御本尊の相猊は時代と共に変化 究竟の相猊こそが戒壇の大御本尊
今回は、内的要因である、大聖人の大曼荼羅御本尊の御化導が次第に究竟されていくことを拝し。その内的要因と外的要因とが合致して出生の本懐が成就されたことを拝して、熱原法難と大御本尊御図顕を「無関係」と非難する大梵氏(身延の僧侶)を破折したい。
ただし、御本尊の権能は御法主上人御一人に在(ましま)す故、御本尊の御相猊(そうみょう)については、御歴代上人の御指南(御書文段 一九六頁~・三大秘法義三四三頁~)を仰いで拝することを、付記しておく。
さて、文永八年九月十二日、龍ノ口の頸(くび)の座にて発迹顕本なされて久遠元初の本仏の御内証を開顕された大聖人は、佐渡へお発ちになる前日(文永八年十月九日)に、その御内証をもって依智(現在の厚木市)で初めて一閻浮提の内に未曾有(みぞう)の大曼荼羅御本尊を図顕された。
この大曼荼羅御本尊は、『経王殿御返事』に
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(中略)経王御前にはわざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(御書六八五頁)
と仰せの如く、大聖人の御当体である。
また、『阿仏房御書』に、
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(御書七九三頁)
と教示されるごとく、大聖人の出生の本懐とは大曼荼羅本尊の図顕にある、と拝されるのである。
では、大聖人の御本尊であれば全て等しく出生の本懐なのかというと、それは違う。
前回も述べたように、『聖人御難事』には、大聖人の出生の本懐は弘安二年十月に遂げられる、と宣言されている。
すなわち、本懐の中の本懐ともいうべき御本尊が、弘安二年十月付近に顕わされるもの、と拝するのである。
またそのことは、御本尊の当相が次第に加徐・変更等がなされて、整足されることからも拝される。
特に、弘安元年以降の御本尊を拝すると、釈迦仏法の法勝人劣に対する下種仏法の人法一体の意が拝され、三世十方の諸仏を包摂(ほうせつ)
する本仏としてのお立場から、提婆達多を含む真実の十界互具の即身成仏を示されるところに、大曼荼羅本尊の御化導が究竟の域に達せられていることが拝されるのである。
これが内的要因であるが、さらに拝していきたい(なお、仏滅讃文中の二十余年と三十余年の相違については、昨年六月一日号の小欄でも拝したこともあり、詳細はそれに譲りたい)。
まず、大聖人御一期(いちご)の御本尊の相猊を拝すると、御名と御花押の位置に変化が拝せられる。
文永八年の依智における最初の御本尊は、御名と御花押が上下に配され、その後の御本尊は、御名と御花押が著しく左右に距(へだ)たっている。ところが、建治元年十月以降、御名と御花押が接近するようになり、建治二年二月の御本尊(釈日与授与)に至り重なってくる。
それ以降例がはあるものの、御名と御花押の位置が首題の直下か、または、それを受けた形に拝されるようになり、それが弘安期には、ほとんど首題直下の様式となる。
これは御本尊の中心が首題の左右に列座する釈迦・多宝等ではなく、まさに南無妙法蓮華経を所持あそばす日蓮大聖人であり、釈迦・多宝・上行等の一切の諸仏菩薩等は、ことごとく大聖人の当体に含まれるとの表示、と拝されるのである。
また、御花押についても、弘安元年七月五日の御本尊以降において変更されており、明らかにそれ以前の御花押の形と相違(特に初筆部分)が拝される。
次に、文永より建治年間にかけての御本尊に示された、善徳仏と十方分身(ふんじん)諸仏が、弘安以降に全く削除されるという、明確な変化が拝される。
建治三年十一月までの御本尊には、ほとんど善徳仏・十方分身が示されていた(分身だけの御本尊もある)が、弘安元年三月十六日の御本尊以降の御本尊には、善徳等の諸仏が削除されているのである。
この十方分身・善徳仏の御表示について、日寛上人は
