日蓮大聖人は『南條殿御返事』に、
「彼の月氏(がっし)の霊鷲山(りょうじゅせん)は本朝此の身延の嶺(みね)なり」(御書 一五六九頁)
と仰せられ、
「此の砌(みぎり)に望(のぞ)まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同)
と御教示せられている。
ここに、大聖人が身延を霊鷲山に譬えられたのは、
「かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(同)
と仰せの如く、、大聖人御在所の故である。
今日は、御本仏の御魂魄は本門戒壇の大御本尊であるから、総本山大石寺こそ、常寂光(じょうじゃっこう)の霊地にほかならない。
「参詣遥(はる)かに中絶せり。急々に来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし」(同)
大聖人がお持ちくださる総本山へ登山参詣することは「三業の悪転じて三徳を成」ずるところの精進なのである。
この大聖人の御教導を平然と踏みにじる者が、浅井昭衛率いる顕正会である。
御開扉(ごかいひ)が不当?
顕正会は、昭和四十九年八月に講中解散処分を受けた妙信講をもととする。現在は名を変え、僭越この上ないことに「冨士大石寺顕正会」と名乗るが、今や宗門とは、全く無関係の団体である。
その首魁(しゅかい)の浅井は、昨年十一月五日付の顕正新聞にて、次のように発言した。
「尊無過上の『戒壇の大御本尊様』を、宗門はいま営利の具としている」
「広宣流布のその日まで、戒壇の大御本尊様を守護し奉るのが、仏弟子の責務」
「不敬そして危険な御開扉を直ちに中止すべし」
浅井は、重要な仏道修行である登山を推進することが「御開扉料稼ぎ」で、登山者が増えればその中に混じって、「天魔は戒壇の大御本尊を狙う」
から危険だ、だから御開扉をやめよと主張するのだ。
遥拝勤行?
浅井は続ける。
「遥拝勤行こそ、末法三毒強盛の凡夫を、直接、戒壇の大御本尊に繋(つな)ぎまいらせる秘術であり、広布最終段階の信行の姿なのです」(同)
「秘術」?
「広布最終段階の信行の姿」?
御本尊様を直接拝する必要はない?
実に、独りよがりの妄想とも言うべき虚言。これを邪義と呼ばずに、何と評すべきだろう。
会員たちへの目眩(くら)まし
顕正会は、既に四十年以上にもわたり、宗門とは別個の活動を行っていて、その間に入会した会員は、一度たりとも総本山へ参詣したことがない。
浅井が「遥拝勤行こそ」「秘術」とか、「広布最終段階の信行」などと言うのは、そんな会員たちへの目眩ましに過ぎない。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書 一五〇二㌻)
と御教示しである。
この御金言を拝せば、総本山に参詣し、本門戒壇の大御本尊にお目通り申し上げることは、実に尊い仏道修行であり、そこに広大無辺なる大功徳が具わることは、
明々白々である。
大謗法に陥(おちい)ったが故に総本山への参詣が叶わなくなった者に、
「不敬」だと「危険」だのと言われる筋合いは毛頭ほどもない。
本門事の戒壇
総本山第五十二世日霑上人は『三大秘法談』に、
「未だ広布の時至らず実の戒壇建立なしといえども、此の処則ち是れ本門事相の戒壇にして、此の砌に一度も詣ずるの輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して三業の悪を転じて三徳を成ぜんこと、経文並びに大聖人の御金言、毛頭疑いなきことでござる」
(研究教学書)
と御指南されている。
大聖人出生の本懐にして、凡下(ぼんげ)衆生の罪障消滅と積功累徳(しゃっくるいとく)の根源たる、本門戒壇の大御本尊から遠ざけんともくろむ浅井の暴言こそ、
不敬極まるものにして、かかる大謗法が弘まることこそ、危険この上ない。
この邪義邪説を駆逐(くちく)するのは我らの折伏のみ。浅井に惑(まど)わされた会員たちに、一刻も早く正義を諭(さと)していこう。
(大白法 第1000号 平成三十一年三月一日)
「彼の月氏(がっし)の霊鷲山(りょうじゅせん)は本朝此の身延の嶺(みね)なり」(御書 一五六九頁)
と仰せられ、
「此の砌(みぎり)に望(のぞ)まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同)
と御教示せられている。
ここに、大聖人が身延を霊鷲山に譬えられたのは、
「かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(同)
と仰せの如く、、大聖人御在所の故である。
今日は、御本仏の御魂魄は本門戒壇の大御本尊であるから、総本山大石寺こそ、常寂光(じょうじゃっこう)の霊地にほかならない。
「参詣遥(はる)かに中絶せり。急々に来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし」(同)
大聖人がお持ちくださる総本山へ登山参詣することは「三業の悪転じて三徳を成」ずるところの精進なのである。
この大聖人の御教導を平然と踏みにじる者が、浅井昭衛率いる顕正会である。
御開扉(ごかいひ)が不当?
