本門戒壇の大御本尊を否定した「妙風」第100号(7月1日付)の記事
道理・証文・現証の上から大聖人の御建立(ごこんりゅう)たることは明らか
大聖人は「委(くわ)しく申したれども愚人(ぐにん)は知りがたし」と
正信会による大御本尊否定
「信会が戒壇の大御本尊を否定した」ーこの読者からの指摘を確認してみたところ、驚くべき事実が判明した。
現在、正信会は、宗教法人正信会(機関紙『妙風』を発行しており、妙風派とも呼ばれる) と任意団体正信会(機関紙『継命』を発行しており、任意派とも呼ばれる) とに分裂しているが、 前者の『妙風』第一〇〇号(七月一日付) に掲載された 「論苑」に、「宗門ではある時代から、本門戒壇の御本尊こそ大聖人出世の本懐であり、究極の御本尊にして、この御本尊から末寺の御本尊へ、各家庭の御本尊へと御利益が行き渡って成仏もできる、としてきた。
しかしその戒壇の御本尊は、一文不通の、しかも入信一年未満の百姓衆が不惜身命の信心を貫いて果てた熱原法難に、大聖人がいたく感じ入られて弘安2年10月12日に、丈4尺6寸5分(約1.4メートル)、幅2尺3寸(約70センチメートル)の楠(くすのき)板をもって造立されたと伝える。
だが、熱原法難の真っ只中および前後の大聖人御真蹟御書たる10月1日の『聖人御難事』、同12日の『伯耆殿御返事』、同17日の『聖人等御返事』、11月6日の『竜門御書』にも、この大聖人出世の本懐という御本尊に関する記述は、まったくないのである。これは果たして何を物語るのだろうか」
との記述があった。要するに、大聖人出世の本懐たる大御本尊について、御書に記述がないから怪しい、というのである。
記事はさらに、通称「河辺メモ」から「戒壇の御本尊は(六世日時上人か九世日有上人以降に造られた)偽物である」との文を引いて結論に替え、最後に「本尊観、血脈観、法義観を、誤れる日蓮正宗のそれに同調する任意派正信会には、もはや “正信覚醒 (かくせい)、を語る資格はない」
と、日蓮正宗を誤れる宗旨と決めつけ、その日蓮正宗の本尊観等を踏襲(とうしゆう)しているとして任意派を批判し、文を結んでいる。
いいやはや、先般は任意派が二箇相承を偽書呼ばわりしたと思ったら、今度は妙風派が大御本尊の否定に及ぶとは、誘法の毒気(どっけ)がかくも深く入ってしまったかと、驚くやら呆れるやらで、開いたロが塞(ふさ)がらない。
愚人(ぐにん)には明文(めいぶん)が読めない
日蓮大聖人は
「立正安国論と名づけき。其の書にくは (委)しく申したれども愚人は知りがたし」(御書一二八O頁)
「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、ま (先)づまづさ(差)しを(置) く事あるなり。 立正安国論の如し」(御書九〇六質)
等と仰せられ、『立正安国編』の意は、真言宗・律宗・浄土宗・禅宗等の諸宗を災難の原因として破しているものの、愚人には知りがたい
(愚人には、単に念仏ばかりを批判した書にしか見えない)のである、と御示しである。この御指摘と同様、宗教法人正信会の面々も、まさに愚人であるが故(ゆえ)に、大聖人の出世の本懐についての明らかな御教示が見えないのであろう。
御書の面(おもて)に軽々(けいけい)に述べられなかった道理も歴然(れきぜん)
まず、『妙風』でも名を挙げている弘安二年十月一日の『聖人御難事』には、
「比の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳 己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。 其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書一三九六頁)
とある。
古来、これを読んだ他門流の愚人達は、「これは立宗以来、二十七年が経(た)った、という年月の経過を述べたに過ぎない」だとか「立宗以来、二十七年間にわたり大難を受けた、ということを述べたもの」などと言って、涼しい顔をしてきた。だが、この御文が、そのようにしか読めないとすれば、小学生以下の国語能力しかないか、よほど根性が曲がっているかの、いずれかである。
