神社はまるで売店
最近は、いわゆる「インスタ映(ば)え」を狙(ねら)う神社が増えているようだ。参詣者が見映(みば)えがよいなどの「映える」写真をネット上に載せてくれれば、世界中に拡散されるという仕組み。結果として、それによって神社の宣伝をしてもらえるので、国内外からの参詣者の増加を見込めるという、計算が働いているのがありありと見える。
そんな「インスタ映え」を狙ったとおぼしきものは、 実に多種多様である。
カラフルで奇抜な建築物、千支(えと)をアレンジしたお守り、恋愛を対象としたハートのお守り、人気キャラクターとコラボした絵馬、アートの絵が描かれた御朱印、かわいらしい神社グッズ等々。
誰もが願う「幸せ」をエサにして、「厄(やく)除け」「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」「緑結び」などを調(うた)い文句に、
「お守り」「おみくじ」「絵馬」、中には「ぼた餅」を販売する神社まである。これからの時期だと、正月飾りの「しめ縄」「破魔矢」も重要な商品か。
これら以外にも、どの神社にも賽銭箱(さいせんばこ)が当然のように用意されている。どこへ行っても、何をするにして
も、お金、お金.….。
これでは「ご利益(りやく)」ならぬ 「ご利益(りえき)」、神社はまるで商人がせっせと売り込みをかける売店のようである。
神社信仰の本質
それでも毎年正月には、大勢の人々が初詣で神社を訪れている。
神社に何が祀られているかを知る人は少ないのではないだろうか。
神社の成立の時期については諸説あり、もともとの教祖も経典などもない。 そもそも神は、その成り立ちから、これも諸説あるだろ
うが、
①自然と共存する中から生まれた「自然神」(住吉神社·浅間神社·水天宮等)
②『古事記や日本書紀」の神話がもとになって祀られた「神話神」(伊勢神宮・出雲大社・鶴岡八幡宮,・熱田神宮・伏見稻荷大社等)
③歴史上で様々な功績を修めた人物を祀った「人物神」(天満宮·東照宮,湊川神社等)
などに分類される。これらに共通して言えるのは、祭神自身が衆生に対して、教えらしい教えを何も説いていないということだ。 すべて後代の人間が、もっともらしい由来や神徳をこじつけて創作したものばかりである。
特に、 人物神として配られている人々は、もとは迷える一凡夫に過ぎない。 それなのに、亡くなった途端に神に祭り上げられているのだから、こんな原因・結果の道理を無視した話はない。つまり、神社信仰には、人々を真に救済する道理も教義もないのである。
神社は魔神の巣窟(そうくつ)
もとより、仏法においては神を否定するものではない。 むしろ、正しい仏法を信仰する民衆を守護する諸天善神がいると説かれている。しかし、末法の御本仏日蓮大聖人は、
「此の国は誇法の土(ど)なれば、守護の善神法味にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上(のぼ)り給ヘば、悪鬼入りか(替)はりて
多くの人を導く」(御書 一四五八㌻)
と、 正法に背(そむ)く者が多い末法の今日では、 諸天善神は法味に飢(う)えて社(やしろ)を捨てて天上にのぼり、現在の神社には悪鬼·魔神が棲(す)みついて、例えば、昨今頻度が増しつつある災害のように、国土に災難を引き起こすと御教示である。
故に、 目先の利益や世間の話題に惑(まど)わされて、安易に悪鬼·魔神の巣窟(そうくつ)へ初詣などに行けば、命が汚染され、人生万般に悪影響を被(こうむ)るのだ。
末法において正しい仏法とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈される三大秘法の南無妙法蓮華経をおいて他にない。 諸天善神は、その妙法受持の信仰者を必ず守護すると固く誓いを立てている。この道理を無視してはならない。
「一年の計は元旦にあり」|決意も新たに年の始まりを祝うことは、その一年、ひいてはその後の人生を左右する重要な行為だ。 だからこそ初語は、間違った宗教ではなく、正しい仏法を奉ずる本宗寺院に参詣し、自身及び家族の真の安寧(あんねい)を祈るべきである。
