御書を切(き)り文(もん)し池田大作を神格化
その池田は経文(きょうもん)の””僭聖増上慢”(せんしょうぞうじょうまん)に酷似(こくじ)
原田の説明を挙げる。
「創価学会会則」の〈第1章〉の[総則]のうち、(教義)の第2条には、「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」
とあるが、原田は
「『御書根本に』の部分は、従前の会則と内容的な変更はありません」
と説明する。
この御書根本は、これまで宗門からも本紙でも、何度も取り上げ破折してきた。もとより「御書根本」とは、日蓮正宗では当たり前のこと。 何も学会から始まったことではない。 だがよくよく紐(ひも)解いてみると、彼等のいう「御書根本」とは、「大聖人直結」なるものと供用して、血脈相承を否定し、自分たちに都合の良い御書を切り文で根本にする、ということだ。
学会自らが本尊を認定する、という傲慢(ごうまん)極まりない会則をつくった彼等である。都合の良い御書を、都合良く解釈して、会員を、誑(たぶら)かすのは造作ないことだ。
さらには、『人間革命』を現代の御書のように扱い、篤(あつ)く用いていることからもわかるように、「御書根本」とは名ばかりで、実は大聖人を利用し、池田大作を祭り上げるのが狙(ねら)いなのである。
さて、その傀儡(かいらい)会長・原田稔の説明の続きを読むと、池田大作の『人間革命』を持ち上げ、
「世界広宣流布の実現といっても、個人における一生成仏、すまわち人間革命の成就により成し遂げられるものであることから、教義条項の中に『各人が人間革命を成就し』との文言を新たに加えました」
と説明している。
学会員が妄想する教義「人間革命」-、ならばその提唱者たる池田大作は、どこまで人間革命ができているのだろうか。池田大作をネットで調べてみると、じつにいろいろ出てくる。
称号や勲章などの名聞名利(みょうもんみょうり)を貪(むさぼ)っては、各国の偉人と対話し、数多くの本も出版して聖人君子ぶる一方、日顕上人、日如上人に対して繰り返す筆舌に尽くせない誹謗(ひぼう) 中傷、自らの手は汚さず、会員を煽(あお)って宗門僧侶·信徒や学会脱会者への執劫(しつよう)な嫌がらせ等々…
客観的にみても、池田は、『勧持品』の
「利養に食著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ) の与(ため)に法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること六通の羅漢(らかん)の如くならん (中略)利養を貢(むさぼ) るを為(もっ)ての故に、外道の論議を説き自ら此の経典を作って 世間の人を枉惑(おうわく)し名聞を求むるを偽ての故に分別してこの経を説く」(法華経三七六頁)
の経文と、面白いほど符号するではないか。
その池田が人間革命の手本であるのなら、人間革命とは僭聖増上慢となることに他ならない。
大聖人は
「末々の学者等は本師のあやま(誤)りをばし(知)らずして、師のごとくひろ(弘) めなら (習)う人々を智者とはをも(思)へり。源にご(濁) りぬればなが(流) れきよ(浄)からず。身まが(曲)ればかげ (影)なを (直) からす(中略)譬(たと) へば破(やぶ) れたる船に乗りて大海に浮かび、酒に酔(よ)へる者の火の中に臥(ふ)せるが如し」(御書八二七頁)
と仰せだが、原田をはじめ、幹部並びに学会員達は、分々に借聖増上慢の姿を呈している。 その意味では、会則に追加された「各人が人間革命を成就」している、と言えよう。だが
それは成仏どころか堕地獄への道であることは間違いない。
『立正安国論』に
就中(なかんずく)人の世に在(あ)るや各(おのおの)後生を恐る。是(ここ)を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪(にく)むと雖 (いえど)も、 而も猶(なお)仏法に帰することを哀(かな) しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)を崇(あが)めんや。若し執心翻(ひるがえ)らず、亦曲意 (きょくい)猶存せば、早く有為(うい) の郷(さと)を辞して必ず無間(むげん)の獄(ひとや)に堕(お)ちなん」(御書二四九頁)
とある。幸せを願い、世界平和を祈るのは皆同じ。
だが、いくらその思いが強くても、謗法の創価学会では真逆の道を行くのみ。
一日も早く本門戒壇の大御本尊に帰依し、真の成仏、真の広宣流布を志すべきである。
