顕正会・浅井昭衛が説明できない真実!
日蓮大聖人は、御筆の御本尊について、
「日蓮がたましひ (魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。(中略)日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
(御書六八五頁)
と仰せられ、御本尊は、御本仏日蓮大聖人の御生命そのものである、と明かされている。しかして、この御本尊を書写あそばされ、仏の生命を吹き込むことができるのは、唯授一人の血脈相承によって大聖人のお悟(さと)りを受け継がれた御歴代上人のみである。
第五十九世日亨上人が憂茶羅書写·本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり。(中略)授与する人は金口相承の法主に限り」
云々(富要集一巻-|二頁)と仰せのとおりである。
もし、この御本尊を余人が勝手に偽造·配布したりすれば、それは御本仏の当体を惑乱(わくらん)せんとする最大最悪の謗法となり、これを拝む者も堕地獄必定となるのである。
今、顕正会が会館に安置したり配布している本尊は、まさにその偽造されたニセ本尊(及びその疑いが濃厚な謀(たばか〕り本尊)に他ならない。
本稿では、その顕正会のニセ本尊問題について、徹底糾明していく。
ニセ本尊を呵責(かしゃく)できない浅井昭衛の事情
平成五年に創価学会がニセ本尊を作製·配布した時、正信の僧俗がこの大謗法を糾弾して大騒ぎとなった。
だが、この明らかな大謗法を知りながら、顕正会会長・浅井昭衛は完全に無視を決め込んでいた。
それは何故か? その理由は一つしか考えられない。 すなわち、浅井自身が、すでに創価学会と同じニセ本尊作りに手を染めていたからこそ、自身に批判が及ぶのを恐れて、完全沈黙して頬被(ほおかむ) りをするしか手がなかったのである。今から振り返れば、正本堂完工式の写真にバチカン外交官が写っているのを見つけて、これで学会を叩けると小躍(こおど) りして喜んだ浅井が、学会のニセ本尊作製などという
極大謗法を見ながら、全く言及・攻撃しなかったのは極めて不自然であった。
浅井に疚(やま)しい処がないのなら、今からでも遅くはない、ニセ本尊作りという最大の謗法罪を徹底糾弾すべきだが、それは二〇〇%無理な相談であろう。
増殖し続ける本尊の所持数
日蓮大聖人は、御筆の御本尊について、
「日蓮がたましひ (魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。(中略)日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
(御書六八五頁)
と仰せられ、御本尊は、御本仏日蓮大聖人の御生命そのものである、と明かされている。しかして、この御本尊を書写あそばされ、仏の生命を吹き込むことができるのは、唯授一人の血脈相承によって大聖人のお悟(さと)りを受け継がれた御歴代上人のみである。
第五十九世日亨上人が憂茶羅書写·本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり。(中略)授与する人は金口相承の法主に限り」
云々(富要集一巻-|二頁)と仰せのとおりである。
もし、この御本尊を余人が勝手に偽造·配布したりすれば、それは御本仏の当体を惑乱(わくらん)せんとする最大最悪の謗法となり、これを拝む者も堕地獄必定となるのである。
今、顕正会が会館に安置したり配布している本尊は、まさにその偽造されたニセ本尊(及びその疑いが濃厚な謀(たばか〕り本尊)に他ならない。
本稿では、その顕正会のニセ本尊問題について、徹底糾明していく。
ニセ本尊を呵責(かしゃく)できない浅井昭衛の事情
平成五年に創価学会がニセ本尊を作製·配布した時、正信の僧俗がこの大謗法を糾弾して大騒ぎとなった。
