仏法壊乱(えらん)の言辞
正信会が発行する本年正月号の会報に、
「池田大作氏・阿部日顕師の謗法の根源が、 日興上人の弟子・信者であることを忘れ、御本仏大聖人との同格の思いを懐き、公の仏法を私心に弄(もてあそ)ぶところにあるように、僧道を歩む者にとっては最高の反面教師であろう」(正信会報 令和五年正月号十五㌻)
と載っていた。
古参の正信会僧侶である田村竜道が書いた従前の所感を、最近になって再録て紹介したものらしい。
池田大作はともかくも、日顕上人をして「日興上人の弟子・信者であることを忘れ、御本仏大聖人との同格の思いを懐き、公の仏法を私心に弄ぶ」などと誹謗(ひぼう)するのは、的外れも甚(はなは)だしい。
むしろ、いたずらに御法主上人を誹謗する言(げん)こそ、師弟子(しでし)の分別を「忘れ」、御法主上人と「同格の思いを懐き」、血脈相承の大事を 「私心に弄ぶ」所業に他ならないではないか。
まさに、田村の言葉は「僧道を歩む者にとっては最高の反面教師」である。
天に唾(つば)する愚言
総本山第四十八世日量上人は『続家中抄(ぞくけちゅうしょう)』に、
「一山皆貫主(みなかんず)の下知(げち)に随(したが)ひ、貫主の座上を踏まざる事悉(ことごと)く信の一字の修行にて候」
(日蓮正宗聖典九四七㌻)
と誠(いまし)められている。
いかに時代が遷(うつ)り変わろうとも、時の御法主上人の「下知」に信を置き、師弟子の筋目を違(たが)えることなく、正直一途(いちず)に精進することが、本宗の修行の基本である。
この大前提に立つとき、田村の言い分には、いささかも本宗信仰の正しい筋道を垣間(かいま)見ることはできない。所詮、田村の所感など、天に唾する愚かな言葉。その愚言は、己(おのれ)の悪心と悪行を暴(あば)いているのである。
大聖人以来の正統血脈
日量上人は、さらに次のごとく続けられている。
「釈迦日蓮代々上人と相承の法水相(ほっすいあい)流れ候(そうら)へば、
上代末代其(そ)の身の器は替(か)はれども法水の替はる事少(すこ)しも之(こ)れなく候(そうろう)。此(か)くの如(ごと)く信ずる時は末代迄(まで)も(中略)常に寺檀仏種を植ゑ三宝の御威光鎮(とこし)なへに於閻浮提広令(えんぶだいこうりょう) 流布は疑ひなき事に候」(同)
この日量上人御指南と相通ずる御教導を、御先師日顕上人も仰せである。
「信心の血脈(けちみゃく)はけっして法主一人でなく、正義を伝承する僧俗一切が、その信条、法門について一体の信心を保ち、化儀の実践をなすところ、法水相通じて信解得道全く等しく、無量の民衆が即身成仏の本懐を得るのであります」(大日蓮 四九五号)
つまりは、御歴代大人への唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈相承を拝信する中に、本宗僧俗の一切へも、大聖人以来の正統な血脈が流れ通うのである。
田村のごとく、我意我見をもって大聖人の正義を蹂躍(じゅうりん)する者には、わずかばかりの血脈も流れはしない。
唯授一人血脈相承を否定する者は、自らの血脈法水も断っているのである。
即身成仏の功徳の根源
日顕上人はまた、次のように御指南されている。
「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります。 故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せぬ者の戯言(たわごと)であり、信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります」(同)
この御指南に、御歴代上人の唯授一人血脈相承と、ここを中心として一切に通ずる血脈法水の関係性は明確と拝する。
正信会の者たちは、衰退の極みにある今となっても、日顕上人へ憎悪(ぞうお)の言を連(つら)ねるが、そんな中からは罪業以外に何も生まれない。
その歪(ゆが)んだ心根(こころね)を正すのは私たちの折伏である。
日蓮大聖人御聖誕八百年を御報恩申し上げるためにも、力強き破邪顕正の実践をもって、 正信会僧俗をも救っていこう。
(大白法 令和5年 5月1日 第一一00号)