出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい)は御金言に明らか
この御文は、三国四師(インド·中国·日本の三国における、釈尊·天台・伝教·大聖人という四人の法華経の行者のこと。『顕仏未来記』を参照)の関係において、まず前に、三師が出世の本懐を遂げるまでの年数「四十余年」「三十余年」「二十余年」と、そこに至るまでにはいずれも大難があったことを挙げられ、次に、これと対比する形で、日蓮大聖人の場合の年数は「二十七年」で、それまでの間にはやはり大難があったことを述べられているのである。
されば、「余は二十七年なり」とは、語の重複を避けて省略されているものの、 理の指し示すところ、
「余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐるなり」の意であることは、誰の目にも明らかであろう。これを、多門流の愚人らのように読むとすれば、わざわざ前文に三国三師の出世の本懐成就までの年数を挙げられた理由がなくなってしまい、文意が支離滅裂となってしまう。無理な曲解は禁物である。さて以上のごとく、大聖人は、この時期(『聖人御難事』を著わされた弘安二年十月一日の近辺)に出世の本懐を遂げられたことになるが、それは具体的に何を指しているのかー。
大聖人は、文永十二年三月の『阿仏房御書』で、すでに宝塔=曼荼羅御本尊を指して
「出世の本懐とはこれなり」(御書七九三)
と仰せであるから、この本懐である曼荼羅御本尊のうちでも弘安二年十月一日近辺に顕わされた御本尊の中に、本懐中の本懐とも申し上げるべき御本尊が在(おわ)すことは間違いない。
では、その御本尊はいずこに在すかと探してみると、唯一、その脇書に「本門戒壇」とお認(したた)めがあり、かつ堅牢な楠板をもって建立された(大聖人の御筆御本尊のうち、板御本尊はただ一体である)弘安二年十月十二日の大御本尊以外に、出世の本懐に相応(ふさわ)しい御本尊は存(ましま)さない。
以上のごとく、「大聖人出世の本懐という御本尊に関する記述は、まったくない」とする『妙風』の記述は、文字面(づら)しか見えない愚人の邪難たることが明らかといえよう。
戒壇の大本尊を秘(ひ)された理由
なお、大聖人が御書の面(おもて)に、露(あら)わな表現で「出世の本懐たる戒壇の大御本尊」について述べられなかった理由であるが、そもそも数多(あまた)の御書の中で、三大秘法について示された御書は多い
が、そのうちの本門戒壇の意義・内容については、御一期(いちご)の大事に関わることとして、わずかに『三大秘法抄』『一期(いちご)弘法付嘱書』にのみ御示しになっている。その理由を推すれば、本
門戒壇に安置すべき法体の大御本尊を固く秘して後世に伝えんがため、本門戒壇の意義·内容についても広く述べることを避けられたものと拝するのである。
大聖人は、
「親疎(しんそ)と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ」(御書一〇三七頁)
と仰せであるが、こうした重々の御配慮によって、七百五十星霜を経(く)た今日においても、本門戒壇の大御本尊を拝し奉ることができるのである。この有り難さは、すでに正信を失って毒気深入した輩(やから)には、金輪際味わうことができぬであろう。
通称「阿部メモ」を利用した邪難(じゃなん)も邪難(じゃなん)も現証が粉砕(ふんさい)
また、『妙風』が挙げている通称「阿部メモ」については、すでに本誌二二六号・四三七号等で繰り返し破折済みなので、重ねての詳述はしないが、これについての根本的な破折をしておきたい。
「室町(むろまち)以降の疑難(ぎなん)も崩壊
「河辺メモ」を使った疑難は、 結局のところ、戒壇の大御本尊を、第六世日時上人や第九世日有上人の時代である室町(足利)時代以降に偽作された、とするものである。
だが、そもそも、第二祖日興上人から第三祖日目上人への譲り状たる『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書一八八三頁)
と示され、第四世日道上人の『御伝土代』にも