だが、この明らかな大謗法を知りながら、顕正会会長・浅井昭衛は完全に無視を決め込んでいた。
それは何故か? その理由は一つしか考えられない。 すなわち、浅井自身が、すでに創価学会と同じニセ本尊作りに手を染めていたからこそ、自身に批判が及ぶのを恐れて、完全沈黙して頬被(ほおかむ) りをするしか手がなかったのである。今から振り返れば、正本堂完工式の写真にバチカン外交官が写っているのを見つけて、これで学会を叩けると小躍(こおど) りして喜んだ浅井が、学会のニセ本尊作製などという
極大謗法を見ながら、全く言及・攻撃しなかったのは極めて不自然であった。
浅井に疚(やま)しい処がないのなら、今からでも遅くはない、ニセ本尊作りという最大の謗法罪を徹底糾弾すべきだが、それは二〇〇%無理な相談であろう。
増殖し続ける本尊の所持数
(別表)増殖し続ける顕正会のニセ本尊
別表をご覧いただきたい。これは、浅井の過去の発言から見た、顕正会所持の本尊の数の変遷(へんせん)である。
昭和六十年~平成十一年~平成十五年~平成十九年と、年月と共に本尊の種類と数が増殖しているのが確認できる。
顕正会は、すでに五十年も前に日蓮正宗より破門されて(当時「元妙信講」)、御本尊を受けられなくなったにもかかわらず、その顕正会の所持する本尊が増え続けるというのは奇妙な話で、独自のニセ本尊の作製なくしてはあり得ないことである。
顕正会の二種類の本尊について
疑惑に満ちた顕正会の本尊は概(おおむ)ね三種類あるが、これについて証拠を挙げて検証していくこととする。
①「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊について
この本尊は、当初 (昭和六十年)に浅井昭衛が発表した顕正会所持の本尊の中には存在していなかったのに、 忽然(こつぜん) と現われ、近年の顕正会地方会館開設と共に、数がどんどん増えている。
その元となった御本尊については、『顕正会破折Q&A』(日蓮正宗法義研鎖委員会編)に、
「日付が『大正五年十二月大安日』であることから、その元は、妙光寺に所蔵されていた御形木御本尊で、時の御法主上人の許可を得て、かつて妙光寺から下付されていた御本尊であることがわかる。この御本尊の大きさは、およそ縦二〇センチ·横一三センチであり大幅の本尊などではない」
(当該書九三頁)
とあるように、大正五年十二月大安日の日付の、第五十五世日布上人書写の御形木御本尊であることが判明している(この御形木御本尊は、かつて大正から昭和二十九年頃まで、当時の信徒に下附されていた)。
また、浅井は、平成十年十一月八日、八戸会館開館式において、「総本山第五十五世·日布上人御書写の大幅の御本尊のお出まし」と題して
「この御本尊は、冨士大石寺第五十五代·日布上人がおしたためになられたものであります。ゆえに御本尊の下のほうに『之を書写し奉る 八十二歳 五十五世日布』として判形を加えておられる」
(『顕正新聞』平成十年十一月十五日)
と発言しているが、この歴数の前に八十二歳という年齢が入る書式も、妙光寺に所蔵されていた日布上人の御形木御本尊と一致している。
以上のことから、顕正会の本尊がこの日布上人の御形木御本尊を元に作られたということは確実である。
昭和六十年~平成十一年~平成十五年~平成十九年と、年月と共に本尊の種類と数が増殖しているのが確認できる。
顕正会は、すでに五十年も前に日蓮正宗より破門されて(当時「元妙信講」)、御本尊を受けられなくなったにもかかわらず、その顕正会の所持する本尊が増え続けるというのは奇妙な話で、独自のニセ本尊の作製なくしてはあり得ないことである。
顕正会の二種類の本尊について
疑惑に満ちた顕正会の本尊は概(おおむ)ね三種類あるが、これについて証拠を挙げて検証していくこととする。
①「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊について