「問う、文永・健治の御本尊を究尽(くじん)するや。答う、文永・健治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。此れに相伝有り。或は仍(なお)文上を帯するか云云」(文段一九六頁)
と、御相伝があるとされた上で、文永・健治の御本尊はいまだ文上の方便の意を帯する故に、と教示された。
つまり、弘安以降の御本尊から、文上の釈尊に関係する十方分身・善徳仏を除くことにより、文上教相よりも深い文底観心の義による、法界一切の諸仏はことごとく南無妙法蓮華経日蓮の御当体に摂せられるのである。
次に、弘安二年二月の日目上人授与の御本尊以降には、それ以前には表示されていなかった提婆達多が示されている。
当該御本尊の直前までには、他の九界の御表示はあるものの、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。
ということは、地獄界のみを御本尊の光明・功徳からあえて外されている、と拝され、これは一往、文上の義において、しばらく除かれたと拝する。
そして、弘安二年二月以降における提婆達多の上から十界の聖衆を整足され、地獄界の提婆達多に代表される極悪の衆生をも摂し救うところの、真実の十界互具・一念三千の妙法を顕わされた御意、と拝される。
以上、御歴代聖人の御指南を仰ぎ、御本尊の御相猊から拝される、大聖人の大曼荼羅御本尊の御化導における究竟への変遷(へんせん)について述べてきた。
大聖人は弘安元年以降、本仏たる南無妙法蓮華経の首題の直下に、御名・御花押を重ねて一体に大書され、かつ御花押を重ねて一体に大書され、かつ御花押を更改されて、南無妙法蓮華経日蓮という本仏の御内証を示された。
また、文上の義から示されたと拝される、十方分身諸仏と善徳仏を除かれ、さらには弘安二年二月以降、法華経の会座に連なっていない地獄界の代表である提婆達多を文底の意義より示して、十界の聖衆を整足された。
このように、大聖人の大慈大悲による末法衆生即身成仏の対境たる大曼荼羅の体相が整足されたことが、出生の本懐を顕示される内的要因と拝されるのである。
そして、この弘安元年、二年の、御内証の究竟を顕示される時期に熱原法難が惹起(じゃっき)したのであり、前回も述べたように、日興上人等の御教導による熱原信徒の信行は、大聖人に続く不自惜身命の実践を示したのである。
すなわち、釈尊の出生の本懐たる法華経中、在世の衆生を成仏せしめた寿量品を説示される際、釈尊は、滅後における法華弘通を勧奨(かんしょう)し、滅後末法の法華弘通を誓願した八恒河沙に過ぎたる菩薩を制止して、地涌の菩薩を湧出させて一会の大衆を動執生疑せしめた後に、寿量品を信解する機が熟したことをもって、広開近顕遠の説法をなされた。
対して末法の大聖人の下種仏法の化導は、三大秘法建立のために「大難四箇度、少難無数」の忍難弘通の化導を示されたが、本仏大聖人の身軽法重・死身弘法の御化導だけでは末法万年にわたる御法体は成就せず、本仏大聖人と同じく所化の弟子檀那等も不自惜身命の信行に徹してこそ、事の一念三千が弘通の上に成就するもの、と拝されるのである。そして、建治年間おりの富士方面の大聖人門下に対する迫害にも負けず、弘安元年に入信し、公権力にも怖れず、法華信仰を貫かれた熱原信徒が示した不自惜身命の信心こそ、末法万年の衆生救済の戒壇の大御本尊建立の機運となる意義があり、大聖人はまさに時至れりと、冥鑑(みょうかん)あそばされたものと拝される。
このような熱原農民信徒の身軽法重・死身弘法の信行を鑑(かんが)みられ、本懐成就の時の到来を感じられた大聖人は、すでに内因たる大曼荼羅本尊の御化導・御内証が究竟の域に達していたこともあり、熱原法難を外縁として、ついに弘安二年十月十二日に出生の本懐たる本門戒壇の大御本尊を造立なされたのである。弘安二年に本懐を顕わされたことの実証が、まさにここに存するのである。大梵氏(身延の僧侶)は、熱原法難と本門戒壇の大御本尊は「無関係」というが、まったくもって幼稚な 戯論(けろん)に過ぎないと断じておくものである。
(慧妙 平成三十一年一月一日号)
