弘法抄は状況証拠が明白、三秘抄は解析(かいせき)で真書(しんしょ)と確定
邪説(じゃせつ)を掲(かか)げる正信会は「日蓮正宗」詐称(さしょう)をやめよ!
正信会僧侶の加藤法研が、顕正会を批判する文章を正信会機関紙『継命』(四月十五日号)に書いている。顕正会についての批判はともかく、問題は次の箇所である。
加藤いわく
「彼らの主張の依拠(いきょ)は『三大秘法稟承事』と『日蓮一期弘法付嘱書』の二書で、これは共に日蓮大聖人の御書とはいい難(がた)いものです」と。
さらに文章の後半では、大聖人滅後百五十年から二百年頃の大石寺では、人材不足がおきていました。(中略)そういうとき宗門の人材不足の解決と信徒増加をなすために法華本門の戒壇建立を意識して書を作り、天台山·比叡山より優れた霊峰富士の裾野に本門寺の戒壇を建立しようとした人も出てきました。」
と、あたかも『三大秘法稟承事』と「日蓮一期弘法付嘱書』が大聖人滅後百五十年から二百年頃に作られた偽書であるかのように、書き殴っているのである。
このように、日蓮正宗における秘伝書・相伝書を臆説(おくせつ) をもって偽書扱いする輩が、今なお勝手に「日蓮正宗」を名乗っているとは迷惑この上ない。 また、加藤の悪文を掲載した『継命』及び執行部も同罪でである。この際、「日蓮正宗」を詐称(さしょう)するのはやめてほしいものだ。
ともあれ、加藤の臆説に惑わされる人々のために、『日蓮一期弘法付嘱書』ならびに『三大秘法稟承事』の出自等について、その概要を述べよう。
まず 『日蓮一期弘法付嘱書』であるが、そもそも二箇相承は、日興上人が大聖人より賜(たま)わった大事の相伝書であれば、日興上人はこれを御身に当てて厳護あそばされ、永仁六年(一二九八年)、大石寺を日目上人にお任(まか)せになって重須へ移られて以後は、 御自身の住される重須に蔵された。
しかしながら、日興上人の御遷化(せんげ)後、重須に秘蔵されていた二箇相承は、天正九年(一五八一年)三月十七日、武田勝頼によって正本が押収され、そのまま所在がわからなくなってしまったのである。
とはいえ、確かにあったことを証明する記録や写本が実在する。
まず、重須二代学頭の三位日順師が書いた延元元年(一三三六年)の『日順阿闍梨血脈』と貞和六年(一三五〇年)の『摧邪立正抄』に、「日興上人は是日蓮聖人の付処本門所伝の導師也。稟承五人に超え紹継章安に並ぶ」(『日順阿閣梨血脈』富要集二巻二二頁)「日興上人に授くる遺札には白蓮阿閣梨と云々」(『推邪立正抄』富要集二巻五〇頁)と、二箇相承を指す記述をしている。また、時代は下るが、弘治二年(一五五六年)、重須八代日耀が臨写
(※原本の行数·字配り・字形に至るまで忠実に模写すること)
した二箇相承が西山本門寺に現存するが、そこには二箇相承を臨写するに至った由来が書き添えられているのである。
このように、実在したことを裏付ける記録·写本があり、かつ正本紛失時の事情も明らかである以上、現在は真蹟 (しんせき)の所在が不明であっても、これに疑いを差し挟(はさ)むべきではない。次に『三大秘法稟承事』であるが、これについては、文部省(当時)の統計数理研究所において、昭和五十二年から三年かけてコンピューター解析を行ない、大聖人の御真筆である確率は一二〇%以上である、との結果を発表している。
(昭和五十五年六月七日「朝日新聞』など)
また日蓮正宗とは仇敵(きゅうてき)の間柄といえる身延山久遠寺で、平成二十五年に、五老僧の一人、民部日向の筆と伝えられる『三大秘法稟承事』の写本を修復して公開。日向は正和三年(一三一四年)の寂であるから、これが日向の真蹟であれば、遅くも日蓮大聖人滅後三十三年には写太が存在したことになる。
このように、両書を偽書扱いする加藤の邪説は、資料に当たればいとも簡単に覆(くつがえ) せる他愛ないものであるが、問題なのは、こんな邪説を平然と掲載している『継命』紙であり、それを機関紙としている正信会である。我々は、そのような正信会にしがみついている哀れな会員たちを、一人でも多く救っていこうではないか。
(慧妙 令和二年六月十六日号)
邪説(じゃせつ)を掲(かか)げる正信会は「日蓮正宗」詐称(さしょう)をやめよ!