この本尊は、当初 (昭和六十年)に浅井昭衛が発表した顕正会所持の本尊の中には存在していなかったのに、 忽然(こつぜん) と現われ、近年の顕正会地方会館開設と共に、数がどんどん増えている。
その元となった御本尊については、『顕正会破折Q&A』(日蓮正宗法義研鎖委員会編)に、
「日付が『大正五年十二月大安日』であることから、その元は、妙光寺に所蔵されていた御形木御本尊で、時の御法主上人の許可を得て、かつて妙光寺から下付されていた御本尊であることがわかる。この御本尊の大きさは、およそ縦二〇センチ·横一三センチであり大幅の本尊などではない」
(当該書九三頁)
とあるように、大正五年十二月大安日の日付の、第五十五世日布上人書写の御形木御本尊であることが判明している(この御形木御本尊は、かつて大正から昭和二十九年頃まで、当時の信徒に下附されていた)。
また、浅井は、平成十年十一月八日、八戸会館開館式において、「総本山第五十五世·日布上人御書写の大幅の御本尊のお出まし」と題して
「この御本尊は、冨士大石寺第五十五代·日布上人がおしたためになられたものであります。ゆえに御本尊の下のほうに『之を書写し奉る 八十二歳 五十五世日布』として判形を加えておられる」
(『顕正新聞』平成十年十一月十五日)
と発言しているが、この歴数の前に八十二歳という年齢が入る書式も、妙光寺に所蔵されていた日布上人の御形木御本尊と一致している。
以上のことから、顕正会の本尊がこの日布上人の御形木御本尊を元に作られたということは確実である。
※会津会館(写真①右)と佐渡会館(写真②左)の入仏式の写真。これを見れば、本尊の寸法が分かる(顕正新聞より)
ここで、写真① (平成二十五年十一月十七日、会津会館入仏式)、写真の(平成二十七年十月十七日、佐渡会館入仏式)をご覧いただきたい。
「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊の、本紙と下軸の部分が写り込んでいる。
浅井の顔の大きさからして『御造酒』は明らかに一升瓶であり(高さは約四〇㎝)、ここから計算すると、この本尊の寸法は、軸の長さが三二~~三三㎝、本紙横幅が一九~二〇㎝ となる。
だが、日蓮正宗宗門では、このように大きな日布上人の御形木御本尊を下付したことはない。
よって、「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊は、日蓮正宗宗門が下附したものではなく、顕正会が勝手に拡大偽造したニセ本尊であると考える他はないのである。
そもそも、もし過去に宗門から「大幅御形木御本尊」が下附されたことがあったとしたら、日蓮正宗僧俗の中に、「かつて拝したことがある」という証言があってよいはずであるが、未だかつて聞いたことがない。
例えば、日本国が発行した紙幣であれば、広く流通して、日本人のほとんどが実際に使用し、多くの国民に認知されるのと同様である。
「日布上人の大幅御形木御本尊」とやらは、日蓮正宗僧俗が誰一人として見たことがないのであり、それこそがニセ本尊たる「証拠」なのである。「ニセ本尊だという証拠を出せ」と騒ぐ狂信者共よ、よく頭を冷やして考えてみよ。
②「日布上人書写の御形木導師曼陀羅」と称する本尊について
浅井は、顕正会所持の導師曼荼羅について、
「松本尊能化は『葬儀のとき困るでしょう』 とおっしやって、日布上人御書写の『日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼荼羅の御形木御本尊まで、六幅授与して下さったのであります」(『頭正新聞』平成十九年十月五日号)
と述べている。
だが、この「導師曼荼羅の御形木御本尊」なるもの、以前から浅井が公言していた松本住職(当時)から授かったとする本尊類の中には含まれておらず、その後も全く口にすることすらなかった。 それが平成十九年になって、突如、六幅出現したのであるから、まったく不自然きわまりない。