「熱原の法華講衆二人(※1二ハ三ノ誤リナリ)は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(富要集五巻八頁)
と記されるごとく、大聖人が大御本尊を顕わされたことについては、上古の時代の文証にも明らかであって、否定のしようがない。
さらに、第六十六世日達上人は
「戒壇の御本尊は楠の板である。(中略)その時分は鉋(かんな)がなかった。鎌倉時代は手斧(ちょうな)でるから、あの御本尊は手斧削りである。それを見れば、ふぐわかる。
それを知らないで、『漆(うるし)を塗ってあるから、あれは足利時代にできた』とか、最近は『徳川時代にできた』などと、とんでもないことを言う。ところが(大御本尊の)後ろを見ると、削った跡がちゃんと残っている。
それを見ても、明らかに鎌倉時代である。手斧で、明治時代の人は知っているが、丸いものではない。あの時代には、鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。その板です。(中略)そういうことを見ても、はっきり鎌倉時代の板本尊である」
(昭和四十七年九月十二日)
と仰せられ、大御本尊の裏側を削った形跡という現証の上から、鎌倉時代の造立であると証明あそばされている。
「日蓮正宗」の看板を降(お)ろせ
以上、縷々(るる)述べてきたが、本門戒壇の大御本尊が大聖人出世の本懐にますますことは、すでに道理・証文・現証において明らかで、疑いを差し挟む余地は全くない。
これに真っ向から背反する宗教法人正信会は、すでに日蓮正宗とはかけ離れた邪宗教団と成り果てている。今も「日蓮正宗」の名を詐称(さしょう)する同会傘下の寺院は、さっさとその看板を外して世人を迷わすのをやめるべきである。
また、任意団体正信会と称する寺院も、いかに分裂したと言っても、同じ会名のもとに平然と属している以上。この大謗法に与同する失(とが)は免れ難い。
自らの堕獄の運命を覚悟すべきであろう。
かくて、真の「正信」とは、本門戒壇の大御本尊を擁する我が日蓮正宗にのみ存するのである。
(慧妙 令和二年八月十六日)
大聖人は「委(くわ)しく申したれども愚人(ぐにん)は知りがたし」と
正信会による大御本尊否定
「信会が戒壇の大御本尊を否定した」ーこの読者からの指摘を確認してみたところ、驚くべき事実が判明した。
現在、正信会は、宗教法人正信会(機関紙『妙風』を発行しており、妙風派とも呼ばれる) と任意団体正信会(機関紙『継命』を発行しており、任意派とも呼ばれる) とに分裂しているが、 前者の『妙風』第一〇〇号(七月一日付) に掲載された 「論苑」に、「宗門ではある時代から、本門戒壇の御本尊こそ大聖人出世の本懐であり、究極の御本尊にして、この御本尊から末寺の御本尊へ、各家庭の御本尊へと御利益が行き渡って成仏もできる、としてきた。
しかしその戒壇の御本尊は、一文不通の、しかも入信一年未満の百姓衆が不惜身命の信心を貫いて果てた熱原法難に、大聖人がいたく感じ入られて弘安2年10月12日に、丈4尺6寸5分(約1.4メートル)、幅2尺3寸(約70センチメートル)の楠(くすのき)板をもって造立されたと伝える。
だが、熱原法難の真っ只中および前後の大聖人御真蹟御書たる10月1日の『聖人御難事』、同12日の『伯耆殿御返事』、同17日の『聖人等御返事』、11月6日の『竜門御書』にも、この大聖人出世の本懐という御本尊に関する記述は、まったくないのである。これは果たして何を物語るのだろうか」
との記述があった。要するに、大聖人出世の本懐たる大御本尊について、御書に記述がないから怪しい、というのである。
記事はさらに、通称「河辺メモ」から「戒壇の御本尊は(六世日時上人か九世日有上人以降に造られた)偽物である」との文を引いて結論に替え、最後に「本尊観、血脈観、法義観を、誤れる日蓮正宗のそれに同調する任意派正信会には、もはや “正信覚醒 (かくせい)、を語る資格はない」
と、日蓮正宗を誤れる宗旨と決めつけ、その日蓮正宗の本尊観等を踏襲(とうしゆう)しているとして任意派を批判し、文を結んでいる。
