淡路島の巨大観音像「世界平和大観音像」が、約九億円の税金を使って解体工事中という。
この像の処理を巡り、関係者が苦慮する姿が報道されている。
像が立つ平和観音寺は、宗教法人の認定をされておらず、造ったのも僧侶ではなく不動産屋。しかし、事情を知らない人にすれば見た目は観音であり、ついつい手を合わせてしまう人もいたようだ。
そもそも観音菩薩は、けっして仏ではない。しかし、悟りを求め、衆生を救済する姿に、古くから信仰を集めてきた。
信仰される菩薩は数多く、紙面で紹介しきれないが、ここでは主(おも)なものを挙げてみよう。
観音信仰
観音は、最も多く信仰される菩薩であろう。
観音の利益が説かれたのは法華経であり、そこには、衆生が観音の名を唱えれば、その声に応じて衆生の苦難を除き、福楽を与えるとされている。
また、観音には千手観音や馬頭(ばとう)観音など多種あるが、これは救う対象に応じて自らの姿を変え、あらゆる衆生を救うことに由来する。
そんな現世利益的性格が民衆に受け入れられ、どのような願いでも叶えてくれる菩薩として信仰されるようになったというのだ。
しかし、誤ってはいけないのが、法華経で観音の利益を説いたのは、あくまで法華経の正義を宣揚するためであること。
つまり『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る事、観音の利益より天地雲泥せり」
(御書 一七八九㌻)
と御示しのように、観音の利益は、広大無辺(こうだいむへん)なる妙法の力用(りきゆう)によって成されることを忘れてはならない。
そこを蔑(ないがし)ろにして、直ちに観音を信仰することは誤りである。
弥勒(みろく)と地蔵の信仰
太平洋沿いの地域に、弥勒菩薩の来迎(らいごう)を願う信仰が、弥勒踊りなどの形で伝わっている。
弥勒とは、釈尊に次いで仏に成るとされた菩薩であり、五十六億七千万年後に人界へ下生し衆生を救済すると信じられている。
しかし、弥勒が未来仏であることは、釈尊有縁の弟子に対して説かれたもの(熟脱(じゅくだつ)の化導)。
このことについて日蓮大聖人は『教行証御書』に、
「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁(けちえん)の者一人も無し」(同 一一〇三㌻)
と、末法の衆生は釈尊と無縁であることを説かれており、自ずと弥勒を未来仏と信じることも誤りである。
また、弥勒が下生するまでの空白の期間、人々を導くとされるのが、道路脇の"お地蔵さん"こと、地蔵菩薩である。
地蔵といえば、賽(さい)の河原で石積みをする子供を救うイメージがある。これは、平安時代に地獄思想が定着した頃、地蔵が六道を巡り、苦しむ衆生を救済するとされたことによっている。
さらに、地蔵に手を合わせれば、地蔵が代わりに苦しみを受け、 地獄の裁判で罰せられるのを救うという俗信も生まれた。
しかし、地蔵について説かれる経典の多くは、後代に作られた偽経である。 手を合わせたところで利益はなく、地蔵を祀(まつ)ることは謗法となるのだ。
仏の正意に沿った信仰
大聖人は『法華初心成仏抄』において、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ふ」(同 一三二二㌻)
と、妙法蓮華経は一切の仏が修行し成仏得道した教えであると教示されている。諸菩薩もまた、妙法の教えによって成仏を志(こころざ)し、御本仏の使いとして衆生を救済されたのである。
それを、有り難そうだからと、凡夫の浅知恵で好きな菩薩を選んで拝むことは、従者を重んじ、主人である御本仏を蔑ろにする行為であり、仏意に背く謗法である。
現世利益と後生善処(ごじょうぜんしょ)は誰もが願うところであるが、『持妙法華問答抄』には、
「願はくは『現世安穏(げんぜあんのん)後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ」(同 三〇〇㌻)
とあり、妙法を一心に信じ、御題目を唱えていくことこそが、現当二世に亘って人生を豊かにする、唯一絶対の方途なのである。
