生長の家とは、元大本(おおもと)信者の谷口雅春が長年にわたる修行の末、「人間は神の子である」という悟りを得て、その喜びを伝えるため
に、昭和五年に『生長の家』という月刊誌を創刊したのが始まり。生長の家では、この発刊をもって立教としている。
この書籍を読んだ多くの人が幸福な人生へと導かれると言うが、その実態は、創始者の谷口雅春が、あらゆる宗教・哲学・心理学・精神分析などを自分勝手にごちゃ混ぜにした滅茶苦茶な教説をでっち上げ、「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」などと会員を唆(そそのか)し、膨大な書籍を購読させる、極めて悪質な出版宗教である。
節操(せっそう)のない教え
生長の家の教えは「唯神実相」・「唯心所現」・「万教帰一」の三つの言葉で表わされる。
「唯神実相」とは、本当に存在するのは唯(ただ)、神と神が作られた世界(実相)だけであるという意味。生長の家では、像などは造らず、「實相」と書いた書を掲げ、「あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」を拝むとする。
そのため、一番重要であるはずの本尊を、各宗派の神棚や仏壇などをそのまま祀(まつ)ることを認める迷乱ぶり。
まさに、日蓮大聖人が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四㌻)
と御教示の通りだ。
また、「唯心所現」によれば、この世界は、人間の心によって作り出しているものであるという。
しかし、『義浄房御書』に、
「心の師とはなるとも心を師とすべからず」(同六六九㌻)
と、人の心は迷いそのものであって、その心を師匠とすべきでないと誡(いまし)められている。そして、「万教帰一」とは、一つの教えが万(よろず)の教えと展開しているのであるから、お互いの宗教の多様性を認め合うことが大事だという。
しかし、大聖人が、
「教の浅深をしらざれば理の浅深弁(わきま)ふものなし」
(同五六一㌻)
と仰せのように、教えの正邪如何(いかん)によって理の浅深が決まるのである。にもかかわらず、多様性とのみ称して、各宗教の教理をろくに調べもせず、むやみやたらに受け入れるのが生長の家なのだ。
会員を欺(あざむ)く商売団体
生長の家では、昭和五年の立教以来、「天地一切に感謝」、「すべては神において一体」等の教えを基として活動しているという。
教団では、毎日、『生命の實相』等の聖典を読んだり、先祖供養のため、生長の家関係の書籍を神前、仏前で読誦(どくじゅ)するそうだ。
しかし、初代総裁である谷口雅春自身が、
「いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売る為には、先づ多くの人々を集めねばならぬ」
(中村古峡著『迷信に陥るまで』一八三㌻)
などと、すがすがしいまでに開き直ったことを言っている。
生長の家は教団が出版した書籍の販売を目的とした、単なる商売団体なのである。
おまけに昨今、生長の家では、環境問題に取り組むことが現代的な意味での宗教生活の実践であり、新しい文明の基礎づくりに取り組むとしている。
具体的には、人類社会が自然エネルギーを全面的に利用することで、「脱原発」と「地球温暖化の抑制」を同時に実現し、自然と人間が共に繁栄する「新しい文明」を築いていくそうだ。
もはや宗教かどうかすら怪しい。
仏法は体
世間は影
『諸経と法華経と難易の事』に
「仏法やうやく顛倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。
仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし体曲がれば影なゝめなり」
(御書一四六九㌻)
と仰せである。
体が曲がったまま、影である「世間」をいくら変えようとしても、幸福な人生へと導かれることなど、 あろうはずもない。 枝葉末節に執(とら)われて、迷い続けることになる。
生長の家のような単なる営利団体に引っかかっている人を一刻も早く折伏し、大聖人の正法に帰依せしめなければならない。
(大白法 第一一0三号 令和五年六月十六日)
に、昭和五年に『生長の家』という月刊誌を創刊したのが始まり。生長の家では、この発刊をもって立教としている。
この書籍を読んだ多くの人が幸福な人生へと導かれると言うが、その実態は、創始者の谷口雅春が、あらゆる宗教・哲学・心理学・精神分析などを自分勝手にごちゃ混ぜにした滅茶苦茶な教説をでっち上げ、「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」などと会員を唆(そそのか)し、膨大な書籍を購読させる、極めて悪質な出版宗教である。
節操(せっそう)のない教え
生長の家の教えは「唯神実相」・「唯心所現」・「万教帰一」の三つの言葉で表わされる。
「唯神実相」とは、本当に存在するのは唯(ただ)、神と神が作られた世界(実相)だけであるという意味。生長の家では、像などは造らず、「實相」と書いた書を掲げ、「あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」を拝むとする。
そのため、一番重要であるはずの本尊を、各宗派の神棚や仏壇などをそのまま祀(まつ)ることを認める迷乱ぶり。
まさに、日蓮大聖人が『開目抄』に、
「諸宗は本尊にまどえり」(御書 五五四㌻)
と御教示の通りだ。
また、「唯心所現」によれば、この世界は、人間の心によって作り出しているものであるという。
しかし、『義浄房御書』に、
「心の師とはなるとも心を師とすべからず」(同六六九㌻)
と、人の心は迷いそのものであって、その心を師匠とすべきでないと誡(いまし)められている。そして、「万教帰一」とは、一つの教えが万(よろず)の教えと展開しているのであるから、お互いの宗教の多様性を認め合うことが大事だという。
しかし、大聖人が、
「教の浅深をしらざれば理の浅深弁(わきま)ふものなし」
(同五六一㌻)
と仰せのように、教えの正邪如何(いかん)によって理の浅深が決まるのである。にもかかわらず、多様性とのみ称して、各宗教の教理をろくに調べもせず、むやみやたらに受け入れるのが生長の家なのだ。
会員を欺(あざむ)く商売団体
生長の家では、昭和五年の立教以来、「天地一切に感謝」、「すべては神において一体」等の教えを基として活動しているという。
教団では、毎日、『生命の實相』等の聖典を読んだり、先祖供養のため、生長の家関係の書籍を神前、仏前で読誦(どくじゅ)するそうだ。
しかし、初代総裁である谷口雅春自身が、
「いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売る為には、先づ多くの人々を集めねばならぬ」
(中村古峡著『迷信に陥るまで』一八三㌻)
などと、すがすがしいまでに開き直ったことを言っている。
生長の家は教団が出版した書籍の販売を目的とした、単なる商売団体なのである。
おまけに昨今、生長の家では、環境問題に取り組むことが現代的な意味での宗教生活の実践であり、新しい文明の基礎づくりに取り組むとしている。
具体的には、人類社会が自然エネルギーを全面的に利用することで、「脱原発」と「地球温暖化の抑制」を同時に実現し、自然と人間が共に繁栄する「新しい文明」を築いていくそうだ。
もはや宗教かどうかすら怪しい。
仏法は体
世間は影
『諸経と法華経と難易の事』に
「仏法やうやく顛倒(てんどう)しければ世間も又濁乱(じょくらん)せり。
仏法は体(たい)のごとし、世間はかげのごとし体曲がれば影なゝめなり」
(御書一四六九㌻)
と仰せである。
体が曲がったまま、影である「世間」をいくら変えようとしても、幸福な人生へと導かれることなど、 あろうはずもない。 枝葉末節に執(とら)われて、迷い続けることになる。
生長の家のような単なる営利団体に引っかかっている人を一刻も早く折伏し、大聖人の正法に帰依せしめなければならない。
(大白法 第一一0三号 令和五年六月十六日)