教義的な裏(うら)付(つ)け皆無(かいむ)の「大聖人直結」
かつては池田も「大聖人直結」を否定
前回は、創価学会のいう「御書根本」が邪義であることを指摘した。
「御書根本」などといいながら、御書の御聖意を理解できず、自分たちに都合良く「切り文」として御文を用いる学会の姿は、まさにペテン師の所業である。
また、「宗門が学会攻撃の根拠としていたのは、大聖人が説き示された仏法に基づかないものばかりだった。 まさに『創価の宗教改革』は『大聖人直結』『御書根本』の信心を取り戻す戦いであった」(『創価新報』九月十六日号)
などとして、「宗門が邪·学会が正」と、飽きもせず毎度毎度吹聴(ふいちょう)する姿は、愚かとしか言いようがない。
さて今回は、「御書根本」と並べて学会が強調する「大聖人直結」についてである。
そもそも、「大聖人直結」なる御文も仰せも、存在しない。これは、池田大作による会員洗脳のためのキーワードの一つである。
たとえば、創価学会の勤行方法についての説明文の中に、
「御本尊をあらわされた日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぎ報恩感謝申し上げ、大聖人直結の信心を誓います」(「新会員の友のために」 =学会公式サイト)
とあるが、「大聖人直結って何なのか」「どうすれば直結になるのか」など、まったく説明がなく、不鮮明である。ただ「直結」との言葉だけがあって、内容や教義は皆無といって過言ではない。
要するに、本仏大聖人との直結を強調することにより、第二祖日興上人以来の歴代の御法主上人や、その御弟子たる御僧侶方を、全て無用の存在にしてしまおう、学会員に宗門は不要であると思わせよう、ただ、それだけの狙(なら)いなのである。
そもそも『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書 九二頁)
と御教示のように、また
『日蓮一期弘法付嘱書』『身延山付嘱書』の二箇相承に明らかなように、大聖人の仏法のすべては第二祖日興上人へと御相伝されている。そして日興上人から日目上人・日道上人を経(へ)て、現御法主日如上人に受け継がれている。
つまり、御歴代上人なかんずく御当代日如上人の御指南は大聖人の御言葉と拝せるのであり、もそ大聖人に直結という言葉を使うのなら、日如上人の御指南を通じて、はじめて大聖人に直結することが叶うのである。
よって「大聖人直結」を強調しながら、宗門・御法主上人を不要とする創価学会は、大聖人につながることなどできていない、というわけだ。
池田大作は以前、
「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法でり、真の日蓮大聖人の仏法を信解(しんげ)していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はりえないのである」(『広布と人生を語る』第三巻一九四頁)
と述べていたが、会員諸君はこのことを知っているのか!?
まさに、今の創価学会の行き方が謗法であることを、池田自身が認めているではないか。血脈付法の御法主上人から離れては、正当な日蓮大聖人の門下とは言えないのである。
さらに池田大作は、
「五老僧たちは、”自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である”とし、日興上人に信順できなかった。(中略)その根底は、 日興上人と対等であるなどという倣(おご) りであり、嫉妬(しっと)であり、 保身に堕 (だ) した卑(いや)しい感情であった」(同第巻八〇頁)
とも述べていた。 ここでいう
「五老僧」とは、まさに今日の創価学会のことであり、「傲り、嫉妬、保身に堕した卑しい感情」の姿が今の創価学会の正体であることを、ご丁寧 (ていねい)に説明してくれている。
ぜひ会員には「五老僧」を「創価学会」に、「日興上人」を「御法主上人」に置き換えて、読んでもらいたい。どちらが正しいかは一目瞭然であろう。
慧妙(令和二年十一月一日号)
かつては池田も「大聖人直結」を否定
前回は、創価学会のいう「御書根本」が邪義であることを指摘した。
「御書根本」などといいながら、御書の御聖意を理解できず、自分たちに都合良く「切り文」として御文を用いる学会の姿は、まさにペテン師の所業である。
また、「宗門が学会攻撃の根拠としていたのは、大聖人が説き示された仏法に基づかないものばかりだった。 まさに『創価の宗教改革』は『大聖人直結』『御書根本』の信心を取り戻す戦いであった」(『創価新報』九月十六日号)
などとして、「宗門が邪·学会が正」と、飽きもせず毎度毎度吹聴(ふいちょう)する姿は、愚かとしか言いようがない。
さて今回は、「御書根本」と並べて学会が強調する「大聖人直結」についてである。
そもそも、「大聖人直結」なる御文も仰せも、存在しない。これは、池田大作による会員洗脳のためのキーワードの一つである。
たとえば、創価学会の勤行方法についての説明文の中に、
「御本尊をあらわされた日蓮大聖人を『末法の御本仏』と仰ぎ報恩感謝申し上げ、大聖人直結の信心を誓います」(「新会員の友のために」 =学会公式サイト)
とあるが、「大聖人直結って何なのか」「どうすれば直結になるのか」など、まったく説明がなく、不鮮明である。ただ「直結」との言葉だけがあって、内容や教義は皆無といって過言ではない。
要するに、本仏大聖人との直結を強調することにより、第二祖日興上人以来の歴代の御法主上人や、その御弟子たる御僧侶方を、全て無用の存在にしてしまおう、学会員に宗門は不要であると思わせよう、ただ、それだけの狙(なら)いなのである。
そもそも『一代聖教大意』に、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書 九二頁)
と御教示のように、また
『日蓮一期弘法付嘱書』『身延山付嘱書』の二箇相承に明らかなように、大聖人の仏法のすべては第二祖日興上人へと御相伝されている。そして日興上人から日目上人・日道上人を経(へ)て、現御法主日如上人に受け継がれている。
つまり、御歴代上人なかんずく御当代日如上人の御指南は大聖人の御言葉と拝せるのであり、もそ大聖人に直結という言葉を使うのなら、日如上人の御指南を通じて、はじめて大聖人に直結することが叶うのである。
よって「大聖人直結」を強調しながら、宗門・御法主上人を不要とする創価学会は、大聖人につながることなどできていない、というわけだ。
池田大作は以前、
「いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法でり、真の日蓮大聖人の仏法を信解(しんげ)していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はりえないのである」(『広布と人生を語る』第三巻一九四頁)
と述べていたが、会員諸君はこのことを知っているのか!?
まさに、今の創価学会の行き方が謗法であることを、池田自身が認めているではないか。血脈付法の御法主上人から離れては、正当な日蓮大聖人の門下とは言えないのである。
さらに池田大作は、
「五老僧たちは、”自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である”とし、日興上人に信順できなかった。(中略)その根底は、 日興上人と対等であるなどという倣(おご) りであり、嫉妬(しっと)であり、 保身に堕 (だ) した卑(いや)しい感情であった」(同第巻八〇頁)
とも述べていた。 ここでいう
「五老僧」とは、まさに今日の創価学会のことであり、「傲り、嫉妬、保身に堕した卑しい感情」の姿が今の創価学会の正体であることを、ご丁寧 (ていねい)に説明してくれている。
ぜひ会員には「五老僧」を「創価学会」に、「日興上人」を「御法主上人」に置き換えて、読んでもらいたい。どちらが正しいかは一目瞭然であろう。
慧妙(令和二年十一月一日号)