近年、「SDGs」という言葉をよく耳にする
「SDGs」とは、二〇三〇年までに、持続可能でよりよい世界をめざす国際目標のことである。地球上に「誰一人取り残さない」
ことを誓い、日本でも積極的に取り組んでいる。
そして今、日本の仏教各派の中には「SDGs」にかこつけて、誤った教えを流布している現状がある。
例えば、曹洞宗では「SDGs」の理念である「誰一人取り残さない社会の実現」を「菩薩の誓願に生きる信仰実践」と解釈してい
る。つまり、「SDGS」を禅の信仰実践としているのだ。
曹洞宗とは
今日、日本における禅の宗派には大きく分けて「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗(おうばく)宗」の三派が存在している。その中の曹洞宗とは、鎌倉初期の禅僧、道元(どうげん)により伝えられた宗派である。
道元はもともと、比叡山で天台教学を学んでいた。
しかし、「天台宗では、人は生まれながらにして悟りを開く性質を持っていると説きながら、なぜ修行の必要性も説くのか」と疑問を抱き、比叡山を下(お)りた。
臨済禅を学ぶため中国にも渡ったが、納得はできなかった。しかし、中国で曹洞宗を学んだ道元は、その印可(いんか)を得て帰朝。 その後、日本に曹洞宗を弘め「只管打坐(しかんたざ)」の重要性を説いた。
只管打坐
一般的に禅と聞けば、禅問答を思い浮かべるかも知れない。 特に臨済宗では坐禅を、悟りに達する手段ととらえ、修行の後、自己の仏心を悟るという「公案禅」を主張する。「公案」という「禅の問答」を工夫し、思慮するという修行をするのだ。
一方、曹洞宗の教えの特徴は「只管打坐」である。
目的も意味も求めず、ただひたすら黙々と坐禅をし、その坐禅修行そのものが悟りであるとする。つまり坐禅修行の結果として悟りを得るわけではない。
近年、中学校の歴史教科書を発行する五社に対して、曹洞宗と臨済宗は、両宗を一括りに「禅宗」と表記しないよう要望したという。曹洞宗も臨済宗も、共に坐禅を修行の方法とするが坐禅に対する心構えが大きく違うらしい。
悟りの在(あ)り方
人の心は移ろいやすいものだ。しかし、曹洞宗では、坐禅によって見る自己の本性がそのまま仏性であり、本来、仏であるとする。
これは、人心と仏心を混同した大きな誤りである。
日蓮大聖人は『混繋経』を引かれて、
「願ひて心の師と作(な)るとも、心を師とせざれ」(御書二七㌻)
と御教示である。
三毒強盛な人の心を師と仰いで、仏性を観ずることなどできない。 それどころか、坐禅修行を行うことは、自身を仏と等しいとする
智慧なき増上慢(ぞうじょうまん)の類(たぐい)に他ならない。
正を立てて国を安んずる
いずれの禅の教えでも末法の衆生は救われない。なぜなら、大聖人が「禅天魔」と仰せのように、坐禅の修行が正法に背(そむ)く天魔の所為だからである。「誰一人取り残さない」どころか、「誰も救われない社会」を実現してしまうだろう。
大聖人は、このような邪義邪宗の一切を破折し、正法を立てて国を安んずるべきことを御指南である。 すなわち『立正安国論』に、
「汝(なんじ)早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然(しか)れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉(ことごと)く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く士(ど)に破壊(はえ)無くんば、身は是(これ)安全にして心は是禅定ならん。
此の詞(ことば) 此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」(同三五0㌻)
と仰せの通り、
偏(かたよ)った狭い信仰を改め、直ちに本門戒壇の大御本尊に帰依(きえ)するべきである。
正法に帰依すれば、迷い苦しみの世界もそのまま仏国土となる。つまり、 すべての人が属する国家社会の安穏(あんのん)が実現できる。そして、
「一切衆生の誰一人として取り残すことなく」即身成仏へと導くことができる。
我々が今、すべきことは、広宣流布の実現をめざして、自行化他の唱題を行じ、慈悲の折伏を実践することである。今年も一人でも多くの方を折伏していこう。