(大白法 第一〇一九号 令和元年十二月十六日)
最近は、いわゆる「インスタ映(ば)え」を狙(ねら)う神社が増えているようだ。参詣者が見映(みば)えがよいなどの「映える」写真をネット上に載せてくれれば、世界中に拡散されるという仕組み。結果として、それによって神社の宣伝をしてもらえるので、国内外からの参詣者の増加を見込めるという、計算が働いているのがありありと見える。
そんな「インスタ映え」を狙ったとおぼしきものは、 実に多種多様である。
カラフルで奇抜な建築物、千支(えと)をアレンジしたお守り、恋愛を対象としたハートのお守り、人気キャラクターとコラボした絵馬、アートの絵が描かれた御朱印、かわいらしい神社グッズ等々。
誰もが願う「幸せ」をエサにして、「厄(やく)除け」「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」「緑結び」などを調(うた)い文句に、
「お守り」「おみくじ」「絵馬」、中には「ぼた餅」を販売する神社まである。これからの時期だと、正月飾りの「しめ縄」「破魔矢」も重要な商品か。
これら以外にも、どの神社にも賽銭箱(さいせんばこ)が当然のように用意されている。どこへ行っても、何をするにして
も、お金、お金.….。
これでは「ご利益(りやく)」ならぬ 「ご利益(りえき)」、神社はまるで商人がせっせと売り込みをかける売店のようである。
神社信仰の本質
それでも毎年正月には、大勢の人々が初詣で神社を訪れている。
神社に何が祀られているかを知る人は少ないのではないだろうか。
神社の成立の時期については諸説あり、もともとの教祖も経典などもない。 そもそも神は、その成り立ちから、これも諸説あるだろ
うが、
①自然と共存する中から生まれた「自然神」(住吉神社·浅間神社·水天宮等)
②『古事記や日本書紀」の神話がもとになって祀られた「神話神」(伊勢神宮・出雲大社・鶴岡八幡宮,・熱田神宮・伏見稻荷大社等)
③歴史上で様々な功績を修めた人物を祀った「人物神」(天満宮·東照宮,湊川神社等)
などに分類される。これらに共通して言えるのは、祭神自身が衆生に対して、教えらしい教えを何も説いていないということだ。 すべて後代の人間が、もっともらしい由来や神徳をこじつけて創作したものばかりである。
特に、 人物神として配られている人々は、もとは迷える一凡夫に過ぎない。 それなのに、亡くなった途端に神に祭り上げられているのだから、こんな原因・結果の道理を無視した話はない。つまり、神社信仰には、人々を真に救済する道理も教義もないのである。
神社は魔神の巣窟(そうくつ)
もとより、仏法においては神を否定するものではない。 むしろ、正しい仏法を信仰する民衆を守護する諸天善神がいると説かれている。しかし、末法の御本仏日蓮大聖人は、
「此の国は誇法の土(ど)なれば、守護の善神法味にう(飢)へて社(やしろ)をすて天に上(のぼ)り給ヘば、悪鬼入りか(替)はりて
多くの人を導く」(御書 一四五八㌻)
と、 正法に背(そむ)く者が多い末法の今日では、 諸天善神は法味に飢(う)えて社(やしろ)を捨てて天上にのぼり、現在の神社には悪鬼·魔神が棲(す)みついて、例えば、昨今頻度が増しつつある災害のように、国土に災難を引き起こすと御教示である。
故に、 目先の利益や世間の話題に惑(まど)わされて、安易に悪鬼·魔神の巣窟(そうくつ)へ初詣などに行けば、命が汚染され、人生万般に悪影響を被(こうむ)るのだ。
末法において正しい仏法とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈される三大秘法の南無妙法蓮華経をおいて他にない。 諸天善神は、その妙法受持の信仰者を必ず守護すると固く誓いを立てている。この道理を無視してはならない。
「一年の計は元旦にあり」|決意も新たに年の始まりを祝うことは、その一年、ひいてはその後の人生を左右する重要な行為だ。 だからこそ初語は、間違った宗教ではなく、正しい仏法を奉ずる本宗寺院に参詣し、自身及び家族の真の安寧(あんねい)を祈るべきである。
(大白法 第一〇一九号 令和元年十二月十六日)