だけでも現在五十代以上のほぼ全員)に確認
したところ、
「悪臨終の相なんてまったくの嘘」
「生前と変わらないすばらしい相」
と証言している。
これらの事実を当欄で指摘したが、顕正新聞一月五日付けに末端の会員名で、証拠も具体的な関係も示さず印象操作のすり替え(つまり詭弁)の反論を掲載し、浅井や幹部は頬被(ほおかぶ)りを決め込んでいる。
この話の肝(きも)である「縁戚の母」が否定された以上、何も言えるはずがないのだが・・・。
反論不能ならば、自らの非を認めて謝罪なり訂正なりをすべきことは、子供でも判る道理である。
認めなければ勝ち?
また最近、顕正会では、寺院を訪問して盛んに僧侶と対論している、中には「論破しにきた」などと息巻いている者もいるらしい。
そのやり口は、どれも似通っていて、
①多人数で押しかける。
②適当な時を見計らって一斉に大声を出して威嚇(いかく)する。
③詭弁や論点はずしを駆使する
と言ったもの。
それを顕正新聞紙上で活動報告として、僧侶が「返答に窮(きゅう)した」「無智・無道心を露呈(ろてい)した」
などと、まるで論破したかのように発表するのである。
実際に対面した僧侶に話を聞いてみると、中心者の幹部以外はほとんど日蓮大聖人の御法門を知らず、その幹部にしてみても文証・理証を無視して、浅井の邪説を述べるに過ぎなかったそうだ。
録音したものを聞くと、
「僧侶を論破した」は全くの嘘で、実際には「浅井先生は正しい」と連呼するだけで、どんなに正しい道理を示されても認めず、都合が悪くなると逃げながらも、「勝った、勝った」と嘯(うそぶ)いているに過ぎない。
詭弁で成り立つ浅井ら顕正会の体質がよく現れている。
暗証の者たる顕正会
大聖人は、
「非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり」
(御書 三五㌻)
と仰せられ、経論や道理を無視する禅宗の僧らを「暗証の者」として厳しく破折されている。
御書を直接拝することができず、道理や文証を無視し、ただひたすらに浅井の己義を盲信する顕正会員は、
まさに「暗証の者」。
我々日蓮正宗の僧俗は、一人でも多くの会員を救うべく、大いに折伏に邁進していこうではないか。
(大白法 平成三十一年四月一日号)