(大白法 第1071号 令和四年二月十六日号)
「SDGs」とは、二〇三〇年までに、持続可能でよりよい世界をめざす国際目標のことである。地球上に「誰一人取り残さない」
ことを誓い、日本でも積極的に取り組んでいる。
そして今、日本の仏教各派の中には「SDGs」にかこつけて、誤った教えを流布している現状がある。
例えば、曹洞宗では「SDGs」の理念である「誰一人取り残さない社会の実現」を「菩薩の誓願に生きる信仰実践」と解釈してい
る。つまり、「SDGS」を禅の信仰実践としているのだ。
曹洞宗とは
今日、日本における禅の宗派には大きく分けて「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗(おうばく)宗」の三派が存在している。その中の曹洞宗とは、鎌倉初期の禅僧、道元(どうげん)により伝えられた宗派である。
道元はもともと、比叡山で天台教学を学んでいた。
しかし、「天台宗では、人は生まれながらにして悟りを開く性質を持っていると説きながら、なぜ修行の必要性も説くのか」と疑問を抱き、比叡山を下(お)りた。
臨済禅を学ぶため中国にも渡ったが、納得はできなかった。しかし、中国で曹洞宗を学んだ道元は、その印可(いんか)を得て帰朝。 その後、日本に曹洞宗を弘め「只管打坐(しかんたざ)」の重要性を説いた。
只管打坐
一般的に禅と聞けば、禅問答を思い浮かべるかも知れない。 特に臨済宗では坐禅を、悟りに達する手段ととらえ、修行の後、自己の仏心を悟るという「公案禅」を主張する。「公案」という「禅の問答」を工夫し、思慮するという修行をするのだ。
一方、曹洞宗の教えの特徴は「只管打坐」である。
目的も意味も求めず、ただひたすら黙々と坐禅をし、その坐禅修行そのものが悟りであるとする。つまり坐禅修行の結果として悟りを得るわけではない。
近年、中学校の歴史教科書を発行する五社に対して、曹洞宗と臨済宗は、両宗を一括りに「禅宗」と表記しないよう要望したという。曹洞宗も臨済宗も、共に坐禅を修行の方法とするが坐禅に対する心構えが大きく違うらしい。
悟りの在(あ)り方
人の心は移ろいやすいものだ。しかし、曹洞宗では、坐禅によって見る自己の本性がそのまま仏性であり、本来、仏であるとする。
これは、人心と仏心を混同した大きな誤りである。
日蓮大聖人は『混繋経』を引かれて、
「願ひて心の師と作(な)るとも、心を師とせざれ」(御書二七㌻)
と御教示である。
三毒強盛な人の心を師と仰いで、仏性を観ずることなどできない。 それどころか、坐禅修行を行うことは、自身を仏と等しいとする
智慧なき増上慢(ぞうじょうまん)の類(たぐい)に他ならない。
正を立てて国を安んずる
いずれの禅の教えでも末法の衆生は救われない。なぜなら、大聖人が「禅天魔」と仰せのように、坐禅の修行が正法に背(そむ)く天魔の所為だからである。「誰一人取り残さない」どころか、「誰も救われない社会」を実現してしまうだろう。
大聖人は、このような邪義邪宗の一切を破折し、正法を立てて国を安んずるべきことを御指南である。 すなわち『立正安国論』に、
「汝(なんじ)早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然(しか)れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉(ことごと)く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微(すいび)無く士(ど)に破壊(はえ)無くんば、身は是(これ)安全にして心は是禅定ならん。
此の詞(ことば) 此の言(こと)信ずべく崇(あが)むべし」(同三五0㌻)
と仰せの通り、
偏(かたよ)った狭い信仰を改め、直ちに本門戒壇の大御本尊に帰依(きえ)するべきである。
正法に帰依すれば、迷い苦しみの世界もそのまま仏国土となる。つまり、 すべての人が属する国家社会の安穏(あんのん)が実現できる。そして、
「一切衆生の誰一人として取り残すことなく」即身成仏へと導くことができる。
我々が今、すべきことは、広宣流布の実現をめざして、自行化他の唱題を行じ、慈悲の折伏を実践することである。今年も一人でも多くの方を折伏していこう。
(大白法 第1071号 令和四年二月十六日号)