佼成会の真実顕現とは
立正佼成会がいう真実顕現とは、昭和三十三年に「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を像造し、会の本尊として内外に発表したことです。実は昭和二十年にこれを一度発表しています。
ところがその時は、会員に浸透しんとうしなかったため、今回の再発表となったと庭野日敬は自伝に書いています。
日敬が釈迦本尊を決めたことには日敬なりの目もく論ろ見みがありました。
それは、一つは創立以来の教団運営を方便であったとし、その方便の時代は終わったとすること、二には内紛により危機に瀕ひんした組織の再編、そして三には教義の確立、の三つの理由であったとされます。
まず、第一の方便の時代とはいかなる意味かを検証します。
日敬は方便という言葉を、次のような意味に使っています。
「発足したばかりの宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。
庶民大衆の切実な展望に応える〈方便〉の教えから入らざるをえなかった。
それで取りあえず霊友会の信仰活動を踏とう襲しゅうして、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった」(自伝)
すなわち、九字を切っての病気治し、あるいは九星占いや姓名判断等をして人を集めてきたことが、日敬の言う方便だったのです。
加えて、長沼妙佼の霊能的神がかりも方便の一つでした。
方便がこのような迷信邪信ですから、それによって開かれる真実なるものも、釈迦立像などという堕獄本尊となったのも当然でしょう。
次に第二の理由である組織内紛については、昭和三十一年一月頃、土地を不法に買い占めたとか、寄付を信者に強要した等の失で、日敬は国会で証人喚問をうけたのです。
また、同じ年の八月には、教団の幹部たちが妙佼を教祖に仕立て、日敬を上層部から締め出そうとした事件が起きました。
これらの事件により、佼成会の組織はかなり動揺しました。それを立て直すことが第二の理由だったというわけです。
第三の理由である教義の確立とは、教団創立以来、占いや姓名判断で会員は多数集めたものの、さしたる教義もない状態では世間体も悪かったのでしょう。
そこで法華経を教義の中心としつつ、大衆に迎合げいごうするためには、本尊を釈迦像とすることが得策と思った日敬はそれまでの曼荼羅を捨てて釈迦像を拝む形態に路線変更したのです。それは彼の
「私は昭和三十三年一月五日の『佼成新聞』に『久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊こそ本会の本尊である』と宣言し、いわゆる真実顕現の第一声としたのであった」(自伝)
「今までの交成会(ママ)も、創立から二十年間は、いわば方便の時代だった。
その二十年の修行を経て、今、初めて真のご本尊を勧請できる時代が来た、と言えるのだ」(三十年の歩み)
との言からも明らかです。
日敬は発足以来の二十年間を、方便の時代だったと弁明し、釈迦立像を本尊としたことを、おこがましくも、釈尊が四十余年間調機調養を経て真実の法華経を説いた姿と全く同じである、と述べたもので、かかる末法弘通の法体と付嘱を無視した増上慢の邪義には、釈尊もさぞかしお嘆なげきのことでしょう。
宗祖を悪しく敬う邪義
日敬が大聖人をどのように見ていたかは、次の両文をみれば判ります。
「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)
「宗派意識というものを一応ご破算にして、お釈迦様のご真意を行ずる事が真の仏教者であると叫ばれたものと私どもは解釈いたしておるのであります」(自伝)
日敬には、大聖人の大獅子吼くたる破邪顕正の四箇の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)の意義が全く理解されていないようです。
折伏精神のかけらもない日敬は、また、次のような発言もしています。
「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれども、それを讃えるためにほかの経典をけなしたりするのは、心得違いといわなければなりません」(法華経の新しい解釈)
宗祖の
「謗法を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
の御金言を一体どう拝するのでしょうか。更に、次の一文は許しがたいものです。
「日蓮大聖人は、久遠実成の本師釈迦牟尼仏(本仏)を中心とされた教学を樹たてられたものと、私どもは信じておるものであります」(自伝)
大聖人を冒涜する不相伝の邪義そのものであります。
次に『本尊問答抄』の一節をもって破折の文証とします。
「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」
(御書一二七四頁)と。
さて、日敬は日蓮正宗の御本尊を貶けなして次のようにもいっています。
「〈物〉に帰依し、〈物〉を礼拝し、〈物〉に祈願してはなりません」(法華経三部経5)
「いまだに、楠の板ぎれなどを拝み、依存する人々があるようですが、そういう〈物〉に依存するくらいならば、宗教などはスッパリと投げ捨てた方が賢明なのです」(法華経三部経5)
では、佼成会の大聖堂に祀まつる釈迦立像は一体何なのでしょう。
もし、釈迦像は物ではなく、大曼荼羅だけは物だというなら、それは全く次元の低い大謗法の偏見という外ありません。
大聖人は『観心本尊抄』に
「草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃たのみ奉たてまつること無む益やくなり」(御書六四五頁)
と仰せです。依正不二・色心不二の大聖人の仏法の深義は日敬には理解すべくもないようです。
「日蓮聖人は、日本の仏教に生命を吹き込まれた最もすぐれたお方であると信じています」(法華経の新しい解釈)
と、日敬は大聖人を自分勝手にたたえていますが、「日蓮を悪しく敬った」大謗法は、厳しく断罪されることでしょう。
「若し仏の所説に順(したが)はざる者有らば、当に知るべし、是の人は是魔の眷属なり」 (涅槃経)
大白法・平成6年5月16日、6月16日、7月16日刊(第409・411・413号)新興宗教破折より
