大御本尊を否定せんがため日寛上人を否定
過去の「大聖人直結」なる日寛上人評は如何(いかん)!?
『教宣ハンドブック』は「三大秘法について」の項目の最後で、「『一大秘法』『六大秘法』について」と題して、次のように説明している。
<これまで、日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」や「六大秘法」ということを使用してきたが、「一大秘法」が「本門の本尊」であるという日寛上人の解釈は御書にはない。(中略)日寛上人が用いられている、三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものに説かれていない(中略)日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のなる部分と、要法寺の法主が続き、疲弊(ひへい)した宗派を護(まも)るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。(中略)その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。>
さて、日寛上人は『依義判文抄』で三大秘法の開合について、
「本尊は万法の総体なり、故に之れを合する則(とき)んば八万法蔵は但(ただ)六義と成る。亦(また)此の六義を合すれば則ち但三大秘法と成り、亦三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。 故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」
(六巻抄八二頁)
と御教示されている。これに対して学会は、日寛上人の御指南は御書にない言葉だから今後は用いるのをやめて、「三大秘法」の表現のみにする、というのである。
はて、学会は日寛上人書写の御本尊を利用して偽本尊を作った時、血脈相承を否定する反面、日寛上人は大聖人直結の信心をしていた方だから問題ない"と
強弁していたはずである。それなのに今度は、元となる本尊を書写した方の教学を否定しつつ、その本尊を拝み続ける、とは……。
さらに言えば、学会独自の「大聖人直結」なる語を連呼しているが、そのような用語も教義も御書にはないのだが……
脳乱している学会員には、これらの矛盾(むじゅん) がどう映っているのであろうか。
さて、『依義判文抄』は、「義に依(よ)って文を判じ」られた書である。つまり文底の義から『法華経』を拝したとき、経文上に三大秘法の語はなくとも、あらゆるところに三大秘法の意義が説かれていることを、経文と御書を引きながら説かれている。
さらに、
「若し此の経の謂(いわ)れを知って立ち還って之れを見る則(とき)(中略)文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛(あたか)も日月の如し。(中略)問う、
此の経の謂れを知るとは其の謂れ如何(いかん)。答う、宗祖の云わく『此の経は相伝に非ざれば知り難し』等云云」(六巻抄八O頁)
と、 御相伝の上から説かれると仰せられているように、日寛上人の教学も上人が勝手に作られたものではない。
その中で、御書にある「一大秘法」について触れられ、人法一箇の御本尊に全てが具(そな)わる義などから、一大秘法が「本門の本尊」であることを明らかにされ、さらに三大秘法、六大秘法の義を、御書の文意に基づいて示されたのである。
御書には隠顕の二義の教義がある。 学会も、御本尊は人法一箇であり、大聖人は人本尊、末法の御本仏である、という宗門の教義を踏襲(とうしゅう)してい
るようだが、そもそも、その文言も御書には述べられていない。 しかし、日興上人以来、御相伝によって全ての御法門が相伝 (つた)えられ、日寛上人がその御立場から御書や経文の文意に基づき六大秘法と示されたのである。
『依義判文抄』の冒頭には
「明者(めいしゃ)は其の理を貴び闇者(あんじゃ)は其の文を守る。 荷(いや)しくも槽糠(そうこう)に執し橋を問う、何(なん)の益(やく)かある」(六巻抄七九頁)
とあるが、「一大秘法」「六大秘法」の文言が御書にないからといって、大聖人の御法門ではない、などと即断する邪義は、槽糠に執する愚人に過ぎないのだ。騙 (だま) されている学会員のために、三大秘法についての日顕上人の御教示を紹介する
「日寛上人が『依義判文抄』に『本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり』と言われるのは、末法万年の御化導に約する名称である。 いわゆる本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖人出世の本懐、閻浮総与の御本尊として顕(あらわ)し給う故に、一切の本尊の根源であり、唯一総要の尊体であるから、
所々に数多くの本門の本尊を安置し、信心口唱するところのすべての功能は、本門戒壇の大御本尊に帰するのである。 すなわち、宗祖大聖人の御仏意により、戒壇の大御本尊に根本の事の戒壇として、一切の題目信行の功徳、戒壇所践の功能を具足する故である。 したがって、万年化導の上の三大秘法総在の大御本尊である。」(三大秘法義二三六頁)
血脈相承を否定し、本門戒壇の大御本尊を受持の対象から外した今、学会の教義はあらゆるところに綻(ほころ)ぴが出てきているといえる。 さらに、『ガイ
ドプック』の中で、伏線を引きながら、いずれ日寛上人をも否定するであろう。コロコロ教義が変わり続ける学会は、第三者の目から見ても異様である。 言葉巧みに誤魔化す学会に編されるのは、 もう終わりにしようではないか。
(慧妙 令和二年十月一日)
過去の「大聖人直結」なる日寛上人評は如何(いかん)!?