今回は、内的要因である、大聖人の大曼荼羅御本尊の御化導が次第に究竟されていくことを拝し。その内的要因と外的要因とが合致して出生の本懐が成就されたことを拝して、熱原法難と大御本尊御図顕を「無関係」と非難する大梵氏(身延の僧侶)を破折したい。
ただし、御本尊の権能は御法主上人御一人に在(ましま)す故、御本尊の御相猊(そうみょう)については、御歴代上人の御指南(御書文段 一九六頁~・三大秘法義三四三頁~)を仰いで拝することを、付記しておく。
さて、文永八年九月十二日、龍ノ口の頸(くび)の座にて発迹顕本なされて久遠元初の本仏の御内証を開顕された大聖人は、佐渡へお発ちになる前日(文永八年十月九日)に、その御内証をもって依智(現在の厚木市)で初めて一閻浮提の内に未曾有(みぞう)の大曼荼羅御本尊を図顕された。
この大曼荼羅御本尊は、『経王殿御返事』に
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(中略)経王御前にはわざはひも転じて幸(さいわ)ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ」(御書六八五頁)
と仰せの如く、大聖人の御当体である。
また、『阿仏房御書』に、
「あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ。子にあらずんばゆづ(譲)る事なかれ。信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ。出世の本懐とはこれなり」(御書七九三頁)
と教示されるごとく、大聖人の出生の本懐とは大曼荼羅本尊の図顕にある、と拝されるのである。
では、大聖人の御本尊であれば全て等しく出生の本懐なのかというと、それは違う。
前回も述べたように、『聖人御難事』には、大聖人の出生の本懐は弘安二年十月に遂げられる、と宣言されている。
すなわち、本懐の中の本懐ともいうべき御本尊が、弘安二年十月付近に顕わされるもの、と拝するのである。
またそのことは、御本尊の当相が次第に加徐・変更等がなされて、整足されることからも拝される。
特に、弘安元年以降の御本尊を拝すると、釈迦仏法の法勝人劣に対する下種仏法の人法一体の意が拝され、三世十方の諸仏を包摂(ほうせつ)
する本仏としてのお立場から、提婆達多を含む真実の十界互具の即身成仏を示されるところに、大曼荼羅本尊の御化導が究竟の域に達せられていることが拝されるのである。
これが内的要因であるが、さらに拝していきたい(なお、仏滅讃文中の二十余年と三十余年の相違については、昨年六月一日号の小欄でも拝したこともあり、詳細はそれに譲りたい)。
まず、大聖人御一期(いちご)の御本尊の相猊を拝すると、御名と御花押の位置に変化が拝せられる。
文永八年の依智における最初の御本尊は、御名と御花押が上下に配され、その後の御本尊は、御名と御花押が著しく左右に距(へだ)たっている。ところが、建治元年十月以降、御名と御花押が接近するようになり、建治二年二月の御本尊(釈日与授与)に至り重なってくる。
それ以降例がはあるものの、御名と御花押の位置が首題の直下か、または、それを受けた形に拝されるようになり、それが弘安期には、ほとんど首題直下の様式となる。
これは御本尊の中心が首題の左右に列座する釈迦・多宝等ではなく、まさに南無妙法蓮華経を所持あそばす日蓮大聖人であり、釈迦・多宝・上行等の一切の諸仏菩薩等は、ことごとく大聖人の当体に含まれるとの表示、と拝されるのである。
また、御花押についても、弘安元年七月五日の御本尊以降において変更されており、明らかにそれ以前の御花押の形と相違(特に初筆部分)が拝される。
次に、文永より建治年間にかけての御本尊に示された、善徳仏と十方分身(ふんじん)諸仏が、弘安以降に全く削除されるという、明確な変化が拝される。
建治三年十一月までの御本尊には、ほとんど善徳仏・十方分身が示されていた(分身だけの御本尊もある)が、弘安元年三月十六日の御本尊以降の御本尊には、善徳等の諸仏が削除されているのである。
