東京タワーから見下ろすと、一角に異様な建物が見える。 新宗教「霊及会」の中心的な建物「釈迦殿」である。
同会の二代目会長時代に展開したキャンペーンが今も謳(うた)う
「いんなあとりっぶ…」(人間の心に帰ろうという意味だそうだ)。
人の心をキャッチする狙(ねら)いのフレーズだが、内面世界への旅ということか?
先祖を本尊?
霊友会は、久保角太郎が創立した在家教団で、今年で百年になる。 久保が仏教思想家・西田無学の教えに触れたことから始まるが、西田は不軽菩薩を自称し、
法華経『見宝塔品』の
「平等大慧(びょうどうたいえ)・教菩薩法(きょうぼさつぽう)·仏所護念(ぶっしょごねん)」(法華経 三三六㌻)
の「仏所」を、先祖のいる場所や仏心のある場所として、そこは子孫や人々の念で護られるという我意我見の教義を立てていた。
これに傾倒した久保が、「仏所護念の本尊」を標榜(ひょうぼう)するに至る。先祖全体を括(くく)る総戒名なるものをつけ、それを本尊として信徒に祀(まつ)らせる。
信徒は、法華経を抜粋した経文と題日を唱え、ひたすら先祖供養に徹(てっ)する。 それで先祖と繋(つな)がっている自分へも経を読むことになるのだとか。ふだんの行いも改めれば、先祖供養と相まって不幸の因縁を断ち切ることができ、安泰になるのだ、という。
だが、法華経のどこを読んでも、先祖を本尊とすることは説かれていない。そもそも、先祖も同じ凡夫(ぼんぷ)だから、我々を救う力など持ち合わせてはいない。 それを本尊として供養するのは、誤った供養であり、かえって先祖も苦しみが増えていくばかり。有り難迷惑な話であろう。
「いんなあとりっぷ」できた?
霊友会を語るに当たり、もう一人欠かせない人物が久保の兄嫁、小谷喜美(きみ)だ彼女は久保の指導のもと、霊能者としての修行を始めた。 真冬に浴表一枚で生活する、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす、毎日数時間頭から水をかぶるなどで、これでは心身共に病むのは当然。
こうしてついに、自称霊能者。小谷の出来上がり。
久保は、そんな小谷を名誉会長に据(す)え、自らは理事長として女性信者を次々に霊能者に育て上げ、先祖供養を唱えて活発な布教活動を繰(く)り広げた。
久保の死後、霊友会は小谷の独裁体制となったが、小谷が麻薬所持で摘発(てきはつ)されたり、赤い羽根募金の業務上横領事件を起こし、教団が混乱。霊友会は分裂していく。
さらに小谷の死後、久保の次男・継成(つぐなり)が二代会長に就任するが、その後、反対派に押し出されて脱退し、新宗教「在家仏教こころの会」 を設立。
小谷も久保を先祖として供養しただろうし、継成も久保と小谷を含め先祖供養を実践したことだろうに彼らの身に現われた混乱や分裂の現証こそ、いんなあとりっぷの成果(?)である。迷いの凡夫が自己の内側を覗(のぞ)いてみたとしても詮がない。 というか、現証として露呈しているのだ。
重ねて言えば、霊友会の歴史に、既に迷いから抜けられない実態が表われ、それは内情と一致する。 法華経に「本末究章等」とあるではないか。
正しい信仰こそ肝要
法華経と先祖供養等の組み合わせで、教義らしく作り上げただけだから仕方ない。 が、日蓮大聖人が、
「三世の諸仏も妙法道華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法とふは是なり。是等の趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執(がまんへんしゅう)の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」(御書 一三三二一㌻)
と仰せのように、本門戒壇の大御本尊を信じ、正しく題目を唱え御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)し、まずは自らが境界を開いていくことが肝要である。 その上で、自分の功徳を故人に回向(えこう)することで、本当の先祖供養となる。
誰もが大切にする先祖供養の尊い志(こころざし) を、インチキ霊能者と共謀(きょうぼう)して悪用する宗教もどきを信仰するなら、旅の終着駅は「地獄と不幸」
になってしまう。
行き着く前に、迷いの旅から会員を救っていかなくてはならない。
(大白法 第一〇二九号 令和二年五月十六日)
同会の二代目会長時代に展開したキャンペーンが今も謳(うた)う
「いんなあとりっぶ…」(人間の心に帰ろうという意味だそうだ)。
人の心をキャッチする狙(ねら)いのフレーズだが、内面世界への旅ということか?
