学会流「御書根本」の”文証”は天台大師の釈(しゃく)
それでいて”人師論師(にんしろんし)を否定する学会の矛盾(むじゅん)
学会はよく「御書根本」「御書にないものは邪義だ」というが、そもそも御書によってニセ本尊の正当性を示すことはできない。信仰の根幹である御本尊を勝手に変造・印刷・販売してもよい、などという御文があるわけがないのである。
『創価新報』では、いまだに「『御書根本』こそ大聖人の仏法の正道」などと、学会員を嘱(だま)している。
ここで創価学会のいう「御書根本」とは、正当な血脈相伝によらず、我見によって都合よく御書を用(もち)い、解釈することでしかない。
日蓮正宗には、学会のいうような妄執(もうしゅう)的な「御書根本」という考えは存在しない。大聖人の仏法を信心していく私達の根本教典として、『御書』は根本中の根本である。これは日蓮門下においてごく当たり前のことである。だが、日蓮門下は皆、大聖人の御書を根本にしているにも関わらず、十派以上に分裂している。それは何故か?
それは学会と同様に、御書を自らの都合に合わせて読み、その自己流の解釈を教義とするからである。
第六十七世日顕上人は、
「『御本尊根本』などということは、何も池田や創価学会のみならず、日蓮宗の各門下教団においても同様であり、皆、御書のお示しによって宗義を立てているのです。
ただし、その拝し方が違うから多くの宗派が分かれるのであり、御書に依(よ)りつつ、御書の意に背(そむ)く邪義となるのであります」
(『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
と仰せである。
大聖人の御書に説かれる教法は、実に広範で、その意は甚深である。
仏法の法体、教義、行法、利益を示されたり、五重相対や五重三段の教相面、一念三千、唱題や折伏等の観心面など、挙げればきりがない。さらに天台・妙楽・伝教の論釈から、孔子・老子の儒教・道教の説をも引用されたり、また、それらを縦横無尽、自由闊達(かったつ)に展開され、大聖人の仏法の助顕とされている。
この複雑極まる御書を後世の者が文面だけを拝し、皆一様の解釈をすることなど、できようはずがないのである。
では、御書を正しく拝していくには、どうすればよいのか。それには血脈相承を受けられた歴代御法主上人の御教示がなければならないのである。
日蓮大聖人は『一代聖教大意』に
「比の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二頁)
と仰せられ、日興上人は『日興遺誠置文』に
「御抄を心肝に染め極理(ごくり) を師伝して」(御書一八八四頁)
と御指南くださっている。「御書根本」を振りかざす学会は、これらの御書に破折されているといえる。
これらの戒めに適(かな)う正しき御書根本とは、御本仏日蓮大聖人より唯我与我の相伝を受けられた日興上人以来、唯授一人血脈付法の御法主上人の御指南をもとに、すなわち極理の師伝によって、正しく御書を拝するところに真義が存する。御書に示される大聖人の御聖意は、その深い元意と義理を「極理師伝」の上から拝していかなければならないのである。
また、学会において、「御書根本」の裏付けとしている御文は、
『持妙法華問答抄』の
「文証無きは悉(ことごと)く是(これ)邪 謂(じゃい)なり」(御書二九四頁)
である。
学会が引用するこの御文の前後を見ると
「天台は『若(も)し深く所以(ゆえん)有りて、復修多羅(しゅたら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず』と判じ給へり。又云はく『文証無は悉(ことごと)く是(これ)邪謂(じゃい)なり』とも云へり。いか✓心
得べきや」(御書二九四頁)
とある。つまり、この部分は天台の釈を引用された箇所である。
学会では、これを切り文して、「大聖人以外の人師論師(歴代御法主上人を指している)の論釈は邪義だ」として、「御書根本」であるから、途中の人師論師の論説を用いてはならない、とするのである。
だが、学会の引くこの御文を述べた天台大師こそ、まさに人師論師に当たる。人師論師の論説を用いてはならないとしながら、 人師論師の論説で自らを正当化しようとするお組末さ、これが学会お得意の「切り文」である。
このように創価学会は自らの偏向した「御書根本」を正当としているもののそれすら御書によって立証することができないのである。
繰り返していうが、日蓮正宗における御書根本義とは、日蓮大聖人より唯我与我の血脈を承(う)けられた二祖日興上人等、歴代御法主上人の御内証の上からの御教示を尊信し、そこを通じて大聖人の御書を心肝に染めるのである。御歴代の血脈を信じ、すなわち、師弟相対の信心によって御当代の御指南に信伏随従し、大聖人の仏法を正しく信解(しんげ)し行ずる日蓮正宗の僧俗こそ、真に御書を根本としている姿といえるのである。
「比の経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せのように、血脈法水を抜きにして「御書根本」を語ることはできないのであって、創価学会のごとき「御書根本」の妄言は、まさに仏法を惑乱(わくらん)する大謗法なのである。
(慧妙 令和二年十月一日)
それでいて”人師論師(にんしろんし)を否定する学会の矛盾(むじゅん)
学会はよく「御書根本」「御書にないものは邪義だ」というが、そもそも御書によってニセ本尊の正当性を示すことはできない。信仰の根幹である御本尊を勝手に変造・印刷・販売してもよい、などという御文があるわけがないのである。
『創価新報』では、いまだに「『御書根本』こそ大聖人の仏法の正道」などと、学会員を嘱(だま)している。
ここで創価学会のいう「御書根本」とは、正当な血脈相伝によらず、我見によって都合よく御書を用(もち)い、解釈することでしかない。
日蓮正宗には、学会のいうような妄執(もうしゅう)的な「御書根本」という考えは存在しない。大聖人の仏法を信心していく私達の根本教典として、『御書』は根本中の根本である。これは日蓮門下においてごく当たり前のことである。だが、日蓮門下は皆、大聖人の御書を根本にしているにも関わらず、十派以上に分裂している。それは何故か?