『教宣ハンドブック』は「三大秘法について」の項目の最後で、「『一大秘法』『六大秘法』について」と題して、次のように説明している。
<これまで、日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」や「六大秘法」ということを使用してきたが、「一大秘法」が「本門の本尊」であるという日寛上人の解釈は御書にはない。(中略)日寛上人が用いられている、三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものに説かれていない(中略)日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のなる部分と、要法寺の法主が続き、疲弊(ひへい)した宗派を護(まも)るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。(中略)その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。>
さて、日寛上人は『依義判文抄』で三大秘法の開合について、
「本尊は万法の総体なり、故に之れを合する則(とき)んば八万法蔵は但(ただ)六義と成る。亦(また)此の六義を合すれば則ち但三大秘法と成り、亦三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。 故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」
(六巻抄八二頁)
と御教示されている。これに対して学会は、日寛上人の御指南は御書にない言葉だから今後は用いるのをやめて、「三大秘法」の表現のみにする、というのである。
はて、学会は日寛上人書写の御本尊を利用して偽本尊を作った時、血脈相承を否定する反面、日寛上人は大聖人直結の信心をしていた方だから問題ない"と
強弁していたはずである。それなのに今度は、元となる本尊を書写した方の教学を否定しつつ、その本尊を拝み続ける、とは……。
さらに言えば、学会独自の「大聖人直結」なる語を連呼しているが、そのような用語も教義も御書にはないのだが……
脳乱している学会員には、これらの矛盾(むじゅん) がどう映っているのであろうか。
さて、『依義判文抄』は、「義に依(よ)って文を判じ」られた書である。つまり文底の義から『法華経』を拝したとき、経文上に三大秘法の語はなくとも、あらゆるところに三大秘法の意義が説かれていることを、経文と御書を引きながら説かれている。
さらに、
「若し此の経の謂(いわ)れを知って立ち還って之れを見る則(とき)(中略)文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛(あたか)も日月の如し。(中略)問う、
此の経の謂れを知るとは其の謂れ如何(いかん)。答う、宗祖の云わく『此の経は相伝に非ざれば知り難し』等云云」(六巻抄八O頁)
と、 御相伝の上から説かれると仰せられているように、日寛上人の教学も上人が勝手に作られたものではない。
その中で、御書にある「一大秘法」について触れられ、人法一箇の御本尊に全てが具(そな)わる義などから、一大秘法が「本門の本尊」であることを明らかにされ、さらに三大秘法、六大秘法の義を、御書の文意に基づいて示されたのである。
御書には隠顕の二義の教義がある。 学会も、御本尊は人法一箇であり、大聖人は人本尊、末法の御本仏である、という宗門の教義を踏襲(とうしゅう)してい
るようだが、そもそも、その文言も御書には述べられていない。 しかし、日興上人以来、御相伝によって全ての御法門が相伝 (つた)えられ、日寛上人がその御立場から御書や経文の文意に基づき六大秘法と示されたのである。
『依義判文抄』の冒頭には
「明者(めいしゃ)は其の理を貴び闇者(あんじゃ)は其の文を守る。 荷(いや)しくも槽糠(そうこう)に執し橋を問う、何(なん)の益(やく)かある」(六巻抄七九頁)
とあるが、「一大秘法」「六大秘法」の文言が御書にないからといって、大聖人の御法門ではない、などと即断する邪義は、槽糠に執する愚人に過ぎないのだ。騙 (だま) されている学会員のために、三大秘法についての日顕上人の御教示を紹介する
「日寛上人が『依義判文抄』に『本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり』と言われるのは、末法万年の御化導に約する名称である。 いわゆる本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖人出世の本懐、閻浮総与の御本尊として顕(あらわ)し給う故に、一切の本尊の根源であり、唯一総要の尊体であるから、
所々に数多くの本門の本尊を安置し、信心口唱するところのすべての功能は、本門戒壇の大御本尊に帰するのである。 すなわち、宗祖大聖人の御仏意により、戒壇の大御本尊に根本の事の戒壇として、一切の題目信行の功徳、戒壇所践の功能を具足する故である。 したがって、万年化導の上の三大秘法総在の大御本尊である。」(三大秘法義二三六頁)
血脈相承を否定し、本門戒壇の大御本尊を受持の対象から外した今、学会の教義はあらゆるところに綻(ほころ)ぴが出てきているといえる。 さらに、『ガイ
ドプック』の中で、伏線を引きながら、いずれ日寛上人をも否定するであろう。コロコロ教義が変わり続ける学会は、第三者の目から見ても異様である。 言葉巧みに誤魔化す学会に編されるのは、 もう終わりにしようではないか。
(慧妙 令和二年十月一日)