日蓮大聖人の出生の本懐(ほんがい)は戒壇の大御本尊
大聖人・御歴代上人の仰(おお)せと史実が証明!
『教宣ハンドブック』は、大御本尊と関連のある『聖人御難事』について、次のように述べている。
<これまで、創価学会は、日蓮正宗の解釈に基づき弘安2年の御本尊」を日蓮大聖人の出世の本懐としてきた。 その根拠は、「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の一説であった。 しかしながら、この両者を結びつける解釈は、古い文献にはなく、あらためて「聖人御難事」そのものを拝して、大聖人が教示されている出世の本懐の意味について考察しておきたい。>そして、次の六つを挙げて結論付けている。
①大聖人は本抄で「弘安二年の御本尊」について述べられていない。
②本抄は、釈尊、天台、伝教の出世の本懐までの年数を挙げたのち、「余は二十七年なり」と言われ、御自身の大難に遭(あ)われたことを強調されている。また、これに続く御文も、難について述べられている。
③本抄は、熱原法難の最中の御書で、渦中の信徒に宛(あ)てた御書なので、「二十七年」と「難」に言及した本意は、不惜身命・死身弘法の信徒を称賛することにある。
④大聖人の出世の本懐は、『報恩抄』にも示されているように、三大秘法を顕わすことによって、衆生救済の道を完成したことである。
そして、「日蓮が慈悲腰大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」と誓願成就を示されている。
⑤大聖人の御生涯全体を拝したとき、 「二十七年」と強調されているのは、立宗以来、三大秘法の弘通によって生じた大難のうち、二十七年目にして、三大秘法受持の不惜身命の信徒が出現したことを鮮明にするためである。
⑥その意味で「出世の本懐」の本義は、三大秘法を確立されたとともに、立宗以来二十七年目にして、大難に負けない信徒が現われた、という民衆仏法の確立である。 そして、「弘安2年の御本尊」を御図頭されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。
以上が、要約した内容だが、「余は二十七年なり」と仰せの出世の本懐が、民衆仏法の確立とは片腹 (かたはら)痛い。
この御文は、御歴代上人の御指南を通して拝する事が肝要である。 なぜなら、御歴代上人は大聖人の御意を受け継がれた「日蓮と同意」の最たる御方であって、その御立場から「余は二十七年なり」の本当の意味を御教示されるからである。また学会は、「古い文献にはない」と言うが、とんでもない話で、上古の大聖人・御歴代上人方の文献にも、立宗から二十七年目の弘安二年に出世の本懐たる大御本尊が御図顕された、ということを示す御指南が拝せられる。
以下、その御指南を引用させていただく。
まず、大聖人から日興上人への『一期弘法付嘱書』こは、
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五頁)
とあり、 さらに日興上人御筆の『日興跡条々事』には、
「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(御書一八八三頁)
とある。 この両文にある「本門寺の戒壇」「本門寺に懸け奉るべし」を拝せば大聖人から日興上人、日興上人から日目上人への御付嘱の法体が、出世の本懐たる弘安二年の大御本尊であることは疑いようがない。
また、第四世日道上人の『御伝土代』には
「熱原の法華衆二人(※二ハ三ノ誤リナリ) は頚を切(きら)れ畢 (おわんぬ)、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(富要集五巻八頁)
とあって、弘安二年十月、熱原法難を機縁として大聖人が御本尊を御図顕になったことが示されている。
以上の御教示を拝すれば、『聖人御難事』に示される、立宗から二十七年目の弘安二年に遂げられる出世の本懐が、本門戒壇の大御本尊であることは明々白々だが、さらに言えば、本門戒壇の大御本尊を出世の本懐と拝するのは、なにも『聖人御難事』の御文だけに依(よ)るものではない。 大聖人の御一代を序文·正宗分。流通分の上から拝した時、御本尊の御相貌(そうみょう)、御花押、仏滅譜文等による御本尊御化導の究竟・未究竟、弘安以降における御書の深義等、すべてが大御本尊を中心に展開されていることが拝されるのである。