(慧妙 令和二年六月一日)
その池田は経文(きょうもん)の””僭聖増上慢”(せんしょうぞうじょうまん)に酷似(こくじ)
原田の説明を挙げる。
「創価学会会則」の〈第1章〉の[総則]のうち、(教義)の第2条には、「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」
とあるが、原田は
「『御書根本に』の部分は、従前の会則と内容的な変更はありません」
と説明する。
この御書根本は、これまで宗門からも本紙でも、何度も取り上げ破折してきた。もとより「御書根本」とは、日蓮正宗では当たり前のこと。 何も学会から始まったことではない。 だがよくよく紐(ひも)解いてみると、彼等のいう「御書根本」とは、「大聖人直結」なるものと供用して、血脈相承を否定し、自分たちに都合の良い御書を切り文で根本にする、ということだ。
学会自らが本尊を認定する、という傲慢(ごうまん)極まりない会則をつくった彼等である。都合の良い御書を、都合良く解釈して、会員を、誑(たぶら)かすのは造作ないことだ。
さらには、『人間革命』を現代の御書のように扱い、篤(あつ)く用いていることからもわかるように、「御書根本」とは名ばかりで、実は大聖人を利用し、池田大作を祭り上げるのが狙(ねら)いなのである。
さて、その傀儡(かいらい)会長・原田稔の説明の続きを読むと、池田大作の『人間革命』を持ち上げ、
「世界広宣流布の実現といっても、個人における一生成仏、すまわち人間革命の成就により成し遂げられるものであることから、教義条項の中に『各人が人間革命を成就し』との文言を新たに加えました」
と説明している。
学会員が妄想する教義「人間革命」-、ならばその提唱者たる池田大作は、どこまで人間革命ができているのだろうか。池田大作をネットで調べてみると、じつにいろいろ出てくる。
称号や勲章などの名聞名利(みょうもんみょうり)を貪(むさぼ)っては、各国の偉人と対話し、数多くの本も出版して聖人君子ぶる一方、日顕上人、日如上人に対して繰り返す筆舌に尽くせない誹謗(ひぼう) 中傷、自らの手は汚さず、会員を煽(あお)って宗門僧侶·信徒や学会脱会者への執劫(しつよう)な嫌がらせ等々…
客観的にみても、池田は、『勧持品』の
「利養に食著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ) の与(ため)に法を説いて 世に恭敬(くぎょう)せらるること六通の羅漢(らかん)の如くならん (中略)利養を貢(むさぼ) るを為(もっ)ての故に、外道の論議を説き自ら此の経典を作って 世間の人を枉惑(おうわく)し名聞を求むるを偽ての故に分別してこの経を説く」(法華経三七六頁)
の経文と、面白いほど符号するではないか。
その池田が人間革命の手本であるのなら、人間革命とは僭聖増上慢となることに他ならない。
大聖人は
「末々の学者等は本師のあやま(誤)りをばし(知)らずして、師のごとくひろ(弘) めなら (習)う人々を智者とはをも(思)へり。源にご(濁) りぬればなが(流) れきよ(浄)からず。身まが(曲)ればかげ (影)なを (直) からす(中略)譬(たと) へば破(やぶ) れたる船に乗りて大海に浮かび、酒に酔(よ)へる者の火の中に臥(ふ)せるが如し」(御書八二七頁)
と仰せだが、原田をはじめ、幹部並びに学会員達は、分々に借聖増上慢の姿を呈している。 その意味では、会則に追加された「各人が人間革命を成就」している、と言えよう。だが
それは成仏どころか堕地獄への道であることは間違いない。
『立正安国論』に
就中(なかんずく)人の世に在(あ)るや各(おのおの)後生を恐る。是(ここ)を以て或は邪教を信じ、或は謗法を貴ぶ。各是非に迷ふことを悪(にく)むと雖 (いえど)も、 而も猶(なお)仏法に帰することを哀(かな) しむ。何ぞ同じく信心の力を以て妄(みだ)りに邪義の詞(ことば)を崇(あが)めんや。若し執心翻(ひるがえ)らず、亦曲意 (きょくい)猶存せば、早く有為(うい) の郷(さと)を辞して必ず無間(むげん)の獄(ひとや)に堕(お)ちなん」(御書二四九頁)
とある。幸せを願い、世界平和を祈るのは皆同じ。
だが、いくらその思いが強くても、謗法の創価学会では真逆の道を行くのみ。
一日も早く本門戒壇の大御本尊に帰依し、真の成仏、真の広宣流布を志すべきである。
(慧妙 令和二年六月一日)
原田は「御書根本」と強調するが、創価学会がまず「根本」に位置づけるのは、池田の「人間革命」に他ならない(写真は「創価新報」五月号)