御聖訓に反する学会の「師弟不二」
謗法(ほうぼう)の学会を折伏することこそが「日蓮と同意」
前回は、慧妙に対する誹謗(ひぼう)を破折する形で、日蓮大聖人の御金言等を引用し、日蓮正宗本来の師弟観を示した。
その結論として、「しかして『新報』は、<広宣流布の使命を担う要件は、『日蓮と同意』であるか否かである〉として、〈大聖人と、同じ心、同じ精神で、広布への実践を貫く人〉が創価三代の会長である、と結論付けようとしているが、前に示した御指南によって考えれば、〝日蓮大聖人に同意"とは"御当代御法主上人に同意”でなくてはならない。 子供にでもわかる道理である」
と指摘しておいたが、今回は、創価学会が唱える〝師弟不二〟なる師弟観が、そもそも「日蓮と同意」の師弟観でないことを、御書の
御文から検証していきたいと思う。
「人師(にんし)にあやまりあらば経(きょう)に依(よ)れ」
学会の「師弟不二」論はまったくの誤り
『頼基陳状』には、
「誰人か時の代にあをがるゝ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依って人に依らざれ」と見えて候。人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(御書一一二八頁)
とある。
「時の代にあをがるゝ人師等」とは、時の権力者に高徳な師と仰がれている人々、ということであり、そういう人物については誰もが疑おうとしない。
しかし、そのような人物であっても「あやま(誤)りあらば経に依れと仏は説かれて候」――その人に経典に違(たが)う誤りがあったならば、その人には従わず、経典に説かれる正しい道理に従いなさい、それが、涅槃経に説かれる「法に依って人に依らざれ」ということである、との御文である。
では、果たして池田大作は、誤りなき「人師」なのだろうか。
『創価新報』では毎号、「創造する希望ー池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ―」
と題して、池田大作がこれまでに行なった大学・学術機関での記念講演に関する顕彰記事を掲載している。
これは、池田が世界から賞賛される高徳な人物であると学会員に印象づけることを目的としたものであることは、疑いようがない。
その池田大作は、かつて
「私は戸田前会長と十年間、師弟の道を歩んできた。たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。それを自分の人生と決め、だまされても、師匠と一緒なら、それでいい。これが師弟相対だと決めていた」
(『指導メモ』)
と指導した。
これにより、創価学会内では "師匠が地獄に堕ちたなら、自分も地獄まで付いていく ーそれが「師弟不二」だ"との考えが定着していったといえる。
しかるに、日蓮大聖人の教えは "高徳な師匠の教えといえども、誤りであれば
用いず、正しい仏法の道理に依るべし”というものである。池田が真に高徳な人物かどうかは置くとしても、学会の“師匠が地獄に堕ちたなら、自分も地獄まで付いていく"とする「師弟相対」「師弟不二」の考えは、御書のどこを探しても見当たらない。「日蓮と同意」でないことは明らかだし、道理に照らしても間違った考え方であることは明白といえよう。
されば、学会の説く「師弟不二」などの考えは潔(いさぎよ)く捨て去り、正法正師の正義に依るべきである。
「真の知識無ければ法を以(もっ)て知識と為(な)す」
正法誹謗(ひぼう)の大謗法団体からは即座に脱会を
『守護国家論』には
「問うて云はく、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すの証有りや。 答へて云はく、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証在り」
(御書一四九頁)
とあるが、続く御文を拝すると、これは、法華経以前の爾前経には一念三千の法門が説かれていないので、爾前経に依っていたのでは二乗も菩薩も内心の仏界を知ることができず、内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕われることはない。
たとえ仏を見たとしても、その仏は法華経とは無縁の他仏である。そのため爾前経に依る者は成仏を遂げることができない。一切衆生の本当の善知識は一念三千の法門が説かれた法華経であり、法華経によってこそ成仏が叶うのである。 そのことは多くの経文に明らかである、との意である。つまり、爾前経を説く者を善知識と仰いでいては、成仏得道は絶対に叶わない。 法華経を説く者こそを善知識と仰ぐべきである、ということになる。
