『大白蓮華』「青年部教学試験2級」特集号(二〇一六年七月号)では、その続きとして「御本尊根本こそ大聖人仏法の魂(たましい)という小見出しを設け、御本尊と金口(こんく)の相承を切り離し、御本尊への信仰だけを強調している。しかし、本宗においては古来より、御本尊を根本に信心することは当たり前である。
それをこのテキストでは自慢げに
「大聖人は、どこまでも御本尊への無二の信仰を強調されている。日興上人も同じである(中略)『日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以って本尊と為さず、唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし』と明確に述べらている」と述べ、さらに
「御本尊に法主を加えて『根本の二つ(※能化文章の「唯授一人の血脈の当処と戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」の文』と
するのは、大聖人、日興上人に背(そむ)く邪義」などと述べている。
今日、本門戒壇の大御本尊を否定する輩(やから)が、「御本尊根本の信心が、大聖人の魂」などと、よくも言えたものだ。
寡廉鮮恥(かれんせんち=節操がなく恥を知らないさま)とはこのことだろう。
この思想の根本には、池田大作が御法主上人に嫉妬(しっと)し、己が全ての中心になりたい、という嫉妬が存する。
その上から、御当代上人をはじめ御歴代上人を蔑(ないがし)ろにして、自分たちが認(みと)めた本尊を信仰していれば功徳はある等と、筋違いも甚だしい事を説くのであり、大謗法の極みだ。
ともあれ、「御本尊だけを根本とする信心が、大聖人の仏法の魂」ではない。
日寛上人が
「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承として一器の水を瀉(うつ)すが如く」(富要集十巻 一三一頁)
と仰せのように、三大秘法の随一たる本門戒壇の大御本尊、並びに大聖人から連綿と続く金口の相承、この二つこそ大聖人の仏法の根本なのであり、この二つを根本に信仰することが古来からの正しい信仰である。
よって、この二つが具(そな)わるところの日蓮正宗にこそ、大聖人の仏法が存するのだ。
池田大作はかつて
「五老僧達は、『自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である』とし、日興上人に信順できなかった。さらに迫害を恐れ『天台沙門』とさえ名乗った。その根底は、日興上人と対等であるなどという驕(おご)りであり、嫉妬であり、保身の堕した卑(いや)しい感情であった。」
(広布と人生を語る第十巻 八十頁)
と指導していた。
さらに戸田会長の指導には、
「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、
たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうであらねばならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者が
あったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、
いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである」
(戸田城聖全集 第三巻二三五頁)
とある、これらの指導は、日蓮正宗古来の信心であり正論である。
今日の学会のテキストは、かつての両会長の指導とは真逆の指導をしていることになるが、これはテキストの
編集ミスであろうか、それとも両会長の指導は嘘(うそ)で、学会信徒を騙(だま)していたのだろうか(笑)
どちらにせよ、今の創価学会に大聖人の仏法はない。
あるのは、謗法の罪障と、それによって生ずる地獄の苦しみだけなのだ。
(慧妙 平成三十一年 三月一日号)
それをこのテキストでは自慢げに
「大聖人は、どこまでも御本尊への無二の信仰を強調されている。日興上人も同じである(中略)『日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以って本尊と為さず、唯(ただ)御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし』と明確に述べらている」と述べ、さらに
「御本尊に法主を加えて『根本の二つ(※能化文章の「唯授一人の血脈の当処と戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」の文』と
するのは、大聖人、日興上人に背(そむ)く邪義」などと述べている。
今日、本門戒壇の大御本尊を否定する輩(やから)が、「御本尊根本の信心が、大聖人の魂」などと、よくも言えたものだ。
寡廉鮮恥(かれんせんち=節操がなく恥を知らないさま)とはこのことだろう。
この思想の根本には、池田大作が御法主上人に嫉妬(しっと)し、己が全ての中心になりたい、という嫉妬が存する。
その上から、御当代上人をはじめ御歴代上人を蔑(ないがし)ろにして、自分たちが認(みと)めた本尊を信仰していれば功徳はある等と、筋違いも甚だしい事を説くのであり、大謗法の極みだ。
ともあれ、「御本尊だけを根本とする信心が、大聖人の仏法の魂」ではない。
日寛上人が
「祖師より興師へ御付属亦是れ三大秘法なり。興師より目師へ御付属も亦是れなり。(中略)目師より代々今に於て、二十四代金口の相承として一器の水を瀉(うつ)すが如く」(富要集十巻 一三一頁)
と仰せのように、三大秘法の随一たる本門戒壇の大御本尊、並びに大聖人から連綿と続く金口の相承、この二つこそ大聖人の仏法の根本なのであり、この二つを根本に信仰することが古来からの正しい信仰である。
よって、この二つが具(そな)わるところの日蓮正宗にこそ、大聖人の仏法が存するのだ。
池田大作はかつて
「五老僧達は、『自分は日興上人の弟子などではない。大聖人の弟子である』とし、日興上人に信順できなかった。さらに迫害を恐れ『天台沙門』とさえ名乗った。その根底は、日興上人と対等であるなどという驕(おご)りであり、嫉妬であり、保身の堕した卑(いや)しい感情であった。」
(広布と人生を語る第十巻 八十頁)
と指導していた。
さらに戸田会長の指導には、
「先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、
たとえ大幹部といえども即座に除名する。信者の精神はそうであらねばならない。むかし、関西に猊座のことに意見をふりまわして没落した罰当たり者が
あったそうだが、仏法の尊厳をそこなう者は当然そうなる。どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、
いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申し上げ、広布への大折伏にまっすぐ進んでいくだけである」
(戸田城聖全集 第三巻二三五頁)
とある、これらの指導は、日蓮正宗古来の信心であり正論である。
今日の学会のテキストは、かつての両会長の指導とは真逆の指導をしていることになるが、これはテキストの
編集ミスであろうか、それとも両会長の指導は嘘(うそ)で、学会信徒を騙(だま)していたのだろうか(笑)
どちらにせよ、今の創価学会に大聖人の仏法はない。
あるのは、謗法の罪障と、それによって生ずる地獄の苦しみだけなのだ。
(慧妙 平成三十一年 三月一日号)