葬儀・法要・戒名(かいみょう)・塔婆(とうば)は成仏と無関係?
宗開両祖の御教示を虚心担懐(きょしんたんかい)に拝(はい)せ
次に教学試験テキストには、「『人間を手段化する宗教』との戦い」として、①化儀の悪用、とある。 ここからは御法主上人に対する誹謗(ひぼう)に乗じて、宗門御僧侶に対する誹謗となる。
テキストには、”僧侶による葬儀、法要、戒名、塔婆などの化儀は、金儲けの道具である"と非難し、成仏とは関係のないもので不要としている。
それは、”大聖人が葬儀の導師をされた記録は無く、生前に法名の授与はあっても、死後に戒名を授けた例もない。 また、塔婆供養についても、 大聖人が塔婆を立てて追善供養されたこともない" から、とのこと。なぜ、そういえるかと
いえば、”御書にそのような記録が一切載(の)っていないからというのだ。これには、他の日蓮宗系も笑わずにはいられまい。かくて学会は、葬儀・法要・戒名・塔婆供養等の儀式は大聖人の教えを無視するものである、として、「僧侶による葬儀などが成仏に不可欠などと主張すること自体、日蓮大聖人の仏法を、いわゆる『葬式仏教』に堕落させるものであり、仏法の重大な歪曲と言わなければならない」などと、無理なこじつけを主張する。
挙げ句の果てに、”成仏に僧侶の葬儀は関係なく、友人・同士による「友人葬」などの真心の追善こそ、仏教の本義に適(かな)う"のだそうだ。
この宗門の化儀に対する批判は、平成二年末の学会問題以降に、本格的に起こり始めた。 そして宗門を批判しながら会員を騙(だま)し、お寺から遠ざけ、 会館などにおいて、独自で彼岸会や葬儀を行ないだした。
これに対し宗門からは「通告文」をもって、注意を促したが、止まることはなかった。
僧侶を否定している以上、葬儀無しで儀式を行なう方法や理由を考えたのだろうが、池田大作に尻尾を「振って行った離脱僧共は、この矛盾(むじゅん)した化儀の中で、何を思い日々を送っているのだろうか。
哀れでならない。では、破折をしていく。実際、大聖人が葬儀をされた、塔婆供養をされた、という記録は残っていない。 だからといって、僧侶による葬儀や塔婆供養が不要だ、などと一言も言われているわけではない。
南條時光の父·南條兵衛七郎殿が亡くなった時には、「行増」と戒名をつけられ、わざわざ御下向されて、墓参をされている。日興上人においては、
「市王殿の御うば(乳母)他界御事申ばかり侯はず、明日こそ人をもまいらせて御とぶらひ候らはめ」(歴全一巻一五二頁)
と、葬儀に門弟を遣(つか)りされた記録がある。
また塔婆供養については、『草木成仏ロ決』の
「有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情·非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
(御書五二三頁)
の御文と、『中興入道御消息』の
「去(みまか) りぬる幼子のむすめ (娘) 御前の十三年に、 丈六のそとば(卒塔婆)をたて✓、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはな(離)れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)其の風を身にふ(蝕)れて畜生道をまぬ(免)かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。 況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふ(蝕)れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄士をて(照)らし、孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水す(澄)めば月うつ(映)り、つ✓"み(鼓)をつ(打)てはひ✓" (響) きのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題日を顕はし給へ」(御書一四三四頁)
の御文を拝すべきである。
これらの御文を拝した時、大聖人は葬儀、戒名、法要、塔婆供養をされていた、と捉(とら)える方が普通ではないだろうか。 逆に、否定されている、と捉える方が不自然に思えてならない。
騙されてる学会員よ、いま一度、『通告文』を拝せ。
「日蓮正宗の信仰の根幹は、大聖人·日興上人以来の師弟相対の信心化儀を中心とした、化儀即法体の法門にあります。したがって、本宗の信徒は、下種三宝を帰命の依止処として、師弟相対の信心化儀を修することによって、はじめて
所願が成就するのであります。(中略)創価学会独自に僧侶不在の葬儀を執行するならば、それは下種三宝の意義を欠く化儀となり、決して即身成仏の本懐を遂げることはできません。 それどころか、本宗の師弟相対の血脈次第の筋目を無視した罪によって、故人や遺族はもとより、 導師を務める者も、必ず誘法堕地獄となるのであります。」
このように、本宗の化儀即化法には、血脈相承に対する絶対の信が存する。 それを無視して、独自にニセ本尊を掲げ、同士友人の真心だけで成仏できるという邪義こそ、化儀の悪用といえよう。
「法華経誹誇 (ひぼう)の悪知識たる法然·弘法等をたの(侍)み、 阿弥陀経・大日経等を信じ給ふは、なを火より火の中、水より水のそこ(底)へ入るがごとし。 いかでか苦患(くげん)をまぬかるべきや。等活(とうかつ)·黒縄(こくじよう)·無間(むけん)地獄の火坑、紅蓮(ぐれん)・大紅蓮(だいぐれん)の氷の底に入りしづ(沈)み給はん事疑ひなかるべし。法華経の第二に云はく『其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転(てんでん)して無数劫(むしゅこう)に至らん』云云」(御書三三六頁)
編され続けている学会員は、この御金言を恐れるべきである。
