テレビや雑誌などに星占いのコーナーがあると、ついつい見てしまう人も多い事だろう。でも、凝りすぎると恐ろしい事態に
陥(おちい)る可能性もあると認識しておくべきだ。
初めは興味本位、遊び程度のつもりが、少しずつ依存するようになり、ついには占いなしには何も決められなくなってしまう人もいる。
実際、著名人が占い師に操(あやつ)られて、最も信用すべき家族と意思疎通ができなくなったというニュースも聞いたことがある。
また、元気になるような言葉を聞きたい(見たい)と、気分を上げてもらうために占いを利用する人も、これも、アディクション
(依存症)への道を歩んでいると言える。
正しい”智慧”を持とう
では「占い」で将来を見極め、幸福な家庭を築いていた人がどれだけいるだろう。むしろ振り回されたり周囲の人々を巻き込んで苦悩を増す結果となっているのが実状ではないだろうか、やはり幸せな生活は、占いなどに頼らず、正しい信仰による正しい智慧を持って、”自分自身”が築くものと知るべきだ。
その「智慧」という語は、
「決断を智といひ、簡択(かんたく)を慧といふ」(大漢和辞典)
と解説されている。
考えてみれば、日常も人生も「簡択(選ぶこと)」と「決断(決めること)」の連続。例えば朝の「パンを食べようかな、それとも
ご飯にしようかな」から、大事な局面の「どの学校に進学しようか」「どの会社に就職しようか」まで、およそ簡択と決断を経ないことがないと言っていい。
ただ、我々凡夫の智慧(凡智)は煩悩によって汚れているので、最善の簡択と決断をすることがとても難しい。
楽なほうを最善だと思いたいし、お金であれば、より多いほうがいいと考えてしまう。
では仏様の智慧、すなわち「仏智」はどうだろうか。
ここに一つの譬(たと)え話がある。
黄金と毒蛇の話
ーその昔、釈尊が弟子の阿難尊者と一緒に歩いていると、田んぼのあぜ道に小高く盛り上がっている所がありました。
釈尊はそこを指して
「阿難、あそこに毒蛇がいるぞ」
と言いました。
すると阿難尊者も
「仰せの通り、あそこに毒蛇がおります」
と応えました。
これを見ていた農夫が
「こんな所に毒蛇などいるものか」
と言って、盛り上がった所を掘ってみると、何と黄金が埋まっていました。農夫は「バカなことを言う坊さんだなあ」と言って、
その黄金を掘り起こし、一夜にして大金持ちになりました。
ところが農夫は、急に大金持ちになったものですから、周囲の人に色々な噂を立てられて、結局、役人に怪しまれて身を滅ぼす結果となってしまいました。-
(国訳一切経から)
お金を見つけて「わあ、これで大金持ちになれる」
と喜んでしまうのが凡夫の智慧であり、「急にお金が手に入ると人生が狂う」と判るのが仏の智慧、仏智なのである。
占いでがんじがらめになってしまう心の状態は、言わば自身の智慧がすっかり機能不全に陥った、最も悪い状態と言えよう。
真の智慧はどこから?
