顕正新聞を見てみると、本年一月度総幹部会での浅井の指導が載っていた。そこには、
「広告こそ『開目のメス』」(顕正新聞 平成三十年二月五日付)
との大見出しが出ていた。
本紙九七〇号にも取り上げたが、これは会長・浅井昭衛の著書『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』の広告で、今まではタブロイド紙の載せたもののコピーを「大量に発行する」そうだ。
浅井は、
「私はこの広告文こそ、日蓮大聖人の大恩徳を全日本人に教え、目を開かせる、『開目のメス』だと思っております」(同)などと、不遜にも『開目抄』を連想させるような表現までして、自画自賛している。
たかが広告をそこまで自賛するとは・・・。全く理解に苦しむ。
そもそも自身が広告代を支払って載せたものである。そのコピーを大量に発行など、聞いたことがない。
パンフレットなどを独自に製作するのが一般的であろう。
そこに、顕正会ならではの止むに止まれる理由がある。
おそらく「新聞にも載った」として、世間にも認められている団体であるとアピールしたいのであろう。
警察の家宅捜索を受けた経験を踏まえてなのだろうが、いかにも安易な思いつきではないか。
富士山と安国論の恣意(しい)的な解釈
この「広告のコピー」には、富士山の写真と『立正安国論』の御真筆の写真が掲載されている。
これについて浅井は、
「富士山に国立戒壇を建立すれば、日本は仏国となり、真に安泰となる。そしてやがて世界も救われるーこれが『立正安国』の究極の御意であられる。私は、この富士山と立正安国論の御真筆を拝するたびに『早く富士山に国立戒壇を建立せよ』との、大聖人様の御命令を感ずる」(同)
と述べている。
言うまでもないが、『立正安国論』には「富士山」という語句もなければ、戒壇建立に関する御教示もない。
ましては、「国立戒壇」の語句は大聖人の御著述中のどこにもないのである。
自分たちで勝手に作った、富士山と『安国論』を載せた広告を見て、これが究極の「立正安国」の御意である、とか「早く富士山に国立戒壇を建立せよ」との大聖人の御命令を感ずるなどと、浅井の我見を、まるで大聖人が仰せのように言い繕(つくろ)っている。
この稚拙(ちせつ)な発言は『立正安国論』を拝すればその欺瞞(ぎまん)が明らかだ。だが、御書を拝することができない顕正会員はそれに気づくこともできず、浅井の指導を信じ込んでしまっている。
「冨士大石寺」の虚妄(こもう)
このように、浅井ら顕正会は「新聞に載っているから世間に認められている」と思ってくれることを期待しているのだ。「大聖人の御意であると感じるから正しい」と他者の威(い)を恣意(しい)的に利用するのも、自身の正当性を取り繕う手立てが他にないからに過ぎない。
その最たるものが、「冨士大石寺」との自称であろう。
浅井は、
「今後、仏法上の立場を明確にするため、『富士大石寺顕正会』と名乗って一国諌暁に臨みたい。(中略)実は私は、今の宗門があまりに腐敗堕落しているので、『日蓮正宗』と名乗るのが恥ずかしいのです」
(冨士 平成九年一・二合併号)
などと説明している。
なぜ、「仏法上の立場」を明確にするため、「恥ずかしい」と思っている、日蓮正宗の総本山である大石寺を名乗るのであろうか。
何度読んでも全く意味が判らない。
おそらく、浅井のこの説明は、表向きの、取って付けたものであろう。
その真意は、顕正会が世間一般に危険な新興宗教と思われることを回避し、大石寺の名を騙(かた)ることによって、伝統ある仏教教団であると誤解を誘うことにあると考えられる。実に姑息(こそく)だ。
顕正会員は、このような浅井ら顕正会の欺瞞の姿を見破り、根本の大御本尊のもとへ帰依しなければならない。
(大白法 第九八二号 平成三十年六月一日)
「広告こそ『開目のメス』」(顕正新聞 平成三十年二月五日付)
との大見出しが出ていた。
本紙九七〇号にも取り上げたが、これは会長・浅井昭衛の著書『基礎教学書 日蓮大聖人の仏法』の広告で、今まではタブロイド紙の載せたもののコピーを「大量に発行する」そうだ。
浅井は、
「私はこの広告文こそ、日蓮大聖人の大恩徳を全日本人に教え、目を開かせる、『開目のメス』だと思っております」(同)などと、不遜にも『開目抄』を連想させるような表現までして、自画自賛している。
たかが広告をそこまで自賛するとは・・・。全く理解に苦しむ。
そもそも自身が広告代を支払って載せたものである。そのコピーを大量に発行など、聞いたことがない。
パンフレットなどを独自に製作するのが一般的であろう。
そこに、顕正会ならではの止むに止まれる理由がある。
おそらく「新聞にも載った」として、世間にも認められている団体であるとアピールしたいのであろう。
警察の家宅捜索を受けた経験を踏まえてなのだろうが、いかにも安易な思いつきではないか。
富士山と安国論の恣意(しい)的な解釈
この「広告のコピー」には、富士山の写真と『立正安国論』の御真筆の写真が掲載されている。
これについて浅井は、
「富士山に国立戒壇を建立すれば、日本は仏国となり、真に安泰となる。そしてやがて世界も救われるーこれが『立正安国』の究極の御意であられる。私は、この富士山と立正安国論の御真筆を拝するたびに『早く富士山に国立戒壇を建立せよ』との、大聖人様の御命令を感ずる」(同)
と述べている。
言うまでもないが、『立正安国論』には「富士山」という語句もなければ、戒壇建立に関する御教示もない。
ましては、「国立戒壇」の語句は大聖人の御著述中のどこにもないのである。
自分たちで勝手に作った、富士山と『安国論』を載せた広告を見て、これが究極の「立正安国」の御意である、とか「早く富士山に国立戒壇を建立せよ」との大聖人の御命令を感ずるなどと、浅井の我見を、まるで大聖人が仰せのように言い繕(つくろ)っている。
この稚拙(ちせつ)な発言は『立正安国論』を拝すればその欺瞞(ぎまん)が明らかだ。だが、御書を拝することができない顕正会員はそれに気づくこともできず、浅井の指導を信じ込んでしまっている。
「冨士大石寺」の虚妄(こもう)
このように、浅井ら顕正会は「新聞に載っているから世間に認められている」と思ってくれることを期待しているのだ。「大聖人の御意であると感じるから正しい」と他者の威(い)を恣意(しい)的に利用するのも、自身の正当性を取り繕う手立てが他にないからに過ぎない。
その最たるものが、「冨士大石寺」との自称であろう。
浅井は、
「今後、仏法上の立場を明確にするため、『富士大石寺顕正会』と名乗って一国諌暁に臨みたい。(中略)実は私は、今の宗門があまりに腐敗堕落しているので、『日蓮正宗』と名乗るのが恥ずかしいのです」
(冨士 平成九年一・二合併号)
などと説明している。
なぜ、「仏法上の立場」を明確にするため、「恥ずかしい」と思っている、日蓮正宗の総本山である大石寺を名乗るのであろうか。
何度読んでも全く意味が判らない。
おそらく、浅井のこの説明は、表向きの、取って付けたものであろう。
その真意は、顕正会が世間一般に危険な新興宗教と思われることを回避し、大石寺の名を騙(かた)ることによって、伝統ある仏教教団であると誤解を誘うことにあると考えられる。実に姑息(こそく)だ。
顕正会員は、このような浅井ら顕正会の欺瞞の姿を見破り、根本の大御本尊のもとへ帰依しなければならない。
(大白法 第九八二号 平成三十年六月一日)