般若心経。有名なお経である。多くの人が一度はその名を聞いたことがあるのではなかろうか。古来、読み書きによる功徳が信じられ、わずか二百六十二文字というのが写経にもってこいだったりで、仏教入門の経として用(もち)いられる。
昨今では、般若心経が書かれた、湯呑みや財布、ライターなどの商品が出回り、有り難いお守りアイテムとして購入する人もいるらしい。
さらには、法衣姿で般若心経を歌詞にしてメロディーに乗せて歌い、SNSで発信する僧侶も出現。文字通り、お経を売り物にして稼ぐ、破戒僧の如き存在までいる。
般若心経とは
お手軽に扱われている般若心経だが、本当はどんなお経なのだろう。僧侶も含めて多くの人が知らないのではないか。 使われ方を見ると、そうとしか思えないのだ。
そもそも般若心経は『大品(だいぼん)般若経』や『仁王(にんのう)般若経』など、般若部の経典群の一つで、それらの教えが簡潔にまとめられている故に「心経」と呼ばれる。大乗仏教の基本である「空(くう)」を説くこの経典は、念仏を唱える浄土宗系や法華経を最勝の経典と仰ぐ日蓮宗系を除き、ほとんどの宗派で読まれている。
お経の末尾に「ギャーテーギャーテー」との真言(密教で真実の語と言っている呪(じゅ))があることから、真言宗では密教に繋(つな)がる経典として重要視する。したがって、密教の影響を受ける修験道や遍路でも、修行の経文として用いられる。
ちなみに、怪談話の「耳なし芳一」では、琵琶法師が悪霊から身を守るために、体中に般若心経を書く、という場面があった。
このように、民間信仰においても、現世利益、悪霊退散などの呪術的効能があると信じられ、広く普及してきた。
空への執着
般若心経で有名な経文に「色即是空(しきそくぜくう)」がある。
これは、我々の存在や現象はすべて因縁によって生じるものであって、本来は、変わり続ける空(くう)なる存在である、というもの。
この視点で世の中を見れば、 執(とら)われるものがなくなり、結果として苦しみから脱却できる、とする。
そんな教えに着目し、最近では般若心経をメンタルケアに用いることも少なくないそうだ。
しかし、 空の思想とは、周りの縁から自分の感情まで、ありとあらゆるものを空と見て排斥(はいせき)し、最後には、自分を空っぽの器と見ることである。
そのような教えに執着すれば、いつしか、物事の意義や、自分の存在すら無価値ととらえる「虚無主義」に陥(おちい)り、自己否定に繋がりかねない。危険である。
真の智慧とは
般若とは「般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)」の略。「完全な(波羅蜜多)智慧 (般若)」と訳される梵語(ぼんご)の音写である。
「智慧」とは、すべてを正しくとらえて見定めるものであるが、般若心経では空の観点から、仏の智慧を明らかにしようとした。
しかし、法華経の開経である『無量義経』に、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 三三ページ)
また、法華経『警廠品』に、
「余経の一偈(いちげ)をも受けざれ」(同一八三ページ)
と説かれるように、仏の正意である法華経以前の経典には、仏の真実の智慧は明かされていない。もちろん般若心経にも説かれてはいない。
未完の教えを用いたところで、仏の智慧を得られないどころか、偏(かたよ)った見識により迷いの心を生じることとなる。
恐るべし。般若心経など、気軽に触れたり扱ったりしてはならないのだ。
対して法華経には、諸法の実相は空・仮・中が円融(互いに融合し、欠けることなく一体であるとする見方)した姿であると説かれる。
これこそ、 真実の仏の智慧であり、この智慧により、 衆生は迷いを切り捨てることなく、そのままの姿で成仏できることが明かさ
れている。この即身成仏の教えこそ、真実の仏の智慧(般若)である。