日蓮正宗に帰依(きえ)し、正しい御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱えていくと、自分が何をすべきか、どの道に進むべきかが自然と判ってくる。これは言い換えれば、
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(御書 一三二一㌻)
との御金言と通り、我々凡夫の命の中にある「仏性」(ぶっしょう)という仏の命が、御本尊との縁に触れて表(おもて)に顕われてくるからだ。
我々が仏になることは難しいが、御本尊への堅固な信心を貫くことによって、仏様のような正しい簡択と決断ができるようになる。そして、仏様の智慧の眼から一切衆生の姿を見たときに、今、最も必要なのが一人ひとりが正しい智慧を持って生きることであり、そのために不可欠なのは、折伏をもって揺るがない幸福を教えていくことである。仏様には、一切衆生が謗法の害毒によって苦しむ姿が見えるからだ。
(大白法第九五一号 平成二十九年二月十六日)
陥(おちい)る可能性もあると認識しておくべきだ。
初めは興味本位、遊び程度のつもりが、少しずつ依存するようになり、ついには占いなしには何も決められなくなってしまう人もいる。
実際、著名人が占い師に操(あやつ)られて、最も信用すべき家族と意思疎通ができなくなったというニュースも聞いたことがある。
また、元気になるような言葉を聞きたい(見たい)と、気分を上げてもらうために占いを利用する人も、これも、アディクション
(依存症)への道を歩んでいると言える。
正しい”智慧”を持とう
では「占い」で将来を見極め、幸福な家庭を築いていた人がどれだけいるだろう。むしろ振り回されたり周囲の人々を巻き込んで苦悩を増す結果となっているのが実状ではないだろうか、やはり幸せな生活は、占いなどに頼らず、正しい信仰による正しい智慧を持って、”自分自身”が築くものと知るべきだ。
その「智慧」という語は、
「決断を智といひ、簡択(かんたく)を慧といふ」(大漢和辞典)
と解説されている。
考えてみれば、日常も人生も「簡択(選ぶこと)」と「決断(決めること)」の連続。例えば朝の「パンを食べようかな、それとも
ご飯にしようかな」から、大事な局面の「どの学校に進学しようか」「どの会社に就職しようか」まで、およそ簡択と決断を経ないことがないと言っていい。
ただ、我々凡夫の智慧(凡智)は煩悩によって汚れているので、最善の簡択と決断をすることがとても難しい。
楽なほうを最善だと思いたいし、お金であれば、より多いほうがいいと考えてしまう。
では仏様の智慧、すなわち「仏智」はどうだろうか。
ここに一つの譬(たと)え話がある。
黄金と毒蛇の話
ーその昔、釈尊が弟子の阿難尊者と一緒に歩いていると、田んぼのあぜ道に小高く盛り上がっている所がありました。
釈尊はそこを指して
「阿難、あそこに毒蛇がいるぞ」
と言いました。
すると阿難尊者も
「仰せの通り、あそこに毒蛇がおります」
と応えました。
これを見ていた農夫が
「こんな所に毒蛇などいるものか」
と言って、盛り上がった所を掘ってみると、何と黄金が埋まっていました。農夫は「バカなことを言う坊さんだなあ」と言って、
その黄金を掘り起こし、一夜にして大金持ちになりました。
ところが農夫は、急に大金持ちになったものですから、周囲の人に色々な噂を立てられて、結局、役人に怪しまれて身を滅ぼす結果となってしまいました。-
(国訳一切経から)
お金を見つけて「わあ、これで大金持ちになれる」
と喜んでしまうのが凡夫の智慧であり、「急にお金が手に入ると人生が狂う」と判るのが仏の智慧、仏智なのである。
占いでがんじがらめになってしまう心の状態は、言わば自身の智慧がすっかり機能不全に陥った、最も悪い状態と言えよう。
真の智慧はどこから?
日蓮正宗に帰依(きえ)し、正しい御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱えていくと、自分が何をすべきか、どの道に進むべきかが自然と判ってくる。これは言い換えれば、
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(御書 一三二一㌻)
との御金言と通り、我々凡夫の命の中にある「仏性」(ぶっしょう)という仏の命が、御本尊との縁に触れて表(おもて)に顕われてくるからだ。
我々が仏になることは難しいが、御本尊への堅固な信心を貫くことによって、仏様のような正しい簡択と決断ができるようになる。そして、仏様の智慧の眼から一切衆生の姿を見たときに、今、最も必要なのが一人ひとりが正しい智慧を持って生きることであり、そのために不可欠なのは、折伏をもって揺るがない幸福を教えていくことである。仏様には、一切衆生が謗法の害毒によって苦しむ姿が見えるからだ。
(大白法第九五一号 平成二十九年二月十六日)