しかも、日蓮正宗においては、いまだかつて、「導師曼荼羅の御形木御本尊」など下附された事実はないのである。
そもそも、導師曼荼羅とは、葬儀の際に故人を成仏に導くために、宗門御僧侶が大聖人の御使いとして葬儀を奉修する際に用いられる御本尊である。その意義の上から、基本的に、各末寺の寺院名をもって、あるいは各末寺の御住職を願主として、御法主上人より下賜(かし)される、御法主上人御直筆の御本尊である。ゆえに、仮にもし、松本住職(当時)が妙縁寺に格護していた導師曼荼羅を浅井に渡したとするならばそれは御形木(印刷)ではなく、脇書に「妙縁寺重宝」、そして願主の名が記された、御直筆の御本尊でなければならない。
その願主の名前もなく、しかも御直筆ではなく形木本尊だというのだから、それを「導師曼荼羅」だと言うのは明らかに謀(たばか)りである。
顕正会では、さかんに「成仏した体験」を喧伝(けんでん)しているが、葬儀で使用している本尊が正体不明の謀り本尊で、成仏に導く資格のない在家が導師をするママゴト葬儀では、成仏など思いもよらず、堕地獄は必定と言うべきである。
③自宅を拠点としている会員が受けた「日寛上人の御形木御本尊」と称する本尊
この本尊は、浅井の発表によると、はじめは「数百幅」だったのが「多数」「大量に」と、その数が若漠(ほうばく)と増え続けている。
宗門で下附されていた日寛上人の御形木御本尊は、日達上人の御形木御本尊が下附されるようになる前、昭和三十年頃から四十年まで下附されていた御本尊で、古くから信仰されている法華講員の中には、現在でも御安置している家も多い。だが、この御本尊は、前述のように昭和四十年以降、宗門として下附していないのである。
顕正会では、昭和四十九年に解散処分を受けた当時、妙縁寺に残っていた日寛上人の御形木御本尊を、松本住職(当時)から浅井が譲り受け、それを会員に配布しているという。この説明が本当だとしたなら、「数百幅」どころか数も特定できぬぼど「多数」「大量」の御本尊が一寺に残っていて (※このこと自体が不自然きわまりない)、それが多くの顕正会員に配布されていることになるが、それはまずありえない話である。
ゆえに本紙は、これも印刷屋だった浅井が勝手に印刷したニセ本尊だろう、と睨(にら)んでいるのである。
かつて浅井は、『富士一跡門徒存知事』を引用して、
「大事の御本尊を印刷すること自体が不敬」(『顕正新聞』昭和五十四年十一月十五日)
と述べたが、自分がその「不敬」の大謗法を犯していないというなら、茫漠と数が増えてきた「大量」の形木本尊について、その出自を明らかにしてみよ。
以上のとおり、顕正会,浅井昭衛によるニセ本尊作りや謀り本尊の流布が行なわれていることは、もはや確実である。
正本堂に関する過去の宗門の発言をこねくり回して「御遺命破壊だ」などと難クセを付ける前に、自らがなしているニセ本尊作りや謀り本尊流布こそ、宗旨の根幹に違背する最大の謗法であることを自覚すべきである。
(慧妙 令和二年10月16日)
「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊の、本紙と下軸の部分が写り込んでいる。
浅井の顔の大きさからして『御造酒』は明らかに一升瓶であり(高さは約四〇㎝)、ここから計算すると、この本尊の寸法は、軸の長さが三二~~三三㎝、本紙横幅が一九~二〇㎝ となる。
だが、日蓮正宗宗門では、このように大きな日布上人の御形木御本尊を下付したことはない。
よって、「日布上人の大幅御形木御本尊」と称する本尊は、日蓮正宗宗門が下附したものではなく、顕正会が勝手に拡大偽造したニセ本尊であると考える他はないのである。
そもそも、もし過去に宗門から「大幅御形木御本尊」が下附されたことがあったとしたら、日蓮正宗僧俗の中に、「かつて拝したことがある」という証言があってよいはずであるが、未だかつて聞いたことがない。
例えば、日本国が発行した紙幣であれば、広く流通して、日本人のほとんどが実際に使用し、多くの国民に認知されるのと同様である。