正信会が発行する本年正月号の会報に、
「池田大作氏・阿部日顕師の謗法の根源が、 日興上人の弟子・信者であることを忘れ、御本仏大聖人との同格の思いを懐き、公の仏法を私心に弄(もてあそ)ぶところにあるように、僧道を歩む者にとっては最高の反面教師であろう」(正信会報 令和五年正月号十五㌻)
と載っていた。
古参の正信会僧侶である田村竜道が書いた従前の所感を、最近になって再録て紹介したものらしい。
池田大作はともかくも、日顕上人をして「日興上人の弟子・信者であることを忘れ、御本仏大聖人との同格の思いを懐き、公の仏法を私心に弄ぶ」などと誹謗(ひぼう)するのは、的外れも甚(はなは)だしい。
むしろ、いたずらに御法主上人を誹謗する言(げん)こそ、師弟子(しでし)の分別を「忘れ」、御法主上人と「同格の思いを懐き」、血脈相承の大事を 「私心に弄ぶ」所業に他ならないではないか。
まさに、田村の言葉は「僧道を歩む者にとっては最高の反面教師」である。
天に唾(つば)する愚言
総本山第四十八世日量上人は『続家中抄(ぞくけちゅうしょう)』に、
「一山皆貫主(みなかんず)の下知(げち)に随(したが)ひ、貫主の座上を踏まざる事悉(ことごと)く信の一字の修行にて候」
(日蓮正宗聖典九四七㌻)
と誠(いまし)められている。
いかに時代が遷(うつ)り変わろうとも、時の御法主上人の「下知」に信を置き、師弟子の筋目を違(たが)えることなく、正直一途(いちず)に精進することが、本宗の修行の基本である。
この大前提に立つとき、田村の言い分には、いささかも本宗信仰の正しい筋道を垣間(かいま)見ることはできない。所詮、田村の所感など、天に唾する愚かな言葉。その愚言は、己(おのれ)の悪心と悪行を暴(あば)いているのである。
大聖人以来の正統血脈
日量上人は、さらに次のごとく続けられている。
「釈迦日蓮代々上人と相承の法水相(ほっすいあい)流れ候(そうら)へば、
上代末代其(そ)の身の器は替(か)はれども法水の替はる事少(すこ)しも之(こ)れなく候(そうろう)。此(か)くの如(ごと)く信ずる時は末代迄(まで)も(中略)常に寺檀仏種を植ゑ三宝の御威光鎮(とこし)なへに於閻浮提広令(えんぶだいこうりょう) 流布は疑ひなき事に候」(同)
この日量上人御指南と相通ずる御教導を、御先師日顕上人も仰せである。
「信心の血脈(けちみゃく)はけっして法主一人でなく、正義を伝承する僧俗一切が、その信条、法門について一体の信心を保ち、化儀の実践をなすところ、法水相通じて信解得道全く等しく、無量の民衆が即身成仏の本懐を得るのであります」(大日蓮 四九五号)
つまりは、御歴代大人への唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈相承を拝信する中に、本宗僧俗の一切へも、大聖人以来の正統な血脈が流れ通うのである。
田村のごとく、我意我見をもって大聖人の正義を蹂躍(じゅうりん)する者には、わずかばかりの血脈も流れはしない。
唯授一人血脈相承を否定する者は、自らの血脈法水も断っているのである。
即身成仏の功徳の根源
日顕上人はまた、次のように御指南されている。
「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります。 故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せぬ者の戯言(たわごと)であり、信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります」(同)
この御指南に、御歴代上人の唯授一人血脈相承と、ここを中心として一切に通ずる血脈法水の関係性は明確と拝する。
正信会の者たちは、衰退の極みにある今となっても、日顕上人へ憎悪(ぞうお)の言を連(つら)ねるが、そんな中からは罪業以外に何も生まれない。
その歪(ゆが)んだ心根(こころね)を正すのは私たちの折伏である。
日蓮大聖人御聖誕八百年を御報恩申し上げるためにも、力強き破邪顕正の実践をもって、 正信会僧俗をも救っていこう。
(大白法 令和5年 5月1日 第一一00号)