何ぞ根源を訪(たず)ねざるや
大御本尊蔑視の邪説
創価学会の邪義謗法の最たるものは、本門戒壇の大御本尊に対する誹謗(ひぼう)である。
例えば、彼らの主張はこうだ。
「そもそも、大聖人の仏法の本義に基づけば、『弘安二年の御本尊』は『本門の本尊』の一つである。
大謗法にまみれた邪義の寺にあるから『受持の対象としない』だけである(中略)御書には、”弘安二年の御本尊”などとは、一切、記されていない」(創価新報 平成三十年五月一日付)
どうやら、”御本尊はどれも同じで、大御本尊だけが特別ではない”と言いたいようである。これでは、邪宗・身延日蓮宗の学者の言い分と同じだ。
学会は、どしても大御本尊の尊厳を貶(おとし)めなければ気が済まないらしい。
日寛上人の破折
今さら論ずるまでもなく。大御本尊は御本仏日蓮大聖人の一期(いちご)化導の究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐、三大秘法の随一、一閻浮提(いちえんぶだい)総体の根源の御本尊である。
仏法において根源がいかに大事かを、妙楽大師は、
「仏道修行者は必ず根源を求めなければならない。もし根源に迷うならば、増上慢を起こして、真実の悟りの道から外れ、仏法に邪説を混ぜることになる(趣意)」(摩訶止観弘決会本 上ー一二㌻)
と誡(いまし)めている。
この文を引用して総本山第二十六世日寛上人は、
「一閻浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其(そ)の処は皆是(これ)義理の戒壇なり。然(しか)りと雖(いえど)も仍(なお)是枝(し)流にして、是れ根源に非(あら)ず。正(まさ)に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり。(中略)今日本国中の諸宗諸門の徒、何ぞ根源を訪(たず)ねざるや。浅間(あさま)し、浅間し云云」
(御書文段 五四三㌻)
と御教示である。
創価学会は組織防衛のために、大御本尊を根源と拝すべき信仰を、いとも簡単に捨て去った。日寛上人は”浅ましい”と創価学会の大謗法を一刀両断に破折されている。
戒壇安置の御本尊とは
今の学会は、自らを”大聖人の御遺命を推進する唯一正統の教団”と吹聴(ふいちょう)する。そして、ことさらに東京・信濃町の創価学会総本部(広宣流布大誓堂)に安置する本尊(手前勝手に”広宣流布の御本尊”と名づけている)の存在を誇示する。
しかし、この本尊を書写された総本山第六十四世日昇上人は、
「戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申し上げている御本尊でございまする」
(聖教新聞 昭和三十年十二月十八日付)
と御指南である。
書写なさった御本人が大御本尊のお写しと仰せなのだ。後代の者が勝手にその意義を改変することなど、断じてできるはずがない。
学会が”信仰の対象としない”と宣言した大御本尊の内証を、学会が言う”邪教の寺”の御法主上人が書写あそばされた御本尊を用いるという論理の破綻(はたん)。
大聖人の唯一の御遺命とは、『三大秘法抄』に、
「霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(御書 一五九五㌻)
と仰せのように、広宣流布の暁(あかつき)に本門の戒壇を建立することであり、その「最勝の地」とは、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同 一六七五㌻)
との日興上人への御相伝に明らかである。
その御遺命の戒壇に御安置すべき唯一無二の御本尊であるが故に、大御本尊の脇書(わきがき)に「本門戒壇」とはっきりと御示しなのだ。
創価学会執行部よ。本宗への増悪の邪念をもって御託(ごたく)を並べる前に”戒壇建立の最勝の地とはどこか?”この問いに正々堂々と答えてみよ。
大聖人違背(いはい)の大罪を無限に開く哀れな学会員を救済しなければ、邪法乱国は阻止できない。大御本尊にその名を刻まれた「法華講衆」の末裔たる我々は、