正信会僧侶の加藤法研が、顕正会を批判する文章を正信会機関紙『継命』(四月十五日号)に書いている。顕正会についての批判はともかく、問題は次の箇所である。
加藤いわく
「彼らの主張の依拠(いきょ)は『三大秘法稟承事』と『日蓮一期弘法付嘱書』の二書で、これは共に日蓮大聖人の御書とはいい難(がた)いものです」と。
さらに文章の後半では、大聖人滅後百五十年から二百年頃の大石寺では、人材不足がおきていました。(中略)そういうとき宗門の人材不足の解決と信徒増加をなすために法華本門の戒壇建立を意識して書を作り、天台山·比叡山より優れた霊峰富士の裾野に本門寺の戒壇を建立しようとした人も出てきました。」
と、あたかも『三大秘法稟承事』と「日蓮一期弘法付嘱書』が大聖人滅後百五十年から二百年頃に作られた偽書であるかのように、書き殴っているのである。
このように、日蓮正宗における秘伝書・相伝書を臆説(おくせつ) をもって偽書扱いする輩が、今なお勝手に「日蓮正宗」を名乗っているとは迷惑この上ない。 また、加藤の悪文を掲載した『継命』及び執行部も同罪でである。この際、「日蓮正宗」を詐称(さしょう)するのはやめてほしいものだ。
ともあれ、加藤の臆説に惑わされる人々のために、『日蓮一期弘法付嘱書』ならびに『三大秘法稟承事』の出自等について、その概要を述べよう。
まず 『日蓮一期弘法付嘱書』であるが、そもそも二箇相承は、日興上人が大聖人より賜(たま)わった大事の相伝書であれば、日興上人はこれを御身に当てて厳護あそばされ、永仁六年(一二九八年)、大石寺を日目上人にお任(まか)せになって重須へ移られて以後は、 御自身の住される重須に蔵された。
しかしながら、日興上人の御遷化(せんげ)後、重須に秘蔵されていた二箇相承は、天正九年(一五八一年)三月十七日、武田勝頼によって正本が押収され、そのまま所在がわからなくなってしまったのである。
とはいえ、確かにあったことを証明する記録や写本が実在する。
まず、重須二代学頭の三位日順師が書いた延元元年(一三三六年)の『日順阿闍梨血脈』と貞和六年(一三五〇年)の『摧邪立正抄』に、「日興上人は是日蓮聖人の付処本門所伝の導師也。稟承五人に超え紹継章安に並ぶ」(『日順阿閣梨血脈』富要集二巻二二頁)「日興上人に授くる遺札には白蓮阿閣梨と云々」(『推邪立正抄』富要集二巻五〇頁)と、二箇相承を指す記述をしている。また、時代は下るが、弘治二年(一五五六年)、重須八代日耀が臨写
(※原本の行数·字配り・字形に至るまで忠実に模写すること)
した二箇相承が西山本門寺に現存するが、そこには二箇相承を臨写するに至った由来が書き添えられているのである。
このように、実在したことを裏付ける記録·写本があり、かつ正本紛失時の事情も明らかである以上、現在は真蹟 (しんせき)の所在が不明であっても、これに疑いを差し挟(はさ)むべきではない。次に『三大秘法稟承事』であるが、これについては、文部省(当時)の統計数理研究所において、昭和五十二年から三年かけてコンピューター解析を行ない、大聖人の御真筆である確率は一二〇%以上である、との結果を発表している。
(昭和五十五年六月七日「朝日新聞』など)
また日蓮正宗とは仇敵(きゅうてき)の間柄といえる身延山久遠寺で、平成二十五年に、五老僧の一人、民部日向の筆と伝えられる『三大秘法稟承事』の写本を修復して公開。日向は正和三年(一三一四年)の寂であるから、これが日向の真蹟であれば、遅くも日蓮大聖人滅後三十三年には写太が存在したことになる。
このように、両書を偽書扱いする加藤の邪説は、資料に当たればいとも簡単に覆(くつがえ) せる他愛ないものであるが、問題なのは、こんな邪説を平然と掲載している『継命』紙であり、それを機関紙としている正信会である。我々は、そのような正信会にしがみついている哀れな会員たちを、一人でも多く救っていこうではないか。
(慧妙 令和二年六月十六日号)
「継命」(4月15日号)の掲載された加藤の邪説