怪(あや)しげな立教の根拠と現実逃避(げんじつとうひ)の「陽気ぐらし」
崇神・教団の名すら都合で変える御都合主義
御都合主義(ごつごうしゅぎ)が際立(きわだ)つ教団
天理教では、教団が成立した立教の日を天保九年(一八三八年)十月二十六日と定めている。
この立教については、教祖である中山みきが「神の社(やしろ)」に定まる、という出来事に起因している、とされる。
立教の根拠となる啓示(けいじ)は後世のこじつけ
中山みきは、寛政十年(一七九八年)四月十八日大和国山辺郡三昧田(さんまいでん)村(現奈良県天理市三昧田町)の前川家の長女として生まれた。 十三歳のとき、庄屋敷村(現同市三島町)の中山善兵衛に嫁ぎ十九歳で浄土宗の菩提寺より相伝を受け、戒名を授けられた。
天保九年、みきが四十一歳の時、立教の日に先立つ十月二十三日、みきの長男・秀司が足の病にかかり、修験者が中山家に呼ばれて祈祷(きとう)が行なわれた。その際に、みきが神懸かりになった様子が、教団公認の教祖伝である『稿本天理教教祖伝』に、次のように記されている。
神が降(くだ)る巫女(みこ) の代理をみきがつとめたところ、 「元の神、実の神(親神)」と名乗る神が降り、みきを「神の社」としてもらい受けたい、と言い出した。そして、この申し出を受け入れるなら、世界中の人間を救うが、拒むなら中山家を破滅させるという。家族が申し出を拒むと、みき自身が苦しみだした。そこで、みきの夫・善兵衛が、二十六日に、みきを「神の社」として差し上げると返答し、それでみきの苦しみもおさまった。
(趣意)
要するに、「神の社」とは、みきが神そのものになったという意味で、これをもって天理教が成立した日とするのである。
実は立教の根拠が示された『稿本天理教教祖伝』という書は、立教開宗の年より四十三年後の一八八一年(明治十四年)になってから登場する書物であり、そのことからして、立教の出来事自体が、後に創作された可能性が高く、信用に足るものではない。
また、立教のきっかけとなったみきの神懸かりは、精神的に異常をきたした状態で起きたものであり、ベつに神のお告げや悟りがあるわけでない。新興宗教を立ち上げた教祖に神懸かりが多いのも、精神に異常をきたした末の現象である。
現実逃避の陽気ぐらし
みきの神懸かり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物に困るほどであった。教団ではその原因を、「貧におちきれ」との神の命令にしたがい、みきが全財産を貧しい人に施したことによるとし、みきの行動は、どのような境遇でも心の持ち方一つで〝陽気ぐらし"ができる、という手本(ひながた)である、とした。
陽気ぐらしとは、「毎日陽気に暮らす」という意味で、全人類が楽しく陽気に暮らしていける生き方を指す。しかし、みきが、貧乏のどん底にあるのを神のお告げによるものとして、その苦悩を打開できずにいる姿は、現実逃避に過ぎず、真の幸福などではない。
そもそも、人間の心の持ちようで幸せになれる、などという浅はかな教えでは、人を救えるわけがないのである。
しかも、信者には教団への寄付督励して、金集めをしている、という自家撞着(じかどうちゃく)に陥(おちい)っている。
いかがわしい「をびや許し」
嘉永七年(一八五四年)、みきが五十七歳のとき、お産のために里帰りした三女・はるに「びや許し」という安産の祈祷を初めて行なった。これにより無事に出産できたと宣伝し、みきは周辺地域で妊婦をお産の苦しみから救う「お産の神様」として知られるようになり、次第に「をびや神様」と称されるようになった。みきの安産祈願である「をびや許し」のやり方は、妊婦の腹に三度息を吹きかけ、三度腹をなでるというもので、宗教的にも、医学的にも根拠のない、いかがわしい呪(まじな)いであった。
みきの意志に背(そむ)く教団改名
明治十三年九月、教団は明治政府による取り締りを逃れるため、仏教宗派を偽装して「転輪王講社」を設立するが、結局、みきら関係者は官憲に摘発され、みきの逮捕・拘留は十数回に及んだ。 そして、明治二十年旧一月十六日、みきは九十歳で死去した。
みきの死後、教団は独立許可を得るために、明治政府の意向に従って神道色の濃い教団に変身し、「天理」が「転輪」と語呂が合うことから、明治二十一年から「神道天理教会(天理教)」と名乗るようになる。
しかし、教祖・中山みきが親神としていたのは「転輪王」であって、それを死後、勝手に「天理王」に変更し、それに合わせて教団名も変えてしまった。したがって、みきの死後の天理教は、教祖・みきの意に背(そむ)いており、いわば教祖・みきとは無関係の宗団に変貌してしまったと言える。
ともあれ、信仰の根本であるはずの親神の名称が、信徒側の都合で変更されてしまう、とは何ともお粗末な話である。
以上、教祖・中山みきの生い立ちをもとに天理教の実態を挙げ、破折を加えてきた。
結局、神懸かりになったみきの妄想からくる狂言に教団信徒は振り回され、現実逃避の「陽気ぐらし」 や、いかがわしい「びや許し」などを信じ込まされてきた。さらに、教団の都合で神の名や教団名が変更されている実態を見れば、天理教が荒唐無稽(こうとうむけい)な宗派であることは明白である。
このような低級で邪悪な教団を信仰していれば、いずれ「陽気ぐらし」とはほど遠い、苦悩に満ちた人生を歩むことになってしまうことを、会員たちは知るべきである。