顕正会は、昭和四十九年八月に講中解散処分を受けた妙信講をもととする。現在は名を変え、僭越この上ないことに「冨士大石寺顕正会」と名乗るが、今や宗門とは、全く無関係の団体である。
その首魁(しゅかい)の浅井は、昨年十一月五日付の顕正新聞にて、次のように発言した。
「尊無過上の『戒壇の大御本尊様』を、宗門はいま営利の具としている」
「広宣流布のその日まで、戒壇の大御本尊様を守護し奉るのが、仏弟子の責務」
「不敬そして危険な御開扉を直ちに中止すべし」
浅井は、重要な仏道修行である登山を推進することが「御開扉料稼ぎ」で、登山者が増えればその中に混じって、「天魔は戒壇の大御本尊を狙う」
から危険だ、だから御開扉をやめよと主張するのだ。
遥拝勤行?
浅井は続ける。
「遥拝勤行こそ、末法三毒強盛の凡夫を、直接、戒壇の大御本尊に繋(つな)ぎまいらせる秘術であり、広布最終段階の信行の姿なのです」(同)
「秘術」?
「広布最終段階の信行の姿」?
御本尊様を直接拝する必要はない?
実に、独りよがりの妄想とも言うべき虚言。これを邪義と呼ばずに、何と評すべきだろう。
会員たちへの目眩(くら)まし
顕正会は、既に四十年以上にもわたり、宗門とは別個の活動を行っていて、その間に入会した会員は、一度たりとも総本山へ参詣したことがない。
浅井が「遥拝勤行こそ」「秘術」とか、「広布最終段階の信行」などと言うのは、そんな会員たちへの目眩ましに過ぎない。
大聖人は『四条金吾殿御返事』に、
「毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書 一五〇二㌻)
と御教示しである。
この御金言を拝せば、総本山に参詣し、本門戒壇の大御本尊にお目通り申し上げることは、実に尊い仏道修行であり、そこに広大無辺なる大功徳が具わることは、
明々白々である。
大謗法に陥(おちい)ったが故に総本山への参詣が叶わなくなった者に、
「不敬」だと「危険」だのと言われる筋合いは毛頭ほどもない。
本門事の戒壇
総本山第五十二世日霑上人は『三大秘法談』に、
「未だ広布の時至らず実の戒壇建立なしといえども、此の処則ち是れ本門事相の戒壇にして、此の砌に一度も詣ずるの輩は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して三業の悪を転じて三徳を成ぜんこと、経文並びに大聖人の御金言、毛頭疑いなきことでござる」
(研究教学書)
と御指南されている。
大聖人出生の本懐にして、凡下(ぼんげ)衆生の罪障消滅と積功累徳(しゃっくるいとく)の根源たる、本門戒壇の大御本尊から遠ざけんともくろむ浅井の暴言こそ、
不敬極まるものにして、かかる大謗法が弘まることこそ、危険この上ない。
この邪義邪説を駆逐(くちく)するのは我らの折伏のみ。浅井に惑(まど)わされた会員たちに、一刻も早く正義を諭(さと)していこう。
(大白法 第1000号 平成三十一年三月一日)