本門戒壇の大御本尊への信仰を否定
創価学会は、昨年、本門戒壇の大御本尊を否定する大暴挙に出た
これまで数々の謗法を犯してきたが、三宝破壊極まる所業に、大謗法路線の完結を見る思いがする。
しかし、創価学会だけではなかった。何と、正信会も、本門戒壇の大御本尊への信仰を否定しているのだ。
かつては日蓮正宗本来の教義信条に則(のっと)り、創価学会を破折していたのに、わずか二十数年ほどで教義の根幹を否定するとは、何とも見下げた所業である。
正信会の分裂
正信会は、この本門戒壇の大御本尊への信仰論を巡って、会を二分して対立し、結局は完全に分裂した。
もともと弱小宗団だったのに、それが分裂したのだから「田分け」を地で行く、何とも愚かなことではある。
従来、正信会は『継命』という新聞を発行していたが、分裂した今、片方の集団は『妙風』という新聞を出している。
その論苑に、「本門戒壇の大御本尊をいかに拝すべきか?この問題は二つに割れている正信会の帰趨(きすう)を結(ママ)する重大な問題である」(同紙 一月一日号)
と述べ、正信会が分裂していること、その原因は御戒壇様の拝し方と吐露(とろ)した。
本門戒壇の大御本尊の拝し方は、皆で議論して決めるものではない。
それを
「いかに拝すべきか」とは、御仏智を信じない、謗法の言と言う他はない。
後だから違う?
『妙風』では、
「大聖人がこの御本尊を根本としなければ、他の御本尊はすべて御利益がないとされた文証があっただろうか」(同)
「すると不学者は、『日蓮がたましいをすみにながしてかきて候ぞ、信じさせ給え』と御自ら仰有(おっしゃ)っているではないかと言うであろう。しかし、この御文は文永十年(一二七三年)(中略)の御文であり、弘安二年(一二七九年)に顕されたとされている戒壇の大御本尊を指して言われているのではない」(同)
とも言う。何と浅はかな言い分ではないか。
日蓮大聖人の一期(いちご)御化導を拝するとき、時系列だけで考えるのは愚の骨頂(こっちょう)。
例えば『立正安国論』は、御本尊を図顕される遥(はる)か以前の文応元(一二六〇)年に著(あらわ)されたが、その立正の意義に、御本尊は含まれないとでも言うのであろうか。
日寛上人は、立正の意義について、
「凡(およ)そ三大秘法は要中の要、正中の正なり。久遠下種の正法とは、末法弘通の三大秘法の事なり」
(御書文段 五ページ)
と仰せである。
そもそも、彼らの戯論(けろん)によれば、大聖人の一期御化導は縦横無尽であり、その一切が三大秘法に帰するのだから、たとえ御本尊図顕以前でも、その題目は、本門の題目である。
その深義(じんぎ)は、正信によってのみ領解(りょうげ)できるのであり、正信会の邪智では到底、及ぶことはない。
広宣流布できないと自白
大聖人は『聖人御難事』に、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。(中略)余は二十七年なり」
(御書 一三九六ページ)
と、宗旨建立の建長五年から二十七年に当たる弘安二年に、出生の本懐を遂げられると仰せではないか。
また、御開山日興上人も、
「日興が身に当て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」
(同 一八八三ページ)
と遺誡(ゆいかい)せられている。
何が「文証があっただろうか」だ、明証歴然である。
日寛上人は、
「富士山は是れ広宣流布の根源(中略)根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の大御本尊是れなり」
(六巻抄 六八ページ)
と仰せられている。
この『広宣流布の根源』を否定するとは、広宣流布できないことを自白したにも等しく、愚かしい限りである。
(大白法 平成二十七年二月一日号)
創価学会は、昨年、本門戒壇の大御本尊を否定する大暴挙に出た
これまで数々の謗法を犯してきたが、三宝破壊極まる所業に、大謗法路線の完結を見る思いがする。
しかし、創価学会だけではなかった。何と、正信会も、本門戒壇の大御本尊への信仰を否定しているのだ。
かつては日蓮正宗本来の教義信条に則(のっと)り、創価学会を破折していたのに、わずか二十数年ほどで教義の根幹を否定するとは、何とも見下げた所業である。
正信会の分裂
正信会は、この本門戒壇の大御本尊への信仰論を巡って、会を二分して対立し、結局は完全に分裂した。
もともと弱小宗団だったのに、それが分裂したのだから「田分け」を地で行く、何とも愚かなことではある。
従来、正信会は『継命』という新聞を発行していたが、分裂した今、片方の集団は『妙風』という新聞を出している。
その論苑に、「本門戒壇の大御本尊をいかに拝すべきか?この問題は二つに割れている正信会の帰趨(きすう)を結(ママ)する重大な問題である」(同紙 一月一日号)
と述べ、正信会が分裂していること、その原因は御戒壇様の拝し方と吐露(とろ)した。
本門戒壇の大御本尊の拝し方は、皆で議論して決めるものではない。
それを
「いかに拝すべきか」とは、御仏智を信じない、謗法の言と言う他はない。
後だから違う?
『妙風』では、
「大聖人がこの御本尊を根本としなければ、他の御本尊はすべて御利益がないとされた文証があっただろうか」(同)
「すると不学者は、『日蓮がたましいをすみにながしてかきて候ぞ、信じさせ給え』と御自ら仰有(おっしゃ)っているではないかと言うであろう。しかし、この御文は文永十年(一二七三年)(中略)の御文であり、弘安二年(一二七九年)に顕されたとされている戒壇の大御本尊を指して言われているのではない」(同)
とも言う。何と浅はかな言い分ではないか。
日蓮大聖人の一期(いちご)御化導を拝するとき、時系列だけで考えるのは愚の骨頂(こっちょう)。
例えば『立正安国論』は、御本尊を図顕される遥(はる)か以前の文応元(一二六〇)年に著(あらわ)されたが、その立正の意義に、御本尊は含まれないとでも言うのであろうか。
日寛上人は、立正の意義について、
「凡(およ)そ三大秘法は要中の要、正中の正なり。久遠下種の正法とは、末法弘通の三大秘法の事なり」
(御書文段 五ページ)
と仰せである。
そもそも、彼らの戯論(けろん)によれば、大聖人の一期御化導は縦横無尽であり、その一切が三大秘法に帰するのだから、たとえ御本尊図顕以前でも、その題目は、本門の題目である。
その深義(じんぎ)は、正信によってのみ領解(りょうげ)できるのであり、正信会の邪智では到底、及ぶことはない。
広宣流布できないと自白
大聖人は『聖人御難事』に、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。(中略)余は二十七年なり」
(御書 一三九六ページ)
と、宗旨建立の建長五年から二十七年に当たる弘安二年に、出生の本懐を遂げられると仰せではないか。
また、御開山日興上人も、
「日興が身に当て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」
(同 一八八三ページ)
と遺誡(ゆいかい)せられている。
何が「文証があっただろうか」だ、明証歴然である。
日寛上人は、
「富士山は是れ広宣流布の根源(中略)根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の大御本尊是れなり」
(六巻抄 六八ページ)
と仰せられている。
この『広宣流布の根源』を否定するとは、広宣流布できないことを自白したにも等しく、愚かしい限りである。
(大白法 平成二十七年二月一日号)