この十方分身・善徳仏の御表示について、日寛上人は
「問う、文永・健治の御本尊を究尽(くじん)するや。答う、文永・健治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。此れに相伝有り。或は仍(なお)文上を帯するか云云」(文段一九六頁)
と、御相伝があるとされた上で、文永・健治の御本尊はいまだ文上の方便の意を帯する故に、と教示された。
つまり、弘安以降の御本尊から、文上の釈尊に関係する十方分身・善徳仏を除くことにより、文上教相よりも深い文底観心の義による、法界一切の諸仏はことごとく南無妙法蓮華経日蓮の御当体に摂せられるのである。
次に、弘安二年二月の日目上人授与の御本尊以降には、それ以前には表示されていなかった提婆達多が示されている。
当該御本尊の直前までには、他の九界の御表示はあるものの、地獄界を示す提婆達多を挙げられていない。
ということは、地獄界のみを御本尊の光明・功徳からあえて外されている、と拝され、これは一往、文上の義において、しばらく除かれたと拝する。
そして、弘安二年二月以降における提婆達多の上から十界の聖衆を整足され、地獄界の提婆達多に代表される極悪の衆生をも摂し救うところの、真実の十界互具・一念三千の妙法を顕わされた御意、と拝される。
以上、御歴代聖人の御指南を仰ぎ、御本尊の御相猊から拝される、大聖人の大曼荼羅御本尊の御化導における究竟への変遷(へんせん)について述べてきた。
大聖人は弘安元年以降、本仏たる南無妙法蓮華経の首題の直下に、御名・御花押を重ねて一体に大書され、かつ御花押を重ねて一体に大書され、かつ御花押を更改されて、南無妙法蓮華経日蓮という本仏の御内証を示された。
また、文上の義から示されたと拝される、十方分身諸仏と善徳仏を除かれ、さらには弘安二年二月以降、法華経の会座に連なっていない地獄界の代表である提婆達多を文底の意義より示して、十界の聖衆を整足された。
このように、大聖人の大慈大悲による末法衆生即身成仏の対境たる大曼荼羅の体相が整足されたことが、出生の本懐を顕示される内的要因と拝されるのである。
そして、この弘安元年、二年の、御内証の究竟を顕示される時期に熱原法難が惹起(じゃっき)したのであり、前回も述べたように、日興上人等の御教導による熱原信徒の信行は、大聖人に続く不自惜身命の実践を示したのである。
すなわち、釈尊の出生の本懐たる法華経中、在世の衆生を成仏せしめた寿量品を説示される際、釈尊は、滅後における法華弘通を勧奨(かんしょう)し、滅後末法の法華弘通を誓願した八恒河沙に過ぎたる菩薩を制止して、地涌の菩薩を湧出させて一会の大衆を動執生疑せしめた後に、寿量品を信解する機が熟したことをもって、広開近顕遠の説法をなされた。
対して末法の大聖人の下種仏法の化導は、三大秘法建立のために「大難四箇度、少難無数」の忍難弘通の化導を示されたが、本仏大聖人の身軽法重・死身弘法の御化導だけでは末法万年にわたる御法体は成就せず、本仏大聖人と同じく所化の弟子檀那等も不自惜身命の信行に徹してこそ、事の一念三千が弘通の上に成就するもの、と拝されるのである。そして、建治年間おりの富士方面の大聖人門下に対する迫害にも負けず、弘安元年に入信し、公権力にも怖れず、法華信仰を貫かれた熱原信徒が示した不自惜身命の信心こそ、末法万年の衆生救済の戒壇の大御本尊建立の機運となる意義があり、大聖人はまさに時至れりと、冥鑑(みょうかん)あそばされたものと拝される。
このような熱原農民信徒の身軽法重・死身弘法の信行を鑑(かんが)みられ、本懐成就の時の到来を感じられた大聖人は、すでに内因たる大曼荼羅本尊の御化導・御内証が究竟の域に達していたこともあり、熱原法難を外縁として、ついに弘安二年十月十二日に出生の本懐たる本門戒壇の大御本尊を造立なされたのである。弘安二年に本懐を顕わされたことの実証が、まさにここに存するのである。大梵氏(身延の僧侶)は、熱原法難と本門戒壇の大御本尊は「無関係」というが、まったくもって幼稚な 戯論(けろん)に過ぎないと断じておくものである。
(慧妙 平成三十一年一月一日号)