妙法蓮華経『普賢菩薩勧発品第二十八』には、次のように説かれている。
「是(こ)の経典を受持せん者を見て、その過悪を出(いだ)さん。若(も)しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩(びゃくらい)の病(やまい)を得ん。若し之(これ)を軽笑(きょうしょう)すること有らん者は、当(まさ)に世世(せせ)に、牙歯疎(げしす)き欠け、醜脣平鼻(しゅうしんびょうび)、手脚繚戻(しゅきゃくりょうらい)し、眼目角睞(げんもくかくらい)、身体臭穢(しんたいしゅえ)にして、悪瘡膿血(あくそうのうけつ)、水腹短気(すいふくたんけ)、諸(もろもろ)の悪重病あるべし」(法華経 六〇六㌻)
すさまじい現罰の数々に目を見張るばかりである。
正法を受持信行する者への誹謗中傷は、極めて大きな罪障を積む、これは、「実にもあれ」、たとえ事実でも容赦されないし、まして「不実」、事実でないなら、その罪障はより大きい。
「是の経典」は三大秘法
宗祖日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(御書 一五九五㌻)
と仰せられた。この御指南を拝するならば、冒頭に挙(あ)げた経文に「是の経典」と示されるのは、畢竟(ひっきょう)、三大秘法に他ならない。
その中心は、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊であるから、「是の経典を受持せん者」とは、大御本尊への信行に励む本宗僧俗を指すことは明白である。
正信会僧侶の「研修」
正信会が独自に得度を許可した、本宗とは無関係の者らが、昨年末に「研修」の一環として大石寺へも訪れた(正信会報 一六八号)、
これに参加した者らは、その感想として、
「それ(正本堂)らを壊して立て替えた日顕師の考えが理解しがたい」
(該誌 七㌻)
「本山らしくない」(同 一〇㌻)
「記憶の中の正本堂が壊され奉安堂が建てられているのを見て、感じた思いを言いますと、ただ残念である。の一言」(同 一二㌻)
「現在の日蓮正宗は化義を含めまして法義を失ってしまったことをつぶさに感じました」(同 一五㌻)
等々、大石寺の何を見てそう感じさせたのか全く理解ができないが、実に上っ面だけの、しかも薄っぺらい言葉で、宗門批判の言を並べて立てている。
正本堂は、残念ながら、創価学会の大謗法の淵源(えんげん)となってしまったはずの正本堂であるから、正本堂解体の意義を少しは判っているものと思っていたが、これほど思慮が足らぬとは・・・。
彼らには、正邪の峻別(しゅんべつ)が何も判っていないことが、かえって明白となった。
見果てぬ妄想
とりわけ、
「いつの日にか宗門が正しく立ち返った日には堂々と正信会僧侶として登山すべきである」(同 一二㌻)
と述べるに至っては、実に呆(あき)れたものである。
日蓮大聖人は、血脈付法の日興上人を挙げて、
「背(そむ)く在家出家共(ども)の輩(やから)は非法の衆たるべきなり」(御書 一六七五㌻)
と断じられたが、この意義は、御当代日如上人に背く者にも当たる故に、正信会僧俗も「非法の衆」の類(たぐい)であることは動かない。
そんな彼らが、登山参詣できる日など、永遠に来るはずがない。
広布の根源たる霊場
日寛上人は、
「三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在(あ)り、故に富士山は即(すなわ)ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是なり」(六巻抄 六四㌻)
と御教示され、さらに、
「富士山は是れ広宣流布の根源(中略)根源とは何ぞ、謂(い)わく、本門戒壇の本尊是なり」(同 六八㌻)
とも仰せである。
本門戒壇の大御本尊が存(ましま)す総本山を嘲笑(ちょうしょう)し、的外(まとはず)れな誹謗を並べる正信会の者には、『普賢菩薩勧発品』に説示される現証が現われよう。
一日も早く正信に目覚めるよう、祈るばかりである。
(大白法第一〇〇八号 令和元年七月一日号)