さて、創価学会はどうか、というと、平成三年に宗門から破門されて以降、前回指摘したように、日蓮正宗本来の師弟観を覆(くつがえ)し、あまつさえ日蓮大聖人の出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊まで 「用いない」と断言するに至った。爾前経を説くどころか、正法誹謗の大謗法団体と化したのである。
されば、爾前経を説く者以上に堕地獄は必定。そんな創価学会からは一刻も早く抜け出し、日蓮正宗に帰伏すべきである。
「父母・師弟の心に随(したが)ふべからず」
正法をもって破折してこそ真の報恩
『報恩抄』には
「いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者と
ならで叶ふべきか。(中略)是非につけて出離(しゅつり)の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず」
(御書九九九頁)
と仰せである。
仏教を習得しようとする者は父母・師匠・国の恩を忘れてはならない。その恩に報ずるためには、仏教を習い極め、智者となることである。そうでなければ叶うことはない。
迷いの生命を離れ、仏の境地に至らないうちは、たとえ大恩ある父母や師匠といえども、良くも悪くも、その思惑(おもわく)に従ってはならない、という仰せであるが、創価学会が離反者に対して投げつける言葉は、決まって
「創価学会によって御本尊を知ったのに、その学会を裏切るとは恩知らずだ」「大恩ある池田先生を裏切った」
といったものである。
だが、正法正義を学んでいけば、自ずと池田大作・創価学会の誤りに気付く。
その時、「日蓮と同意」たらんとする者が取るべき態度は、学会員からの批判を恐れることなく、正法正師の元に付くことである。
そして、「大恩」ある創価学会を折伏し、正信に目覚めさせること、それこそが真の報恩ではないか。
以上の御金言から導かれる、学会員諸氏が選択すべき道はただ一つ。まず「日蓮と同意」ではなくなった池田創価学会とは訣別し、〝御当代御法主上人に同意"すなわち日蓮正宗に帰伏して、共々に師弟子の道を守り、異流義となった創価学会員を折伏していくことのみである。
(慧妙 令和四年五月十六日)
謗法(ほうぼう)の学会を折伏することこそが「日蓮と同意」
前回は、慧妙に対する誹謗(ひぼう)を破折する形で、日蓮大聖人の御金言等を引用し、日蓮正宗本来の師弟観を示した。
その結論として、「しかして『新報』は、<広宣流布の使命を担う要件は、『日蓮と同意』であるか否かである〉として、〈大聖人と、同じ心、同じ精神で、広布への実践を貫く人〉が創価三代の会長である、と結論付けようとしているが、前に示した御指南によって考えれば、〝日蓮大聖人に同意"とは"御当代御法主上人に同意”でなくてはならない。 子供にでもわかる道理である」
と指摘しておいたが、今回は、創価学会が唱える〝師弟不二〟なる師弟観が、そもそも「日蓮と同意」の師弟観でないことを、御書の
御文から検証していきたいと思う。
「人師(にんし)にあやまりあらば経(きょう)に依(よ)れ」
学会の「師弟不二」論はまったくの誤り
『頼基陳状』には、
「誰人か時の代にあをがるゝ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依って人に依らざれ」と見えて候。人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候」(御書一一二八頁)
とある。
「時の代にあをがるゝ人師等」とは、時の権力者に高徳な師と仰がれている人々、ということであり、そういう人物については誰もが疑おうとしない。
しかし、そのような人物であっても「あやま(誤)りあらば経に依れと仏は説かれて候」――その人に経典に違(たが)う誤りがあったならば、その人には従わず、経典に説かれる正しい道理に従いなさい、それが、涅槃経に説かれる「法に依って人に依らざれ」ということである、との御文である。
では、果たして池田大作は、誤りなき「人師」なのだろうか。
『創価新報』では毎号、「創造する希望ー池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ―」
と題して、池田大作がこれまでに行なった大学・学術機関での記念講演に関する顕彰記事を掲載している。
これは、池田が世界から賞賛される高徳な人物であると学会員に印象づけることを目的としたものであることは、疑いようがない。
その池田大作は、かつて