今こそ折伏の使命を果たすべきである。
(大白法 第九九二号 平成三十年十一月一日)
大御本尊蔑視の邪説
創価学会の邪義謗法の最たるものは、本門戒壇の大御本尊に対する誹謗(ひぼう)である。
例えば、彼らの主張はこうだ。
「そもそも、大聖人の仏法の本義に基づけば、『弘安二年の御本尊』は『本門の本尊』の一つである。
大謗法にまみれた邪義の寺にあるから『受持の対象としない』だけである(中略)御書には、”弘安二年の御本尊”などとは、一切、記されていない」(創価新報 平成三十年五月一日付)
どうやら、”御本尊はどれも同じで、大御本尊だけが特別ではない”と言いたいようである。これでは、邪宗・身延日蓮宗の学者の言い分と同じだ。
学会は、どしても大御本尊の尊厳を貶(おとし)めなければ気が済まないらしい。
日寛上人の破折
今さら論ずるまでもなく。大御本尊は御本仏日蓮大聖人の一期(いちご)化導の究竟(くきょう)中の究竟、本懐の中の本懐、三大秘法の随一、一閻浮提(いちえんぶだい)総体の根源の御本尊である。
仏法において根源がいかに大事かを、妙楽大師は、
「仏道修行者は必ず根源を求めなければならない。もし根源に迷うならば、増上慢を起こして、真実の悟りの道から外れ、仏法に邪説を混ぜることになる(趣意)」(摩訶止観弘決会本 上ー一二㌻)
と誡(いまし)めている。
この文を引用して総本山第二十六世日寛上人は、
「一閻浮提の山寺等、皆嫡々(ちゃくちゃく)書写の本尊を安置す。其(そ)の処は皆是(これ)義理の戒壇なり。然(しか)りと雖(いえど)も仍(なお)是枝(し)流にして、是れ根源に非(あら)ず。正(まさ)に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり。(中略)今日本国中の諸宗諸門の徒、何ぞ根源を訪(たず)ねざるや。浅間(あさま)し、浅間し云云」
(御書文段 五四三㌻)
と御教示である。
創価学会は組織防衛のために、大御本尊を根源と拝すべき信仰を、いとも簡単に捨て去った。日寛上人は”浅ましい”と創価学会の大謗法を一刀両断に破折されている。
戒壇安置の御本尊とは
今の学会は、自らを”大聖人の御遺命を推進する唯一正統の教団”と吹聴(ふいちょう)する。そして、ことさらに東京・信濃町の創価学会総本部(広宣流布大誓堂)に安置する本尊(手前勝手に”広宣流布の御本尊”と名づけている)の存在を誇示する。
しかし、この本尊を書写された総本山第六十四世日昇上人は、
「戒壇の大御本尊の御内証を、帯し奉って不肖日昇六十四世の法主として、御本尊様に信仰をそめておしたため申し上げている御本尊でございまする」
(聖教新聞 昭和三十年十二月十八日付)
と御指南である。
書写なさった御本人が大御本尊のお写しと仰せなのだ。後代の者が勝手にその意義を改変することなど、断じてできるはずがない。
学会が”信仰の対象としない”と宣言した大御本尊の内証を、学会が言う”邪教の寺”の御法主上人が書写あそばされた御本尊を用いるという論理の破綻(はたん)。
大聖人の唯一の御遺命とは、『三大秘法抄』に、
「霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(御書 一五九五㌻)
と仰せのように、広宣流布の暁(あかつき)に本門の戒壇を建立することであり、その「最勝の地」とは、
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同 一六七五㌻)
との日興上人への御相伝に明らかである。
その御遺命の戒壇に御安置すべき唯一無二の御本尊であるが故に、大御本尊の脇書(わきがき)に「本門戒壇」とはっきりと御示しなのだ。
創価学会執行部よ。本宗への増悪の邪念をもって御託(ごたく)を並べる前に”戒壇建立の最勝の地とはどこか?”この問いに正々堂々と答えてみよ。
大聖人違背(いはい)の大罪を無限に開く哀れな学会員を救済しなければ、邪法乱国は阻止できない。大御本尊にその名を刻まれた「法華講衆」の末裔たる我々は、
今こそ折伏の使命を果たすべきである。
(大白法 第九九二号 平成三十年十一月一日)