いいやはや、先般は任意派が二箇相承を偽書呼ばわりしたと思ったら、今度は妙風派が大御本尊の否定に及ぶとは、誘法の毒気(どっけ)がかくも深く入ってしまったかと、驚くやら呆れるやらで、開いたロが塞(ふさ)がらない。
愚人(ぐにん)には明文(めいぶん)が読めない
日蓮大聖人は
「立正安国論と名づけき。其の書にくは (委)しく申したれども愚人は知りがたし」(御書一二八O頁)
「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、ま (先)づまづさ(差)しを(置) く事あるなり。 立正安国論の如し」(御書九〇六質)
等と仰せられ、『立正安国編』の意は、真言宗・律宗・浄土宗・禅宗等の諸宗を災難の原因として破しているものの、愚人には知りがたい
(愚人には、単に念仏ばかりを批判した書にしか見えない)のである、と御示しである。この御指摘と同様、宗教法人正信会の面々も、まさに愚人であるが故(ゆえ)に、大聖人の出世の本懐についての明らかな御教示が見えないのであろう。
御書の面(おもて)に軽々(けいけい)に述べられなかった道理も歴然(れきぜん)
まず、『妙風』でも名を挙げている弘安二年十月一日の『聖人御難事』には、
「比の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳 己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。 其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書一三九六頁)
とある。
古来、これを読んだ他門流の愚人達は、「これは立宗以来、二十七年が経(た)った、という年月の経過を述べたに過ぎない」だとか「立宗以来、二十七年間にわたり大難を受けた、ということを述べたもの」などと言って、涼しい顔をしてきた。だが、この御文が、そのようにしか読めないとすれば、小学生以下の国語能力しかないか、よほど根性が曲がっているかの、いずれかである。
出世(しゅっせ)の本懐(ほんかい)は御金言に明らか
この御文は、三国四師(インド·中国·日本の三国における、釈尊·天台・伝教·大聖人という四人の法華経の行者のこと。『顕仏未来記』を参照)の関係において、まず前に、三師が出世の本懐を遂げるまでの年数「四十余年」「三十余年」「二十余年」と、そこに至るまでにはいずれも大難があったことを挙げられ、次に、これと対比する形で、日蓮大聖人の場合の年数は「二十七年」で、それまでの間にはやはり大難があったことを述べられているのである。
されば、「余は二十七年なり」とは、語の重複を避けて省略されているものの、 理の指し示すところ、
「余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐるなり」の意であることは、誰の目にも明らかであろう。これを、多門流の愚人らのように読むとすれば、わざわざ前文に三国三師の出世の本懐成就までの年数を挙げられた理由がなくなってしまい、文意が支離滅裂となってしまう。無理な曲解は禁物である。さて以上のごとく、大聖人は、この時期(『聖人御難事』を著わされた弘安二年十月一日の近辺)に出世の本懐を遂げられたことになるが、それは具体的に何を指しているのかー。
大聖人は、文永十二年三月の『阿仏房御書』で、すでに宝塔=曼荼羅御本尊を指して
「出世の本懐とはこれなり」(御書七九三)
と仰せであるから、この本懐である曼荼羅御本尊のうちでも弘安二年十月一日近辺に顕わされた御本尊の中に、本懐中の本懐とも申し上げるべき御本尊が在(おわ)すことは間違いない。
では、その御本尊はいずこに在すかと探してみると、唯一、その脇書に「本門戒壇」とお認(したた)めがあり、かつ堅牢な楠板をもって建立された(大聖人の御筆御本尊のうち、板御本尊はただ一体である)弘安二年十月十二日の大御本尊以外に、出世の本懐に相応(ふさわ)しい御本尊は存(ましま)さない。
以上のごとく、「大聖人出世の本懐という御本尊に関する記述は、まったくない」とする『妙風』の記述は、文字面(づら)しか見えない愚人の邪難たることが明らかといえよう。
戒壇の大本尊を秘(ひ)された理由
