顕正会の会員数は、昨年末時点で約百八十五万人、二年後には二百万人に到達する見込みであるという。
実体として、そこまでの人員がいるとは甚(はなは)だ疑わしいが、顕正新聞によると本年四月に行われた静岡・山梨・長野・岐阜を対象にした中部大会では一万千五百名を結集したというから、未だに多くの人が会長・浅井昭衛の話術によって誑(たぶら)かされている現状がある。
「国立戒壇」にすがる浅井
この中部大会における浅井の発言を見てみると、「国立戒壇」という顕正会存続の唯一の手立てにすがり、日蓮大聖人の正統団体を装うことに躍起(やっき)になっている。
浅井は、
「正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ一筋に日蓮大聖人の出生の御本懐たる『本門戒壇の大御本尊様』を護持し奉り、御遺命たる『国立戒壇建立』を、唯一の悲願・宿願として来たのです」
(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
と、あたかも大聖人が「国立戒壇」の名称を示して御遺命とされたかのように話を進めているが、実際は御書中のどこにも「国立戒壇」の文言はない。
大聖人の御遺命は『一期弘法付嘱書』に示されるところの、
「本門の戒壇」(御書 一六七五㌻)
である。
時期を鑑(かんが)み、本宗では一切しなくなった「国立戒壇」の名称に拘泥(こうでい)する様は、まさに大聖人の御意に背(そむ)いた姿なのである。
過去を隠蔽(いんぺい)
さらに浅井は、
「学会員を欺(あさむ)いて三五〇億円を集め、大石寺の境内(けいだい)に壮大・豪華な偽戒壇・正本堂を建てた」
(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
と、池田大作を批判してもいる。
まるで顕正会が、初めから正本堂建設に反対しているかのような言であるが、建設当時の発言を見ると、
「今回総本山に於いて御法主上人猊下の御思召(おんおぼしめ)しによりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒壇の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、妙信講(顕正会の前身)も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました」(富士 昭和四十年六月号)
とあるように、浅井が正本堂建設を「重大な慶事」ととらえ、「全力を挙げ真心を込めて」御供養を推進していたことが判る。
また、御開扉に関して現在では、
「そしていま、営利のための御開扉を、法華講員の尻を叩き鞭(むち)を当てて強行している。まことに恐れ多い。何たる無道心かと私は思っております」(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
などど批判しているが、これについても破門前の昭和四十年に、前会長・浅井甚兵衛は、
「およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります」(富士 昭和六十一年八月号)
と述べ、浅井昭衛自身も昭和四十六年に御開扉内拝を許された際に、
「未だ時至らざる今日、猊下のお許しを給わり御内拝させて頂いたこと誠に有難いことであります」(同 昭和四十六年九月号)
実体として、そこまでの人員がいるとは甚(はなは)だ疑わしいが、顕正新聞によると本年四月に行われた静岡・山梨・長野・岐阜を対象にした中部大会では一万千五百名を結集したというから、未だに多くの人が会長・浅井昭衛の話術によって誑(たぶら)かされている現状がある。
「国立戒壇」にすがる浅井
この中部大会における浅井の発言を見てみると、「国立戒壇」という顕正会存続の唯一の手立てにすがり、日蓮大聖人の正統団体を装うことに躍起(やっき)になっている。
浅井は、
「正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ一筋に日蓮大聖人の出生の御本懐たる『本門戒壇の大御本尊様』を護持し奉り、御遺命たる『国立戒壇建立』を、唯一の悲願・宿願として来たのです」
(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
と、あたかも大聖人が「国立戒壇」の名称を示して御遺命とされたかのように話を進めているが、実際は御書中のどこにも「国立戒壇」の文言はない。
大聖人の御遺命は『一期弘法付嘱書』に示されるところの、
「本門の戒壇」(御書 一六七五㌻)
である。
時期を鑑(かんが)み、本宗では一切しなくなった「国立戒壇」の名称に拘泥(こうでい)する様は、まさに大聖人の御意に背(そむ)いた姿なのである。
過去を隠蔽(いんぺい)
さらに浅井は、
「学会員を欺(あさむ)いて三五〇億円を集め、大石寺の境内(けいだい)に壮大・豪華な偽戒壇・正本堂を建てた」
(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
と、池田大作を批判してもいる。
まるで顕正会が、初めから正本堂建設に反対しているかのような言であるが、建設当時の発言を見ると、
「今回総本山に於いて御法主上人猊下の御思召(おんおぼしめ)しによりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒壇の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、妙信講(顕正会の前身)も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました」(富士 昭和四十年六月号)
とあるように、浅井が正本堂建設を「重大な慶事」ととらえ、「全力を挙げ真心を込めて」御供養を推進していたことが判る。
また、御開扉に関して現在では、
「そしていま、営利のための御開扉を、法華講員の尻を叩き鞭(むち)を当てて強行している。まことに恐れ多い。何たる無道心かと私は思っております」(顕正新聞 平成二十九年四月二十五日付)
などど批判しているが、これについても破門前の昭和四十年に、前会長・浅井甚兵衛は、
「およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として『死ね』と云うことであります」(富士 昭和六十一年八月号)
と述べ、浅井昭衛自身も昭和四十六年に御開扉内拝を許された際に、
「未だ時至らざる今日、猊下のお許しを給わり御内拝させて頂いたこと誠に有難いことであります」(同 昭和四十六年九月号)
妙信講(顕正会の前身)の機関紙 富士
(※破折資料として画像を掲載しました 広報部)
(※破折資料として画像を掲載しました 広報部)
と、御開扉の歓喜と大切さとを述べていたのである。
このように浅井ら顕正会は、都合が悪い過去を隠蔽(いんぺい)し、口では「大御本尊への尊崇」を言いながら、実際は多くの会員を大御本尊から遠ざけることに尽力しているのだ。
自分の目で確かめる
顕正会の過去の姿や浅井の指導の変遷(へんせん)については、調べればいくらでも見ることができる。
しかし、顕正会では、真実を知られないように、末端の会員に対して顕正会批判の本や資料の閲覧はもちろん、インターネットでの検索までをも禁じているそうである。
浅井を盲信し、話を聞こうとしない会員には、自分の目で確かめるよう強く折伏していこうではないか。
(大白法第九六二号 平成二十九年八月一日)
このように浅井ら顕正会は、都合が悪い過去を隠蔽(いんぺい)し、口では「大御本尊への尊崇」を言いながら、実際は多くの会員を大御本尊から遠ざけることに尽力しているのだ。
自分の目で確かめる
顕正会の過去の姿や浅井の指導の変遷(へんせん)については、調べればいくらでも見ることができる。
しかし、顕正会では、真実を知られないように、末端の会員に対して顕正会批判の本や資料の閲覧はもちろん、インターネットでの検索までをも禁じているそうである。
浅井を盲信し、話を聞こうとしない会員には、自分の目で確かめるよう強く折伏していこうではないか。
(大白法第九六二号 平成二十九年八月一日)