先祖を本尊?
霊友会は、久保角太郎が創立した在家教団で、今年で百年になる。 久保が仏教思想家・西田無学の教えに触れたことから始まるが、西田は不軽菩薩を自称し、
法華経『見宝塔品』の
「平等大慧(びょうどうたいえ)・教菩薩法(きょうぼさつぽう)·仏所護念(ぶっしょごねん)」(法華経 三三六㌻)
の「仏所」を、先祖のいる場所や仏心のある場所として、そこは子孫や人々の念で護られるという我意我見の教義を立てていた。
これに傾倒した久保が、「仏所護念の本尊」を標榜(ひょうぼう)するに至る。先祖全体を括(くく)る総戒名なるものをつけ、それを本尊として信徒に祀(まつ)らせる。
信徒は、法華経を抜粋した経文と題日を唱え、ひたすら先祖供養に徹(てっ)する。 それで先祖と繋(つな)がっている自分へも経を読むことになるのだとか。ふだんの行いも改めれば、先祖供養と相まって不幸の因縁を断ち切ることができ、安泰になるのだ、という。
だが、法華経のどこを読んでも、先祖を本尊とすることは説かれていない。そもそも、先祖も同じ凡夫(ぼんぷ)だから、我々を救う力など持ち合わせてはいない。 それを本尊として供養するのは、誤った供養であり、かえって先祖も苦しみが増えていくばかり。有り難迷惑な話であろう。
「いんなあとりっぷ」できた?
霊友会を語るに当たり、もう一人欠かせない人物が久保の兄嫁、小谷喜美(きみ)だ彼女は久保の指導のもと、霊能者としての修行を始めた。 真冬に浴表一枚で生活する、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす、毎日数時間頭から水をかぶるなどで、これでは心身共に病むのは当然。
こうしてついに、自称霊能者。小谷の出来上がり。
久保は、そんな小谷を名誉会長に据(す)え、自らは理事長として女性信者を次々に霊能者に育て上げ、先祖供養を唱えて活発な布教活動を繰(く)り広げた。
久保の死後、霊友会は小谷の独裁体制となったが、小谷が麻薬所持で摘発(てきはつ)されたり、赤い羽根募金の業務上横領事件を起こし、教団が混乱。霊友会は分裂していく。
さらに小谷の死後、久保の次男・継成(つぐなり)が二代会長に就任するが、その後、反対派に押し出されて脱退し、新宗教「在家仏教こころの会」 を設立。
小谷も久保を先祖として供養しただろうし、継成も久保と小谷を含め先祖供養を実践したことだろうに彼らの身に現われた混乱や分裂の現証こそ、いんなあとりっぷの成果(?)である。迷いの凡夫が自己の内側を覗(のぞ)いてみたとしても詮がない。 というか、現証として露呈しているのだ。
重ねて言えば、霊友会の歴史に、既に迷いから抜けられない実態が表われ、それは内情と一致する。 法華経に「本末究章等」とあるではないか。
正しい信仰こそ肝要
法華経と先祖供養等の組み合わせで、教義らしく作り上げただけだから仕方ない。 が、日蓮大聖人が、
「三世の諸仏も妙法道華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法とふは是なり。是等の趣(おもむき)を能く能く心得て、仏になる道には我慢偏執(がまんへんしゅう)の心なく、南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」(御書 一三三二一㌻)
と仰せのように、本門戒壇の大御本尊を信じ、正しく題目を唱え御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)し、まずは自らが境界を開いていくことが肝要である。 その上で、自分の功徳を故人に回向(えこう)することで、本当の先祖供養となる。
誰もが大切にする先祖供養の尊い志(こころざし) を、インチキ霊能者と共謀(きょうぼう)して悪用する宗教もどきを信仰するなら、旅の終着駅は「地獄と不幸」
になってしまう。
行き着く前に、迷いの旅から会員を救っていかなくてはならない。
(大白法 第一〇二九号 令和二年五月十六日)