「私は戸田前会長と十年間、師弟の道を歩んできた。たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。それを自分の人生と決め、だまされても、師匠と一緒なら、それでいい。これが師弟相対だと決めていた」
(『指導メモ』)
と指導した。
これにより、創価学会内では "師匠が地獄に堕ちたなら、自分も地獄まで付いていく ーそれが「師弟不二」だ"との考えが定着していったといえる。
しかるに、日蓮大聖人の教えは "高徳な師匠の教えといえども、誤りであれば
用いず、正しい仏法の道理に依るべし”というものである。池田が真に高徳な人物かどうかは置くとしても、学会の“師匠が地獄に堕ちたなら、自分も地獄まで付いていく"とする「師弟相対」「師弟不二」の考えは、御書のどこを探しても見当たらない。「日蓮と同意」でないことは明らかだし、道理に照らしても間違った考え方であることは明白といえよう。
されば、学会の説く「師弟不二」などの考えは潔(いさぎよ)く捨て去り、正法正師の正義に依るべきである。
「真の知識無ければ法を以(もっ)て知識と為(な)す」
正法誹謗(ひぼう)の大謗法団体からは即座に脱会を
『守護国家論』には
「問うて云はく、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。法を以て知識と為すの証有りや。 答へて云はく、人を以て知識と為すは常の習ひなり。然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証在り」
(御書一四九頁)
とあるが、続く御文を拝すると、これは、法華経以前の爾前経には一念三千の法門が説かれていないので、爾前経に依っていたのでは二乗も菩薩も内心の仏界を知ることができず、内心の仏界を知らなければ外の諸仏も顕われることはない。
たとえ仏を見たとしても、その仏は法華経とは無縁の他仏である。そのため爾前経に依る者は成仏を遂げることができない。一切衆生の本当の善知識は一念三千の法門が説かれた法華経であり、法華経によってこそ成仏が叶うのである。 そのことは多くの経文に明らかである、との意である。つまり、爾前経を説く者を善知識と仰いでいては、成仏得道は絶対に叶わない。 法華経を説く者こそを善知識と仰ぐべきである、ということになる。
さて、創価学会はどうか、というと、平成三年に宗門から破門されて以降、前回指摘したように、日蓮正宗本来の師弟観を覆(くつがえ)し、あまつさえ日蓮大聖人の出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊まで 「用いない」と断言するに至った。爾前経を説くどころか、正法誹謗の大謗法団体と化したのである。
されば、爾前経を説く者以上に堕地獄は必定。そんな創価学会からは一刻も早く抜け出し、日蓮正宗に帰伏すべきである。
「父母・師弟の心に随(したが)ふべからず」
正法をもって破折してこそ真の報恩
『報恩抄』には
「いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者と
ならで叶ふべきか。(中略)是非につけて出離(しゅつり)の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず」
(御書九九九頁)
と仰せである。
仏教を習得しようとする者は父母・師匠・国の恩を忘れてはならない。その恩に報ずるためには、仏教を習い極め、智者となることである。そうでなければ叶うことはない。
迷いの生命を離れ、仏の境地に至らないうちは、たとえ大恩ある父母や師匠といえども、良くも悪くも、その思惑(おもわく)に従ってはならない、という仰せであるが、創価学会が離反者に対して投げつける言葉は、決まって
「創価学会によって御本尊を知ったのに、その学会を裏切るとは恩知らずだ」「大恩ある池田先生を裏切った」
といったものである。
だが、正法正義を学んでいけば、自ずと池田大作・創価学会の誤りに気付く。
その時、「日蓮と同意」たらんとする者が取るべき態度は、学会員からの批判を恐れることなく、正法正師の元に付くことである。
そして、「大恩」ある創価学会を折伏し、正信に目覚めさせること、それこそが真の報恩ではないか。
以上の御金言から導かれる、学会員諸氏が選択すべき道はただ一つ。まず「日蓮と同意」ではなくなった池田創価学会とは訣別し、〝御当代御法主上人に同意"すなわち日蓮正宗に帰伏して、共々に師弟子の道を守り、異流義となった創価学会員を折伏していくことのみである。
(慧妙 令和四年五月十六日)
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