教えによって世の中の物事も、見え方は大きく変わる。
だからこそ、「お手軽」かどうかではなく、信受する教えは「正邪」によって選んでいくべきである。
(大白法 第一〇五九 令和三年八月十六日)
昨今では、般若心経が書かれた、湯呑みや財布、ライターなどの商品が出回り、有り難いお守りアイテムとして購入する人もいるらしい。
さらには、法衣姿で般若心経を歌詞にしてメロディーに乗せて歌い、SNSで発信する僧侶も出現。文字通り、お経を売り物にして稼ぐ、破戒僧の如き存在までいる。
般若心経とは
お手軽に扱われている般若心経だが、本当はどんなお経なのだろう。僧侶も含めて多くの人が知らないのではないか。 使われ方を見ると、そうとしか思えないのだ。
そもそも般若心経は『大品(だいぼん)般若経』や『仁王(にんのう)般若経』など、般若部の経典群の一つで、それらの教えが簡潔にまとめられている故に「心経」と呼ばれる。大乗仏教の基本である「空(くう)」を説くこの経典は、念仏を唱える浄土宗系や法華経を最勝の経典と仰ぐ日蓮宗系を除き、ほとんどの宗派で読まれている。
お経の末尾に「ギャーテーギャーテー」との真言(密教で真実の語と言っている呪(じゅ))があることから、真言宗では密教に繋(つな)がる経典として重要視する。したがって、密教の影響を受ける修験道や遍路でも、修行の経文として用いられる。
ちなみに、怪談話の「耳なし芳一」では、琵琶法師が悪霊から身を守るために、体中に般若心経を書く、という場面があった。
このように、民間信仰においても、現世利益、悪霊退散などの呪術的効能があると信じられ、広く普及してきた。
空への執着
般若心経で有名な経文に「色即是空(しきそくぜくう)」がある。
これは、我々の存在や現象はすべて因縁によって生じるものであって、本来は、変わり続ける空(くう)なる存在である、というもの。
この視点で世の中を見れば、 執(とら)われるものがなくなり、結果として苦しみから脱却できる、とする。
そんな教えに着目し、最近では般若心経をメンタルケアに用いることも少なくないそうだ。
しかし、 空の思想とは、周りの縁から自分の感情まで、ありとあらゆるものを空と見て排斥(はいせき)し、最後には、自分を空っぽの器と見ることである。
そのような教えに執着すれば、いつしか、物事の意義や、自分の存在すら無価値ととらえる「虚無主義」に陥(おちい)り、自己否定に繋がりかねない。危険である。
真の智慧とは
般若とは「般若波羅蜜多(はんにゃはらみった)」の略。「完全な(波羅蜜多)智慧 (般若)」と訳される梵語(ぼんご)の音写である。
「智慧」とは、すべてを正しくとらえて見定めるものであるが、般若心経では空の観点から、仏の智慧を明らかにしようとした。
しかし、法華経の開経である『無量義経』に、
「四十余年には未だ真実を顕さず」(法華経 三三ページ)
また、法華経『警廠品』に、
「余経の一偈(いちげ)をも受けざれ」(同一八三ページ)
と説かれるように、仏の正意である法華経以前の経典には、仏の真実の智慧は明かされていない。もちろん般若心経にも説かれてはいない。
未完の教えを用いたところで、仏の智慧を得られないどころか、偏(かたよ)った見識により迷いの心を生じることとなる。
恐るべし。般若心経など、気軽に触れたり扱ったりしてはならないのだ。
対して法華経には、諸法の実相は空・仮・中が円融(互いに融合し、欠けることなく一体であるとする見方)した姿であると説かれる。
これこそ、 真実の仏の智慧であり、この智慧により、 衆生は迷いを切り捨てることなく、そのままの姿で成仏できることが明かさ
れている。この即身成仏の教えこそ、真実の仏の智慧(般若)である。
教えによって世の中の物事も、見え方は大きく変わる。
だからこそ、「お手軽」かどうかではなく、信受する教えは「正邪」によって選んでいくべきである。
(大白法 第一〇五九 令和三年八月十六日)