北枕。鼻緒(はなお)が切れる。箸を立てる。黒猫が横切る。夜に爪を切る。数字の四十九・・・。
いくつか縁起が悪いとされることを挙(あ)げてみたが、どうだろう。
商売人に限らず、とかく日本人は縁起にこだわる。縁起を担(かつ)ぎ、縁起が悪いことを避(さ)け、努めて縁起のいいことを行う。
世間でいわれるこうした場合の縁起とは、概(おおむ)ね吉凶の兆(きざ)し・前兆を気にかけることを言う。
験(げん)とかジンクスも、ほぼ同義だ。
古くから伝わる縁起は、生活上の戒(いまし)めや知恵を平たく教えるためのもの、語呂合わせや色・形からの連想、名物や特産品、余剰品を売るために言い始めたもの、信仰に関連するものなど、実に多様だ。
そもそも縁起とは
この縁起、実は仏教が語源であることはあまり知られていない。
仏教で説かれる縁起とは、因縁生起(いんねんしょうき)(因縁によって生起する)の略で、直接的要因である因と、間接的要因である縁が結びつくことで、一つの結果が生まれる因果関係を言う。
この法則は、仏教の根本思想である因果の道理に基づいており、因を助け果を生じさせる「外からの働きかけ」の縁は、あくまでも主体ではない。
つまり、縁起のもともとの意味からすれば、人生の幸・不幸は、自身の行為によって決まってくるので、”縁起がいい””縁起が悪い”など、特段気にする必要はない。むしろ、本当に幸福を得たいのならば、いかに善い行いをするか、いかに善い原因を積むかを気にしたほうがいい。
考えてもみて欲しい。履(は)いていれば、いつか下履きの鼻緒は切れる。鼻緒が切れた日にだってよいことは起こる。茶柱が立っても、悪いことは起こる。
要するに、人生万般の善悪の結果を周りの縁起のせいにするのは、全くの筋違いである。あらゆる善悪の結果は、すべて己の過去の業因によると知ることが大切だ。周りの何かのせいにしては、物事をきちんと解決して先に進むことはできない。それどころか、確たる根拠のない縁起を必要以上に気にして、依存するようになれば、時に人生の大事な選択を誤ってしまうかも知れない。
正法に依るべし
断っておくが、著者も箸を垂直に立てたりはしないし、忌(い)み言葉を使わない。
それらは、一般的なマナーとしてやらないのであり、験担ぎではない。
それに、七草粥や年越しそばを食べたりもする。
正しい仏法を信仰していれば、縁起を気にする必要も、験を担ぐ必要もない。
日蓮大聖人が『経王殿御返事』に、
「わざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(御書 六八五㌻)
と仰せのように、正しい御本尊に祈念していくならば、必ず禍(わざわい)は福へと転ずるのであり、縁起やジンクスなどに翻弄(ほんろう)されず、幸福に満ちた確固たる人生を送ることができる。
また『当体義抄』には、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」
(同 六九四㌻)
と仰せである、大聖人の仏法を信じ、南無妙法蓮華経を唱えるならば、
①清浄にして不動の心が具(そな)わる(法身)。
②どんなことも乗り越えられる深い智慧が涌(わ)いてくる(般若)。
③人生を自由自在に遊楽できる命が具(そな)わる(解脱)。
という、仏身に具わる徳が我が身に顕れ、その身のままで成仏の境涯を得られる。
さらに、自身を取り巻く環境を、常寂光土という何物にも崩されない幸福境涯へと転じていくことができるのである。確かな拠(よ)り所のない人が、何か拠り所が欲しくて俗信や迷信に振り回され、不幸になっていく。
このような人たちに、本当に大切なのは、縁起を気にするのではなく、正しい教えに帰依(きえ)し、因縁を正しく知り、善因を積むことにあると教えてあげよう。
(大白法 第九七五号 平成三十年二月十六日)
いくつか縁起が悪いとされることを挙(あ)げてみたが、どうだろう。
商売人に限らず、とかく日本人は縁起にこだわる。縁起を担(かつ)ぎ、縁起が悪いことを避(さ)け、努めて縁起のいいことを行う。
世間でいわれるこうした場合の縁起とは、概(おおむ)ね吉凶の兆(きざ)し・前兆を気にかけることを言う。
験(げん)とかジンクスも、ほぼ同義だ。
古くから伝わる縁起は、生活上の戒(いまし)めや知恵を平たく教えるためのもの、語呂合わせや色・形からの連想、名物や特産品、余剰品を売るために言い始めたもの、信仰に関連するものなど、実に多様だ。
そもそも縁起とは
この縁起、実は仏教が語源であることはあまり知られていない。
仏教で説かれる縁起とは、因縁生起(いんねんしょうき)(因縁によって生起する)の略で、直接的要因である因と、間接的要因である縁が結びつくことで、一つの結果が生まれる因果関係を言う。
この法則は、仏教の根本思想である因果の道理に基づいており、因を助け果を生じさせる「外からの働きかけ」の縁は、あくまでも主体ではない。
つまり、縁起のもともとの意味からすれば、人生の幸・不幸は、自身の行為によって決まってくるので、”縁起がいい””縁起が悪い”など、特段気にする必要はない。むしろ、本当に幸福を得たいのならば、いかに善い行いをするか、いかに善い原因を積むかを気にしたほうがいい。
考えてもみて欲しい。履(は)いていれば、いつか下履きの鼻緒は切れる。鼻緒が切れた日にだってよいことは起こる。茶柱が立っても、悪いことは起こる。
要するに、人生万般の善悪の結果を周りの縁起のせいにするのは、全くの筋違いである。あらゆる善悪の結果は、すべて己の過去の業因によると知ることが大切だ。周りの何かのせいにしては、物事をきちんと解決して先に進むことはできない。それどころか、確たる根拠のない縁起を必要以上に気にして、依存するようになれば、時に人生の大事な選択を誤ってしまうかも知れない。
正法に依るべし
断っておくが、著者も箸を垂直に立てたりはしないし、忌(い)み言葉を使わない。
それらは、一般的なマナーとしてやらないのであり、験担ぎではない。
それに、七草粥や年越しそばを食べたりもする。
正しい仏法を信仰していれば、縁起を気にする必要も、験を担ぐ必要もない。
日蓮大聖人が『経王殿御返事』に、
「わざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(御書 六八五㌻)
と仰せのように、正しい御本尊に祈念していくならば、必ず禍(わざわい)は福へと転ずるのであり、縁起やジンクスなどに翻弄(ほんろう)されず、幸福に満ちた確固たる人生を送ることができる。
また『当体義抄』には、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり」
(同 六九四㌻)
と仰せである、大聖人の仏法を信じ、南無妙法蓮華経を唱えるならば、
①清浄にして不動の心が具(そな)わる(法身)。
②どんなことも乗り越えられる深い智慧が涌(わ)いてくる(般若)。
③人生を自由自在に遊楽できる命が具(そな)わる(解脱)。
という、仏身に具わる徳が我が身に顕れ、その身のままで成仏の境涯を得られる。
さらに、自身を取り巻く環境を、常寂光土という何物にも崩されない幸福境涯へと転じていくことができるのである。確かな拠(よ)り所のない人が、何か拠り所が欲しくて俗信や迷信に振り回され、不幸になっていく。
このような人たちに、本当に大切なのは、縁起を気にするのではなく、正しい教えに帰依(きえ)し、因縁を正しく知り、善因を積むことにあると教えてあげよう。
(大白法 第九七五号 平成三十年二月十六日)