(大白法 第一〇七七号 令和四年五月十六日)
この像の処理を巡り、関係者が苦慮する姿が報道されている。
像が立つ平和観音寺は、宗教法人の認定をされておらず、造ったのも僧侶ではなく不動産屋。しかし、事情を知らない人にすれば見た目は観音であり、ついつい手を合わせてしまう人もいたようだ。
そもそも観音菩薩は、けっして仏ではない。しかし、悟りを求め、衆生を救済する姿に、古くから信仰を集めてきた。
信仰される菩薩は数多く、紙面で紹介しきれないが、ここでは主(おも)なものを挙げてみよう。
観音信仰
観音は、最も多く信仰される菩薩であろう。
観音の利益が説かれたのは法華経であり、そこには、衆生が観音の名を唱えれば、その声に応じて衆生の苦難を除き、福楽を与えるとされている。
また、観音には千手観音や馬頭(ばとう)観音など多種あるが、これは救う対象に応じて自らの姿を変え、あらゆる衆生を救うことに由来する。
そんな現世利益的性格が民衆に受け入れられ、どのような願いでも叶えてくれる菩薩として信仰されるようになったというのだ。
しかし、誤ってはいけないのが、法華経で観音の利益を説いたのは、あくまで法華経の正義を宣揚するためであること。
つまり『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る事、観音の利益より天地雲泥せり」
(御書 一七八九㌻)
と御示しのように、観音の利益は、広大無辺(こうだいむへん)なる妙法の力用(りきゆう)によって成されることを忘れてはならない。
そこを蔑(ないがし)ろにして、直ちに観音を信仰することは誤りである。
弥勒(みろく)と地蔵の信仰
太平洋沿いの地域に、弥勒菩薩の来迎(らいごう)を願う信仰が、弥勒踊りなどの形で伝わっている。
弥勒とは、釈尊に次いで仏に成るとされた菩薩であり、五十六億七千万年後に人界へ下生し衆生を救済すると信じられている。
しかし、弥勒が未来仏であることは、釈尊有縁の弟子に対して説かれたもの(熟脱(じゅくだつ)の化導)。
このことについて日蓮大聖人は『教行証御書』に、
「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁(けちえん)の者一人も無し」(同 一一〇三㌻)
と、末法の衆生は釈尊と無縁であることを説かれており、自ずと弥勒を未来仏と信じることも誤りである。
また、弥勒が下生するまでの空白の期間、人々を導くとされるのが、道路脇の"お地蔵さん"こと、地蔵菩薩である。
地蔵といえば、賽(さい)の河原で石積みをする子供を救うイメージがある。これは、平安時代に地獄思想が定着した頃、地蔵が六道を巡り、苦しむ衆生を救済するとされたことによっている。
さらに、地蔵に手を合わせれば、地蔵が代わりに苦しみを受け、 地獄の裁判で罰せられるのを救うという俗信も生まれた。
しかし、地蔵について説かれる経典の多くは、後代に作られた偽経である。 手を合わせたところで利益はなく、地蔵を祀(まつ)ることは謗法となるのだ。
仏の正意に沿った信仰
大聖人は『法華初心成仏抄』において、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ふ」(同 一三二二㌻)
と、妙法蓮華経は一切の仏が修行し成仏得道した教えであると教示されている。諸菩薩もまた、妙法の教えによって成仏を志(こころざ)し、御本仏の使いとして衆生を救済されたのである。
それを、有り難そうだからと、凡夫の浅知恵で好きな菩薩を選んで拝むことは、従者を重んじ、主人である御本仏を蔑ろにする行為であり、仏意に背く謗法である。
現世利益と後生善処(ごじょうぜんしょ)は誰もが願うところであるが、『持妙法華問答抄』には、
「願はくは『現世安穏(げんぜあんのん)後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ」(同 三〇〇㌻)
とあり、妙法を一心に信じ、御題目を唱えていくことこそが、現当二世に亘って人生を豊かにする、唯一絶対の方途なのである。
(大白法 第一〇七七号 令和四年五月十六日)