(慧妙 令和四年六月一日)
崇神・教団の名すら都合で変える御都合主義
御都合主義(ごつごうしゅぎ)が際立(きわだ)つ教団
天理教では、教団が成立した立教の日を天保九年(一八三八年)十月二十六日と定めている。
この立教については、教祖である中山みきが「神の社(やしろ)」に定まる、という出来事に起因している、とされる。
立教の根拠となる啓示(けいじ)は後世のこじつけ
中山みきは、寛政十年(一七九八年)四月十八日大和国山辺郡三昧田(さんまいでん)村(現奈良県天理市三昧田町)の前川家の長女として生まれた。 十三歳のとき、庄屋敷村(現同市三島町)の中山善兵衛に嫁ぎ十九歳で浄土宗の菩提寺より相伝を受け、戒名を授けられた。
天保九年、みきが四十一歳の時、立教の日に先立つ十月二十三日、みきの長男・秀司が足の病にかかり、修験者が中山家に呼ばれて祈祷(きとう)が行なわれた。その際に、みきが神懸かりになった様子が、教団公認の教祖伝である『稿本天理教教祖伝』に、次のように記されている。
神が降(くだ)る巫女(みこ) の代理をみきがつとめたところ、 「元の神、実の神(親神)」と名乗る神が降り、みきを「神の社」としてもらい受けたい、と言い出した。そして、この申し出を受け入れるなら、世界中の人間を救うが、拒むなら中山家を破滅させるという。家族が申し出を拒むと、みき自身が苦しみだした。そこで、みきの夫・善兵衛が、二十六日に、みきを「神の社」として差し上げると返答し、それでみきの苦しみもおさまった。
(趣意)
要するに、「神の社」とは、みきが神そのものになったという意味で、これをもって天理教が成立した日とするのである。
実は立教の根拠が示された『稿本天理教教祖伝』という書は、立教開宗の年より四十三年後の一八八一年(明治十四年)になってから登場する書物であり、そのことからして、立教の出来事自体が、後に創作された可能性が高く、信用に足るものではない。
また、立教のきっかけとなったみきの神懸かりは、精神的に異常をきたした状態で起きたものであり、ベつに神のお告げや悟りがあるわけでない。新興宗教を立ち上げた教祖に神懸かりが多いのも、精神に異常をきたした末の現象である。
現実逃避の陽気ぐらし
みきの神懸かり以後、中山家は没落しはじめ、その日の食べ物に困るほどであった。教団ではその原因を、「貧におちきれ」との神の命令にしたがい、みきが全財産を貧しい人に施したことによるとし、みきの行動は、どのような境遇でも心の持ち方一つで〝陽気ぐらし"ができる、という手本(ひながた)である、とした。
陽気ぐらしとは、「毎日陽気に暮らす」という意味で、全人類が楽しく陽気に暮らしていける生き方を指す。しかし、みきが、貧乏のどん底にあるのを神のお告げによるものとして、その苦悩を打開できずにいる姿は、現実逃避に過ぎず、真の幸福などではない。
そもそも、人間の心の持ちようで幸せになれる、などという浅はかな教えでは、人を救えるわけがないのである。
しかも、信者には教団への寄付督励して、金集めをしている、という自家撞着(じかどうちゃく)に陥(おちい)っている。
いかがわしい「をびや許し」
嘉永七年(一八五四年)、みきが五十七歳のとき、お産のために里帰りした三女・はるに「びや許し」という安産の祈祷を初めて行なった。これにより無事に出産できたと宣伝し、みきは周辺地域で妊婦をお産の苦しみから救う「お産の神様」として知られるようになり、次第に「をびや神様」と称されるようになった。みきの安産祈願である「をびや許し」のやり方は、妊婦の腹に三度息を吹きかけ、三度腹をなでるというもので、宗教的にも、医学的にも根拠のない、いかがわしい呪(まじな)いであった。
みきの意志に背(そむ)く教団改名
明治十三年九月、教団は明治政府による取り締りを逃れるため、仏教宗派を偽装して「転輪王講社」を設立するが、結局、みきら関係者は官憲に摘発され、みきの逮捕・拘留は十数回に及んだ。 そして、明治二十年旧一月十六日、みきは九十歳で死去した。
みきの死後、教団は独立許可を得るために、明治政府の意向に従って神道色の濃い教団に変身し、「天理」が「転輪」と語呂が合うことから、明治二十一年から「神道天理教会(天理教)」と名乗るようになる。
しかし、教祖・中山みきが親神としていたのは「転輪王」であって、それを死後、勝手に「天理王」に変更し、それに合わせて教団名も変えてしまった。したがって、みきの死後の天理教は、教祖・みきの意に背(そむ)いており、いわば教祖・みきとは無関係の宗団に変貌してしまったと言える。
ともあれ、信仰の根本であるはずの親神の名称が、信徒側の都合で変更されてしまう、とは何ともお粗末な話である。
以上、教祖・中山みきの生い立ちをもとに天理教の実態を挙げ、破折を加えてきた。
結局、神懸かりになったみきの妄想からくる狂言に教団信徒は振り回され、現実逃避の「陽気ぐらし」 や、いかがわしい「びや許し」などを信じ込まされてきた。さらに、教団の都合で神の名や教団名が変更されている実態を見れば、天理教が荒唐無稽(こうとうむけい)な宗派であることは明白である。
このような低級で邪悪な教団を信仰していれば、いずれ「陽気ぐらし」とはほど遠い、苦悩に満ちた人生を歩むことになってしまうことを、会員たちは知るべきである。
(慧妙 令和四年六月一日)