これらを踏まえて、日寛上人は
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(『御書文段』一九七頁)
百六箇に云わく『日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅を以て本堂の正本尊と為すべし』(中略)嫡々相承の曼陀羅とは本門戒壇の御事なり。故に御遺状(ごゆいじょう)に云わく『日興が身に宛(あ)て賜わる所の弘安二年の大本尊』」(『六巻抄」六七頁)
と御教示されている。
この、大聖人の出世の本懐を示す「余は二十七年なり」の御文を、どうしたら「民衆仏法の確立」などと解釈できるのだろうか。
また、熱原法難について忘れてはならないのは、日興上人が大聖人の御指南を仰ぎながら指揮を執(と)られ、日秀、日弁をはじめとする法難に遭った僧俗を教導されていた、ということだ。
学会では「民衆仏法の確立」などと言って、その実、日興上人をはじめとする僧侶を悪意をもって外し、熱原法難の真実を歪(ゆが)めているに過ぎない。
この師弟相対、僧俗和合にして不惜身命の弘通の姿こそ、大聖人の仏法にして、古来から変わってはならぬ日蓮正宗の姿なのである。
最後に、この『聖人御難事』では、大聖人の一門に迫害を加えた者の罰を挙げられたのち、僧俗に退転を誠(いまし)められたお言葉がある。
「これまでの法難ですでに退転した名越尼、少輔房、能登房たち、また今回の法難で退転し不慮の死を遂げた三位房のように、欲深く臆病にして疑いをもち、退転するようなことがあってはならない。」(取意·御書一三九八頁)
今も学会に疑問を懐(いだ) きながら、人間関係・仕事の嫌がらせを恐れたり、 意固地になって抜けられない人が多いと聞く。それでは正法からの退転である。臨終を迎えてからでは遅い。一日も早く、勇気をもって日蓮正宗に帰伏すべきだ。
(慧妙 令和二年九月一日)
大聖人・御歴代上人の仰(おお)せと史実が証明!
『教宣ハンドブック』は、大御本尊と関連のある『聖人御難事』について、次のように述べている。
<これまで、創価学会は、日蓮正宗の解釈に基づき弘安2年の御本尊」を日蓮大聖人の出世の本懐としてきた。 その根拠は、「聖人御難事」の「余は二十七年なり」の一説であった。 しかしながら、この両者を結びつける解釈は、古い文献にはなく、あらためて「聖人御難事」そのものを拝して、大聖人が教示されている出世の本懐の意味について考察しておきたい。>そして、次の六つを挙げて結論付けている。
①大聖人は本抄で「弘安二年の御本尊」について述べられていない。
②本抄は、釈尊、天台、伝教の出世の本懐までの年数を挙げたのち、「余は二十七年なり」と言われ、御自身の大難に遭(あ)われたことを強調されている。また、これに続く御文も、難について述べられている。
③本抄は、熱原法難の最中の御書で、渦中の信徒に宛(あ)てた御書なので、「二十七年」と「難」に言及した本意は、不惜身命・死身弘法の信徒を称賛することにある。
④大聖人の出世の本懐は、『報恩抄』にも示されているように、三大秘法を顕わすことによって、衆生救済の道を完成したことである。
そして、「日蓮が慈悲腰大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」と誓願成就を示されている。
⑤大聖人の御生涯全体を拝したとき、 「二十七年」と強調されているのは、立宗以来、三大秘法の弘通によって生じた大難のうち、二十七年目にして、三大秘法受持の不惜身命の信徒が出現したことを鮮明にするためである。
⑥その意味で「出世の本懐」の本義は、三大秘法を確立されたとともに、立宗以来二十七年目にして、大難に負けない信徒が現われた、という民衆仏法の確立である。 そして、「弘安2年の御本尊」を御図頭されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える。
