「法」に偏(かた)った創価学会の「三大秘法」観
日淳上人は「南無妙法蓮華経は仏身」と喝破(かっぱ)
『教宣ハンドプック』は続いて三大秘法について
「大聖人は、悪世末法の一切衆生救済のために、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされ、それを三大秘法として具体的に顕わされた。 それが本門の本尊·本門の題目。本門の戒壇である。 今回、三大秘法について次のように明らかにした。 すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人自身が御図顕された十界の文字曼荼羅(まんだら)と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現(ぐげん)されたものであり、等しく『本門の本尊』である。
また、『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目であり、その唱える場がそのまま『本門の戒壇』となる」と解説してる。
三大秘法は、大聖人出世の本懐であり、軽々しく理解できるものではない。血脈付法の御法主上人の御指南のもとに、正しく拝していくことが肝要である。
さて、『ハンドブック』の説明では、「大聖人は、悪世末法の一切衆生救済のために、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされ」とあり、「今回、三大秘法について次のように明らかにした」などと、あたかも自らが大聖人の仏法を理解し尽くしているかのごとくに述べているが、これらは外道ともいうべき内容の邪義であり、不相伝にして増上慢ならではの解釈といえよう。
これは、かつて池田大作が「本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝するとき、宇宙と我(わ) が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです」
(『聖教新聞』平成七年八月二日付)」
と発言した内容と同義である。
このような考えに対し、第六十五世日淳上人は
「かような考えへは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満(へんまん) する妙法の理が題目であるとするからであります。 此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応三身具足の当躰であらせられ報身中に具(ぐ)し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちに厳然として(そな)はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯一在(まし)ますだけであります」(『日淳上人全集』下巻九八二頁)
と破折されている。
学会は、南無妙法蓮華経を単なる法としか捉(とら)えられず、その法に対しても、己の機根を中心に考えるから、このような邪義に陥(おちい)るのだ。
まず、彼等の「本門の本尊」とは、根本の本尊はなく、曖昧(あいまい)な規定に沿って自分たちが認定する本尊のことをいう。
「本門の題目」は、その自己決定の本尊に唱える題目であり、「本門の戒壇」は、それを唱える場所としている。
だが、これは機根を中心にした解釈である。
この邪義は、三大秘法は、衆生のために顕わされたのだから自分たちのものである、という自己中心の甚(はなは)だしい勘違いからきており、牽強付会(けんきょうふかい)以外のなにものでもない。
南無妙法蓮華経とは、久遠元初自受用報身如来、日蓮大聖人のお悟りであり衆生救済の活動である。それを大聖人は三大秘法として顕わされたのだ。
そして「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す」と御示しのように、この大聖人のお悟りは、血派相承によって日興上人並びに御歴代上人へと伝わっている。
その正しい法門の上からいうならば、本門の本尊とは大聖人のお悟りそのもの(その中心・根本の当本が弘安二年の大御本尊)であり、その本門の本尊まします処が戒壇であり、
本門の本尊を信じて唱える題目が、本門の題目なのだ。そして、御法主上人の御指南にそって、信心するところに、大御本尊からの功徳が流れ通うのである。
いずれ述べるが、学会は今後、一大秘法や六大秘法は用いない、と宣言した。
そのような輩(やから)が三大秘法を解釈するなど烏滸(おこ)がましいかぎりである。
(慧妙 令和二年八月一日)
日淳上人は「南無妙法蓮華経は仏身」と喝破(かっぱ)
『教宣ハンドプック』は続いて三大秘法について
「大聖人は、悪世末法の一切衆生救済のために、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされ、それを三大秘法として具体的に顕わされた。 それが本門の本尊·本門の題目。本門の戒壇である。 今回、三大秘法について次のように明らかにした。 すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人自身が御図顕された十界の文字曼荼羅(まんだら)と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現(ぐげん)されたものであり、等しく『本門の本尊』である。
また、『本門の本尊』に唱える南無妙法蓮華経が『本門の題目であり、その唱える場がそのまま『本門の戒壇』となる」と解説してる。
三大秘法は、大聖人出世の本懐であり、軽々しく理解できるものではない。血脈付法の御法主上人の御指南のもとに、正しく拝していくことが肝要である。
さて、『ハンドブック』の説明では、「大聖人は、悪世末法の一切衆生救済のために、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされ」とあり、「今回、三大秘法について次のように明らかにした」などと、あたかも自らが大聖人の仏法を理解し尽くしているかのごとくに述べているが、これらは外道ともいうべき内容の邪義であり、不相伝にして増上慢ならではの解釈といえよう。
これは、かつて池田大作が「本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、我が生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝するとき、宇宙と我(わ) が生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の『実相』すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです」
(『聖教新聞』平成七年八月二日付)」
と発言した内容と同義である。
このような考えに対し、第六十五世日淳上人は
「かような考えへは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満(へんまん) する妙法の理が題目であるとするからであります。 此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応三身具足の当躰であらせられ報身中に具(ぐ)し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちに厳然として(そな)はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯一在(まし)ますだけであります」(『日淳上人全集』下巻九八二頁)
と破折されている。
学会は、南無妙法蓮華経を単なる法としか捉(とら)えられず、その法に対しても、己の機根を中心に考えるから、このような邪義に陥(おちい)るのだ。
まず、彼等の「本門の本尊」とは、根本の本尊はなく、曖昧(あいまい)な規定に沿って自分たちが認定する本尊のことをいう。
「本門の題目」は、その自己決定の本尊に唱える題目であり、「本門の戒壇」は、それを唱える場所としている。
だが、これは機根を中心にした解釈である。
この邪義は、三大秘法は、衆生のために顕わされたのだから自分たちのものである、という自己中心の甚(はなは)だしい勘違いからきており、牽強付会(けんきょうふかい)以外のなにものでもない。
南無妙法蓮華経とは、久遠元初自受用報身如来、日蓮大聖人のお悟りであり衆生救済の活動である。それを大聖人は三大秘法として顕わされたのだ。
そして「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す」と御示しのように、この大聖人のお悟りは、血派相承によって日興上人並びに御歴代上人へと伝わっている。
その正しい法門の上からいうならば、本門の本尊とは大聖人のお悟りそのもの(その中心・根本の当本が弘安二年の大御本尊)であり、その本門の本尊まします処が戒壇であり、
本門の本尊を信じて唱える題目が、本門の題目なのだ。そして、御法主上人の御指南にそって、信心するところに、大御本尊からの功徳が流れ通うのである。
いずれ述べるが、学会は今後、一大秘法や六大秘法は用いない、と宣言した。
そのような輩(やから)が三大秘法を解釈するなど烏滸(おこ)がましいかぎりである。
(慧妙 令和二年八月一日)
池田大作のような考えはすでに、65世日淳上人が破折されている。
(写真は『日淳上人全集』下巻
(写真は『日淳上人全集』下巻