なお、大聖人が御書の面(おもて)に、露(あら)わな表現で「出世の本懐たる戒壇の大御本尊」について述べられなかった理由であるが、そもそも数多(あまた)の御書の中で、三大秘法について示された御書は多い
が、そのうちの本門戒壇の意義・内容については、御一期(いちご)の大事に関わることとして、わずかに『三大秘法抄』『一期(いちご)弘法付嘱書』にのみ御示しになっている。その理由を推すれば、本
門戒壇に安置すべき法体の大御本尊を固く秘して後世に伝えんがため、本門戒壇の意義·内容についても広く述べることを避けられたものと拝するのである。
大聖人は、
「親疎(しんそ)と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ」(御書一〇三七頁)
と仰せであるが、こうした重々の御配慮によって、七百五十星霜を経(く)た今日においても、本門戒壇の大御本尊を拝し奉ることができるのである。この有り難さは、すでに正信を失って毒気深入した輩(やから)には、金輪際味わうことができぬであろう。
通称「阿部メモ」を利用した邪難(じゃなん)も邪難(じゃなん)も現証が粉砕(ふんさい)
また、『妙風』が挙げている通称「阿部メモ」については、すでに本誌二二六号・四三七号等で繰り返し破折済みなので、重ねての詳述はしないが、これについての根本的な破折をしておきたい。
「室町(むろまち)以降の疑難(ぎなん)も崩壊
「河辺メモ」を使った疑難は、 結局のところ、戒壇の大御本尊を、第六世日時上人や第九世日有上人の時代である室町(足利)時代以降に偽作された、とするものである。
だが、そもそも、第二祖日興上人から第三祖日目上人への譲り状たる『日興跡条々事』に
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す」(御書一八八三頁)
と示され、第四世日道上人の『御伝土代』にも
「熱原の法華講衆二人(※1二ハ三ノ誤リナリ)は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(富要集五巻八頁)
と記されるごとく、大聖人が大御本尊を顕わされたことについては、上古の時代の文証にも明らかであって、否定のしようがない。
さらに、第六十六世日達上人は
「戒壇の御本尊は楠の板である。(中略)その時分は鉋(かんな)がなかった。鎌倉時代は手斧(ちょうな)でるから、あの御本尊は手斧削りである。それを見れば、ふぐわかる。
それを知らないで、『漆(うるし)を塗ってあるから、あれは足利時代にできた』とか、最近は『徳川時代にできた』などと、とんでもないことを言う。ところが(大御本尊の)後ろを見ると、削った跡がちゃんと残っている。
それを見ても、明らかに鎌倉時代である。手斧で、明治時代の人は知っているが、丸いものではない。あの時代には、鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。その板です。(中略)そういうことを見ても、はっきり鎌倉時代の板本尊である」
(昭和四十七年九月十二日)
と仰せられ、大御本尊の裏側を削った形跡という現証の上から、鎌倉時代の造立であると証明あそばされている。
「日蓮正宗」の看板を降(お)ろせ
以上、縷々(るる)述べてきたが、本門戒壇の大御本尊が大聖人出世の本懐にますますことは、すでに道理・証文・現証において明らかで、疑いを差し挟む余地は全くない。
これに真っ向から背反する宗教法人正信会は、すでに日蓮正宗とはかけ離れた邪宗教団と成り果てている。今も「日蓮正宗」の名を詐称(さしょう)する同会傘下の寺院は、さっさとその看板を外して世人を迷わすのをやめるべきである。
また、任意団体正信会と称する寺院も、いかに分裂したと言っても、同じ会名のもとに平然と属している以上。この大謗法に与同する失(とが)は免れ難い。
自らの堕獄の運命を覚悟すべきであろう。
かくて、真の「正信」とは、本門戒壇の大御本尊を擁する我が日蓮正宗にのみ存するのである。
(慧妙 令和二年八月十六日)
大聖人700遠忌の際、すでに排斥されていた彼らは、大石寺の近くまで押しかけ、遠巻きに大御本尊を遥拝。しれでも今では、毒気が全身に回って大御本尊を否定にー”哀れな異流儀の末路