立正佼成会がいう真実顕現とは、昭和三十三年に「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を像造し、会の本尊として内外に発表したことです。実は昭和二十年にこれを一度発表しています。
ところがその時は、会員に浸透しんとうしなかったため、今回の再発表となったと庭野日敬は自伝に書いています。
日敬が釈迦本尊を決めたことには日敬なりの目もく論ろ見みがありました。
それは、一つは創立以来の教団運営を方便であったとし、その方便の時代は終わったとすること、二には内紛により危機に瀕ひんした組織の再編、そして三には教義の確立、の三つの理由であったとされます。
まず、第一の方便の時代とはいかなる意味かを検証します。
日敬は方便という言葉を、次のような意味に使っています。
「発足したばかりの宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない。
庶民大衆の切実な展望に応える〈方便〉の教えから入らざるをえなかった。
それで取りあえず霊友会の信仰活動を踏とう襲しゅうして、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった」(自伝)
すなわち、九字を切っての病気治し、あるいは九星占いや姓名判断等をして人を集めてきたことが、日敬の言う方便だったのです。
加えて、長沼妙佼の霊能的神がかりも方便の一つでした。
方便がこのような迷信邪信ですから、それによって開かれる真実なるものも、釈迦立像などという堕獄本尊となったのも当然でしょう。
次に第二の理由である組織内紛については、昭和三十一年一月頃、土地を不法に買い占めたとか、寄付を信者に強要した等の失で、日敬は国会で証人喚問をうけたのです。
また、同じ年の八月には、教団の幹部たちが妙佼を教祖に仕立て、日敬を上層部から締め出そうとした事件が起きました。
これらの事件により、佼成会の組織はかなり動揺しました。それを立て直すことが第二の理由だったというわけです。
第三の理由である教義の確立とは、教団創立以来、占いや姓名判断で会員は多数集めたものの、さしたる教義もない状態では世間体も悪かったのでしょう。
そこで法華経を教義の中心としつつ、大衆に迎合げいごうするためには、本尊を釈迦像とすることが得策と思った日敬はそれまでの曼荼羅を捨てて釈迦像を拝む形態に路線変更したのです。それは彼の
「私は昭和三十三年一月五日の『佼成新聞』に『久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊こそ本会の本尊である』と宣言し、いわゆる真実顕現の第一声としたのであった」(自伝)
「今までの交成会(ママ)も、創立から二十年間は、いわば方便の時代だった。
その二十年の修行を経て、今、初めて真のご本尊を勧請できる時代が来た、と言えるのだ」(三十年の歩み)
との言からも明らかです。
日敬は発足以来の二十年間を、方便の時代だったと弁明し、釈迦立像を本尊としたことを、おこがましくも、釈尊が四十余年間調機調養を経て真実の法華経を説いた姿と全く同じである、と述べたもので、かかる末法弘通の法体と付嘱を無視した増上慢の邪義には、釈尊もさぞかしお嘆なげきのことでしょう。
宗祖を悪しく敬う邪義
日敬が大聖人をどのように見ていたかは、次の両文をみれば判ります。
「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち 法華経)
「宗派意識というものを一応ご破算にして、お釈迦様のご真意を行ずる事が真の仏教者であると叫ばれたものと私どもは解釈いたしておるのであります」(自伝)
日敬には、大聖人の大獅子吼くたる破邪顕正の四箇の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)の意義が全く理解されていないようです。
折伏精神のかけらもない日敬は、また、次のような発言もしています。
「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれども、それを讃えるためにほかの経典をけなしたりするのは、心得違いといわなければなりません」(法華経の新しい解釈)
宗祖の
「謗法を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
の御金言を一体どう拝するのでしょうか。更に、次の一文は許しがたいものです。
「日蓮大聖人は、久遠実成の本師釈迦牟尼仏(本仏)を中心とされた教学を樹たてられたものと、私どもは信じておるものであります」(自伝)
大聖人を冒涜する不相伝の邪義そのものであります。
次に『本尊問答抄』の一節をもって破折の文証とします。
「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」
(御書一二七四頁)と。
さて、日敬は日蓮正宗の御本尊を貶けなして次のようにもいっています。
「〈物〉に帰依し、〈物〉を礼拝し、〈物〉に祈願してはなりません」(法華経三部経5)
「いまだに、楠の板ぎれなどを拝み、依存する人々があるようですが、そういう〈物〉に依存するくらいならば、宗教などはスッパリと投げ捨てた方が賢明なのです」(法華経三部経5)
では、佼成会の大聖堂に祀まつる釈迦立像は一体何なのでしょう。
もし、釈迦像は物ではなく、大曼荼羅だけは物だというなら、それは全く次元の低い大謗法の偏見という外ありません。
大聖人は『観心本尊抄』に
「草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃たのみ奉たてまつること無む益やくなり」(御書六四五頁)
と仰せです。依正不二・色心不二の大聖人の仏法の深義は日敬には理解すべくもないようです。
「日蓮聖人は、日本の仏教に生命を吹き込まれた最もすぐれたお方であると信じています」(法華経の新しい解釈)
と、日敬は大聖人を自分勝手にたたえていますが、「日蓮を悪しく敬った」大謗法は、厳しく断罪されることでしょう。
「若し仏の所説に順(したが)はざる者有らば、当に知るべし、是の人は是魔の眷属なり」 (涅槃経)
大白法・平成6年5月16日、6月16日、7月16日刊(第409・411・413号)新興宗教破折より