(慧妙 令和元年10月16日)
宗開両祖の御教示を虚心担懐(きょしんたんかい)に拝(はい)せ
次に教学試験テキストには、「『人間を手段化する宗教』との戦い」として、①化儀の悪用、とある。 ここからは御法主上人に対する誹謗(ひぼう)に乗じて、宗門御僧侶に対する誹謗となる。
テキストには、”僧侶による葬儀、法要、戒名、塔婆などの化儀は、金儲けの道具である"と非難し、成仏とは関係のないもので不要としている。
それは、”大聖人が葬儀の導師をされた記録は無く、生前に法名の授与はあっても、死後に戒名を授けた例もない。 また、塔婆供養についても、 大聖人が塔婆を立てて追善供養されたこともない" から、とのこと。なぜ、そういえるかと
いえば、”御書にそのような記録が一切載(の)っていないからというのだ。これには、他の日蓮宗系も笑わずにはいられまい。かくて学会は、葬儀・法要・戒名・塔婆供養等の儀式は大聖人の教えを無視するものである、として、「僧侶による葬儀などが成仏に不可欠などと主張すること自体、日蓮大聖人の仏法を、いわゆる『葬式仏教』に堕落させるものであり、仏法の重大な歪曲と言わなければならない」などと、無理なこじつけを主張する。
挙げ句の果てに、”成仏に僧侶の葬儀は関係なく、友人・同士による「友人葬」などの真心の追善こそ、仏教の本義に適(かな)う"のだそうだ。
この宗門の化儀に対する批判は、平成二年末の学会問題以降に、本格的に起こり始めた。 そして宗門を批判しながら会員を騙(だま)し、お寺から遠ざけ、 会館などにおいて、独自で彼岸会や葬儀を行ないだした。
これに対し宗門からは「通告文」をもって、注意を促したが、止まることはなかった。
僧侶を否定している以上、葬儀無しで儀式を行なう方法や理由を考えたのだろうが、池田大作に尻尾を「振って行った離脱僧共は、この矛盾(むじゅん)した化儀の中で、何を思い日々を送っているのだろうか。
哀れでならない。では、破折をしていく。実際、大聖人が葬儀をされた、塔婆供養をされた、という記録は残っていない。 だからといって、僧侶による葬儀や塔婆供養が不要だ、などと一言も言われているわけではない。
南條時光の父·南條兵衛七郎殿が亡くなった時には、「行増」と戒名をつけられ、わざわざ御下向されて、墓参をされている。日興上人においては、
「市王殿の御うば(乳母)他界御事申ばかり侯はず、明日こそ人をもまいらせて御とぶらひ候らはめ」(歴全一巻一五二頁)
と、葬儀に門弟を遣(つか)りされた記録がある。
また塔婆供養については、『草木成仏ロ決』の
「有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情·非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
(御書五二三頁)
の御文と、『中興入道御消息』の
「去(みまか) りぬる幼子のむすめ (娘) 御前の十三年に、 丈六のそとば(卒塔婆)をたて✓、其の面(おもて)に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、其の風にあたりて大海の苦をはな(離)れ、東風(こち)きたれば西山の鳥鹿(ちょうろく)其の風を身にふ(蝕)れて畜生道をまぬ(免)かれて都率(とそつ)の内院に生まれん。 況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふ(蝕)れ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄士をて(照)らし、孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水す(澄)めば月うつ(映)り、つ✓"み(鼓)をつ(打)てはひ✓" (響) きのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとば(卒塔婆)にも法華経の題日を顕はし給へ」(御書一四三四頁)
の御文を拝すべきである。
これらの御文を拝した時、大聖人は葬儀、戒名、法要、塔婆供養をされていた、と捉(とら)える方が普通ではないだろうか。 逆に、否定されている、と捉える方が不自然に思えてならない。
騙されてる学会員よ、いま一度、『通告文』を拝せ。
「日蓮正宗の信仰の根幹は、大聖人·日興上人以来の師弟相対の信心化儀を中心とした、化儀即法体の法門にあります。したがって、本宗の信徒は、下種三宝を帰命の依止処として、師弟相対の信心化儀を修することによって、はじめて
所願が成就するのであります。(中略)創価学会独自に僧侶不在の葬儀を執行するならば、それは下種三宝の意義を欠く化儀となり、決して即身成仏の本懐を遂げることはできません。 それどころか、本宗の師弟相対の血脈次第の筋目を無視した罪によって、故人や遺族はもとより、 導師を務める者も、必ず誘法堕地獄となるのであります。」
このように、本宗の化儀即化法には、血脈相承に対する絶対の信が存する。 それを無視して、独自にニセ本尊を掲げ、同士友人の真心だけで成仏できるという邪義こそ、化儀の悪用といえよう。
「法華経誹誇 (ひぼう)の悪知識たる法然·弘法等をたの(侍)み、 阿弥陀経・大日経等を信じ給ふは、なを火より火の中、水より水のそこ(底)へ入るがごとし。 いかでか苦患(くげん)をまぬかるべきや。等活(とうかつ)·黒縄(こくじよう)·無間(むけん)地獄の火坑、紅蓮(ぐれん)・大紅蓮(だいぐれん)の氷の底に入りしづ(沈)み給はん事疑ひなかるべし。法華経の第二に云はく『其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転(てんでん)して無数劫(むしゅこう)に至らん』云云」(御書三三六頁)
編され続けている学会員は、この御金言を恐れるべきである。
(慧妙 令和元年10月16日)
創価学会は、公式サイトでも「友人葬」を喧伝すると同時に、僧侶・戒名・塔婆等の化義を否定