それは学会と同様に、御書を自らの都合に合わせて読み、その自己流の解釈を教義とするからである。
第六十七世日顕上人は、
「『御本尊根本』などということは、何も池田や創価学会のみならず、日蓮宗の各門下教団においても同様であり、皆、御書のお示しによって宗義を立てているのです。
ただし、その拝し方が違うから多くの宗派が分かれるのであり、御書に依(よ)りつつ、御書の意に背(そむ)く邪義となるのであります」
(『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)
と仰せである。
大聖人の御書に説かれる教法は、実に広範で、その意は甚深である。
仏法の法体、教義、行法、利益を示されたり、五重相対や五重三段の教相面、一念三千、唱題や折伏等の観心面など、挙げればきりがない。さらに天台・妙楽・伝教の論釈から、孔子・老子の儒教・道教の説をも引用されたり、また、それらを縦横無尽、自由闊達(かったつ)に展開され、大聖人の仏法の助顕とされている。
この複雑極まる御書を後世の者が文面だけを拝し、皆一様の解釈をすることなど、できようはずがないのである。
では、御書を正しく拝していくには、どうすればよいのか。それには血脈相承を受けられた歴代御法主上人の御教示がなければならないのである。
日蓮大聖人は『一代聖教大意』に
「比の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書九二頁)
と仰せられ、日興上人は『日興遺誠置文』に
「御抄を心肝に染め極理(ごくり) を師伝して」(御書一八八四頁)
と御指南くださっている。「御書根本」を振りかざす学会は、これらの御書に破折されているといえる。
これらの戒めに適(かな)う正しき御書根本とは、御本仏日蓮大聖人より唯我与我の相伝を受けられた日興上人以来、唯授一人血脈付法の御法主上人の御指南をもとに、すなわち極理の師伝によって、正しく御書を拝するところに真義が存する。御書に示される大聖人の御聖意は、その深い元意と義理を「極理師伝」の上から拝していかなければならないのである。
また、学会において、「御書根本」の裏付けとしている御文は、
『持妙法華問答抄』の
「文証無きは悉(ことごと)く是(これ)邪 謂(じゃい)なり」(御書二九四頁)
である。
学会が引用するこの御文の前後を見ると
「天台は『若(も)し深く所以(ゆえん)有りて、復修多羅(しゅたら)と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず』と判じ給へり。又云はく『文証無は悉(ことごと)く是(これ)邪謂(じゃい)なり』とも云へり。いか✓心
得べきや」(御書二九四頁)
とある。つまり、この部分は天台の釈を引用された箇所である。
学会では、これを切り文して、「大聖人以外の人師論師(歴代御法主上人を指している)の論釈は邪義だ」として、「御書根本」であるから、途中の人師論師の論説を用いてはならない、とするのである。
だが、学会の引くこの御文を述べた天台大師こそ、まさに人師論師に当たる。人師論師の論説を用いてはならないとしながら、 人師論師の論説で自らを正当化しようとするお組末さ、これが学会お得意の「切り文」である。
このように創価学会は自らの偏向した「御書根本」を正当としているもののそれすら御書によって立証することができないのである。
繰り返していうが、日蓮正宗における御書根本義とは、日蓮大聖人より唯我与我の血脈を承(う)けられた二祖日興上人等、歴代御法主上人の御内証の上からの御教示を尊信し、そこを通じて大聖人の御書を心肝に染めるのである。御歴代の血脈を信じ、すなわち、師弟相対の信心によって御当代の御指南に信伏随従し、大聖人の仏法を正しく信解(しんげ)し行ずる日蓮正宗の僧俗こそ、真に御書を根本としている姿といえるのである。
「比の経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せのように、血脈法水を抜きにして「御書根本」を語ることはできないのであって、創価学会のごとき「御書根本」の妄言は、まさに仏法を惑乱(わくらん)する大謗法なのである。
(慧妙 令和二年十月一日)
歪んだ「御書根本」など、学会の様々な邪義を粉砕した 『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』