「是(こ)の経典を受持せん者を見て、その過悪を出(いだ)さん。若(も)しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩(びゃくらい)の病(やまい)を得ん。若し之(これ)を軽笑(きょうしょう)すること有らん者は、当(まさ)に世世(せせ)に、牙歯疎(げしす)き欠け、醜脣平鼻(しゅうしんびょうび)、手脚繚戻(しゅきゃくりょうらい)し、眼目角睞(げんもくかくらい)、身体臭穢(しんたいしゅえ)にして、悪瘡膿血(あくそうのうけつ)、水腹短気(すいふくたんけ)、諸(もろもろ)の悪重病あるべし」(法華経 六〇六㌻)
すさまじい現罰の数々に目を見張るばかりである。
正法を受持信行する者への誹謗中傷は、極めて大きな罪障を積む、これは、「実にもあれ」、たとえ事実でも容赦されないし、まして「不実」、事実でないなら、その罪障はより大きい。
「是の経典」は三大秘法
宗祖日蓮大聖人は『三大秘法抄』に、
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(御書 一五九五㌻)
と仰せられた。この御指南を拝するならば、冒頭に挙(あ)げた経文に「是の経典」と示されるのは、畢竟(ひっきょう)、三大秘法に他ならない。
その中心は、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊であるから、「是の経典を受持せん者」とは、大御本尊への信行に励む本宗僧俗を指すことは明白である。
正信会僧侶の「研修」
正信会が独自に得度を許可した、本宗とは無関係の者らが、昨年末に「研修」の一環として大石寺へも訪れた(正信会報 一六八号)、
これに参加した者らは、その感想として、
「それ(正本堂)らを壊して立て替えた日顕師の考えが理解しがたい」
(該誌 七㌻)
「本山らしくない」(同 一〇㌻)
「記憶の中の正本堂が壊され奉安堂が建てられているのを見て、感じた思いを言いますと、ただ残念である。の一言」(同 一二㌻)
「現在の日蓮正宗は化義を含めまして法義を失ってしまったことをつぶさに感じました」(同 一五㌻)
等々、大石寺の何を見てそう感じさせたのか全く理解ができないが、実に上っ面だけの、しかも薄っぺらい言葉で、宗門批判の言を並べて立てている。
正本堂は、残念ながら、創価学会の大謗法の淵源(えんげん)となってしまったはずの正本堂であるから、正本堂解体の意義を少しは判っているものと思っていたが、これほど思慮が足らぬとは・・・。
彼らには、正邪の峻別(しゅんべつ)が何も判っていないことが、かえって明白となった。
見果てぬ妄想
とりわけ、
「いつの日にか宗門が正しく立ち返った日には堂々と正信会僧侶として登山すべきである」(同 一二㌻)
と述べるに至っては、実に呆(あき)れたものである。
日蓮大聖人は、血脈付法の日興上人を挙げて、
「背(そむ)く在家出家共(ども)の輩(やから)は非法の衆たるべきなり」(御書 一六七五㌻)
と断じられたが、この意義は、御当代日如上人に背く者にも当たる故に、正信会僧俗も「非法の衆」の類(たぐい)であることは動かない。
そんな彼らが、登山参詣できる日など、永遠に来るはずがない。
広布の根源たる霊場
日寛上人は、
「三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在(あ)り、故に富士山は即(すなわ)ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是なり」(六巻抄 六四㌻)
と御教示され、さらに、
「富士山は是れ広宣流布の根源(中略)根源とは何ぞ、謂(い)わく、本門戒壇の本尊是なり」(同 六八㌻)
とも仰せである。
本門戒壇の大御本尊が存(ましま)す総本山を嘲笑(ちょうしょう)し、的外(まとはず)れな誹謗を並べる正信会の者には、『普賢菩薩勧発品』に説示される現証が現われよう。
一日も早く正信に目覚めるよう、祈るばかりである。
(大白法第一〇〇八号 令和元年七月一日号)