以上が、要約した内容だが、「余は二十七年なり」と仰せの出世の本懐が、民衆仏法の確立とは片腹 (かたはら)痛い。
この御文は、御歴代上人の御指南を通して拝する事が肝要である。 なぜなら、御歴代上人は大聖人の御意を受け継がれた「日蓮と同意」の最たる御方であって、その御立場から「余は二十七年なり」の本当の意味を御教示されるからである。また学会は、「古い文献にはない」と言うが、とんでもない話で、上古の大聖人・御歴代上人方の文献にも、立宗から二十七年目の弘安二年に出世の本懐たる大御本尊が御図顕された、ということを示す御指南が拝せられる。
以下、その御指南を引用させていただく。
まず、大聖人から日興上人への『一期弘法付嘱書』こは、
「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書一六七五頁)
とあり、 さらに日興上人御筆の『日興跡条々事』には、
「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(御書一八八三頁)
とある。 この両文にある「本門寺の戒壇」「本門寺に懸け奉るべし」を拝せば大聖人から日興上人、日興上人から日目上人への御付嘱の法体が、出世の本懐たる弘安二年の大御本尊であることは疑いようがない。
また、第四世日道上人の『御伝土代』には
「熱原の法華衆二人(※二ハ三ノ誤リナリ) は頚を切(きら)れ畢 (おわんぬ)、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」(富要集五巻八頁)
とあって、弘安二年十月、熱原法難を機縁として大聖人が御本尊を御図顕になったことが示されている。
以上の御教示を拝すれば、『聖人御難事』に示される、立宗から二十七年目の弘安二年に遂げられる出世の本懐が、本門戒壇の大御本尊であることは明々白々だが、さらに言えば、本門戒壇の大御本尊を出世の本懐と拝するのは、なにも『聖人御難事』の御文だけに依(よ)るものではない。 大聖人の御一代を序文·正宗分。流通分の上から拝した時、御本尊の御相貌(そうみょう)、御花押、仏滅譜文等による御本尊御化導の究竟・未究竟、弘安以降における御書の深義等、すべてが大御本尊を中心に展開されていることが拝されるのである。
これらを踏まえて、日寛上人は
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(『御書文段』一九七頁)
百六箇に云わく『日興が嫡々(ちゃくちゃく)相承の曼陀羅を以て本堂の正本尊と為すべし』(中略)嫡々相承の曼陀羅とは本門戒壇の御事なり。故に御遺状(ごゆいじょう)に云わく『日興が身に宛(あ)て賜わる所の弘安二年の大本尊』」(『六巻抄」六七頁)
と御教示されている。
この、大聖人の出世の本懐を示す「余は二十七年なり」の御文を、どうしたら「民衆仏法の確立」などと解釈できるのだろうか。
また、熱原法難について忘れてはならないのは、日興上人が大聖人の御指南を仰ぎながら指揮を執(と)られ、日秀、日弁をはじめとする法難に遭った僧俗を教導されていた、ということだ。
学会では「民衆仏法の確立」などと言って、その実、日興上人をはじめとする僧侶を悪意をもって外し、熱原法難の真実を歪(ゆが)めているに過ぎない。
この師弟相対、僧俗和合にして不惜身命の弘通の姿こそ、大聖人の仏法にして、古来から変わってはならぬ日蓮正宗の姿なのである。
最後に、この『聖人御難事』では、大聖人の一門に迫害を加えた者の罰を挙げられたのち、僧俗に退転を誠(いまし)められたお言葉がある。
「これまでの法難ですでに退転した名越尼、少輔房、能登房たち、また今回の法難で退転し不慮の死を遂げた三位房のように、欲深く臆病にして疑いをもち、退転するようなことがあってはならない。」(取意·御書一三九八頁)
今も学会に疑問を懐(いだ) きながら、人間関係・仕事の嫌がらせを恐れたり、 意固地になって抜けられない人が多いと聞く。それでは正法からの退転である。臨終を迎えてからでは遅い。一日も早く、勇気をもって日蓮正宗に帰伏すべきだ。
(慧妙 令和二年九月一日)
『日蓮一期弘法付嘱書』(日耀写本・西山本門寺蔵)