「日布上人の大幅御形木御本尊」とやらは、日蓮正宗僧俗が誰一人として見たことがないのであり、それこそがニセ本尊たる「証拠」なのである。「ニセ本尊だという証拠を出せ」と騒ぐ狂信者共よ、よく頭を冷やして考えてみよ。
②「日布上人書写の御形木導師曼陀羅」と称する本尊について
浅井は、顕正会所持の導師曼荼羅について、
「松本尊能化は『葬儀のとき困るでしょう』 とおっしやって、日布上人御書写の『日蓮華山大石寺』の脇書がある導師曼荼羅の御形木御本尊まで、六幅授与して下さったのであります」(『頭正新聞』平成十九年十月五日号)
と述べている。
だが、この「導師曼荼羅の御形木御本尊」なるもの、以前から浅井が公言していた松本住職(当時)から授かったとする本尊類の中には含まれておらず、その後も全く口にすることすらなかった。 それが平成十九年になって、突如、六幅出現したのであるから、まったく不自然きわまりない。
しかも、日蓮正宗においては、いまだかつて、「導師曼荼羅の御形木御本尊」など下附された事実はないのである。
そもそも、導師曼荼羅とは、葬儀の際に故人を成仏に導くために、宗門御僧侶が大聖人の御使いとして葬儀を奉修する際に用いられる御本尊である。その意義の上から、基本的に、各末寺の寺院名をもって、あるいは各末寺の御住職を願主として、御法主上人より下賜(かし)される、御法主上人御直筆の御本尊である。ゆえに、仮にもし、松本住職(当時)が妙縁寺に格護していた導師曼荼羅を浅井に渡したとするならばそれは御形木(印刷)ではなく、脇書に「妙縁寺重宝」、そして願主の名が記された、御直筆の御本尊でなければならない。
その願主の名前もなく、しかも御直筆ではなく形木本尊だというのだから、それを「導師曼荼羅」だと言うのは明らかに謀(たばか)りである。
顕正会では、さかんに「成仏した体験」を喧伝(けんでん)しているが、葬儀で使用している本尊が正体不明の謀り本尊で、成仏に導く資格のない在家が導師をするママゴト葬儀では、成仏など思いもよらず、堕地獄は必定と言うべきである。
③自宅を拠点としている会員が受けた「日寛上人の御形木御本尊」と称する本尊
この本尊は、浅井の発表によると、はじめは「数百幅」だったのが「多数」「大量に」と、その数が若漠(ほうばく)と増え続けている。
宗門で下附されていた日寛上人の御形木御本尊は、日達上人の御形木御本尊が下附されるようになる前、昭和三十年頃から四十年まで下附されていた御本尊で、古くから信仰されている法華講員の中には、現在でも御安置している家も多い。だが、この御本尊は、前述のように昭和四十年以降、宗門として下附していないのである。
顕正会では、昭和四十九年に解散処分を受けた当時、妙縁寺に残っていた日寛上人の御形木御本尊を、松本住職(当時)から浅井が譲り受け、それを会員に配布しているという。この説明が本当だとしたなら、「数百幅」どころか数も特定できぬぼど「多数」「大量」の御本尊が一寺に残っていて (※このこと自体が不自然きわまりない)、それが多くの顕正会員に配布されていることになるが、それはまずありえない話である。
ゆえに本紙は、これも印刷屋だった浅井が勝手に印刷したニセ本尊だろう、と睨(にら)んでいるのである。
かつて浅井は、『富士一跡門徒存知事』を引用して、
「大事の御本尊を印刷すること自体が不敬」(『顕正新聞』昭和五十四年十一月十五日)
と述べたが、自分がその「不敬」の大謗法を犯していないというなら、茫漠と数が増えてきた「大量」の形木本尊について、その出自を明らかにしてみよ。
以上のとおり、顕正会,浅井昭衛によるニセ本尊作りや謀り本尊の流布が行なわれていることは、もはや確実である。
正本堂に関する過去の宗門の発言をこねくり回して「御遺命破壊だ」などと難クセを付ける前に、自らがなしているニセ本尊作りや謀り本尊流布こそ、宗旨の根幹に違背する最大の謗法であることを自覚すべきである。
(慧妙 令和二年10月16日)