教祖の目まぐるしい宗教遍歴(へんれき)
社会的名声を誇(ほこ)る姿に辟易(へきえき)
法華経系の新興宗教団体・立正佼成会は、庭野日敬と長沼妙佼によって一九三八年に設立した教団である。
設立当初より、創価学会とは非難合戦を繰り返して対峙(たいじ)し、教団の日敬は、常に池田大作を意識しながら教団の拡大を図ってきた。
それがために、それぞれの出身から、「大森の海苔屋」の池田大作と「中野の漬物屋」の庭野日敬などと比べられ、揶揄(やゆ)されてきた。
日敬が教祖になるまでをみてみよう。
日敬は明治三十九年(一九0六年)十一月十五日、新潟県中魚沼郡十日町の農家に、庭野重吉の次男として生まれ、名を鹿蔵と称した。幼少期に
は、 祖父の重太郎などから神仏を敬(うやま)うことを教わり、 宗教心を養っていた。
邪宗にまみれながら成人した日敬は、昭和六年、東京中野で漬物屋を開店したが、長女が悪性の中耳炎にかかり大手術をしたのをキッカケに、天狗不動尊(真
言系) の加持 (除災の祈祷)を受け、これを機に祈祷師に弟子入りした。
半年後には師範代となり、信者の悩みに答えて人気を集めていたという。 また姓名学を学び、独自の姓名鑑定法も会得したり、水垢離(みずごり) を行なう
など、様々な信仰遍歴を重ねる。
日敬の次のターニングボイントは昭和十年、次女の難病を機に、霊友会に入会したことだ。
当時、霊友会幹部であった新井助信から法華経の講義を受け、「すべての人が悉く救われる。これこそ自分が求めていた教えだ」と思い、そのころ牛乳を商
(あきな)っていた日敬は、配達先の一人であった長沼妙佼を勧誘し、霊友会に入会させた。 病気がちな長沼は次第に霊友会にのめり込んでいき、 以後、二人はコンビを組み、布教活動に精を出すようになる。
だが、わずか三年で二人揃 (そろ)って霊友会を脱会し、 国柱会出身の村山日襄ら約三十人の信者とともに「大日本立正交成会」を創立する。
教団創立と共に庭野は「日敬」に改名した。 当初、会長を務めていた村山日襄が退任した後は日敬が会長に、そして長沼妙佼が副会長に就任して、教団を率
(ひき)いるようになる。
昭和二十三年に 「立正交成会」、さらに昭和三十五年には「立正佼成会」と改称して現在に至る(この年は、奇しくも池田大作が創価学会第三代会長に就任した年であった)。
以上が立正佼成会設立までの略歴であるが、お分かりのように、日敬は、幼い頃から邪宗に触れて謗法の害毒を被(こうむ)りつつ事あるごとに新たな邪宗教に鞍(くら)替えしている。
自らが熱心に信仰している宗派が不幸の根本原因とも知らずに、邪宗教を渡り歩き、最終的には佼成会の教祖へと成り上がったのである。
さて、日敬が教団創立当初から池田大作と張り合ってきたことは冒頭でふれたが、それは、日敬の以下のような活動からも垣間見ることができる。(教団のHPより)
「人を救い、世を建て直す」。その願いと使命感を胸に、以来、一心に法華経に帰依し、慈悲の実践に徹しました。 また「真の平和は宗教心の涵養(かんよう)による以外にはない」との信念から、「国民皆信仰」、「明るい社会づくり運動」を提唱すると共に、世界の平和境建設をめざして宗教者同士が手を携(たずさ) える必要性を訴え、国内外で積極的に宗教協力活動を展開。 WCRP(世界宗教者平和会議)やACRP (アジア宗教者平和会議)の創設・運営に力を尽くしました》と、法華経の慈悲行の実践などという建前のもと、世界平和活動に精を出し、その成果として「宗教界のノーベル賞」といわれるテンプルトン賞の日本人初の受賞をはじめ、アルバート・シュバイツァー博士の生誕百年を記念して創設された「ユニクェスト・シュバイツァー賞」、ローマ教皇庁の「大聖グレゴリウス勲章」、キリスト教・ユダヤ教国際協議会の「インターフェイス・メタリオン (宗教対話促進賞)」など、数多くの賞を受けたことを、大々的に宣伝している。
日敬もまた、池田大作と同じく勲章・名誉称号を求め、その収集に没頭していたようだ。
仏法では、食(むさぼ)る行為を煩悩の三毒の一つに挙げて餓鬼道の要因としているが、欲得に溺(おぼ)れた日敬は、まさに餓鬼道の境涯に堕ちたる衆生であった。
大聖人は
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」
(御書五七七頁)
と仰せられ、正法に背 (そむ)く謗法者からの賛嘆を、最大の恥であると戒められているが、日敬にはそのような精神が寸分もなかった、といえよう。
そもそも法華経の精神は、
「法華折伏・破権門理」
と言われるように、法華経以外の邪法の存立を許さず、その非を責めて正法に帰伏せしめることにある。
ゆえに、日敬が「宗教者同士が手を携える必要性」を訴え、法華経に背く宗教とも共存しようとすること自体が、すでに法華経の精神に違背する行為であると知らなければならない。
(慧妙 令和二年十一月一日)
社会的名声を誇(ほこ)る姿に辟易(へきえき)
法華経系の新興宗教団体・立正佼成会は、庭野日敬と長沼妙佼によって一九三八年に設立した教団である。
設立当初より、創価学会とは非難合戦を繰り返して対峙(たいじ)し、教団の日敬は、常に池田大作を意識しながら教団の拡大を図ってきた。
それがために、それぞれの出身から、「大森の海苔屋」の池田大作と「中野の漬物屋」の庭野日敬などと比べられ、揶揄(やゆ)されてきた。
日敬が教祖になるまでをみてみよう。
日敬は明治三十九年(一九0六年)十一月十五日、新潟県中魚沼郡十日町の農家に、庭野重吉の次男として生まれ、名を鹿蔵と称した。幼少期に
は、 祖父の重太郎などから神仏を敬(うやま)うことを教わり、 宗教心を養っていた。
邪宗にまみれながら成人した日敬は、昭和六年、東京中野で漬物屋を開店したが、長女が悪性の中耳炎にかかり大手術をしたのをキッカケに、天狗不動尊(真
言系) の加持 (除災の祈祷)を受け、これを機に祈祷師に弟子入りした。
半年後には師範代となり、信者の悩みに答えて人気を集めていたという。 また姓名学を学び、独自の姓名鑑定法も会得したり、水垢離(みずごり) を行なう
など、様々な信仰遍歴を重ねる。
日敬の次のターニングボイントは昭和十年、次女の難病を機に、霊友会に入会したことだ。
当時、霊友会幹部であった新井助信から法華経の講義を受け、「すべての人が悉く救われる。これこそ自分が求めていた教えだ」と思い、そのころ牛乳を商
(あきな)っていた日敬は、配達先の一人であった長沼妙佼を勧誘し、霊友会に入会させた。 病気がちな長沼は次第に霊友会にのめり込んでいき、 以後、二人はコンビを組み、布教活動に精を出すようになる。
だが、わずか三年で二人揃 (そろ)って霊友会を脱会し、 国柱会出身の村山日襄ら約三十人の信者とともに「大日本立正交成会」を創立する。
教団創立と共に庭野は「日敬」に改名した。 当初、会長を務めていた村山日襄が退任した後は日敬が会長に、そして長沼妙佼が副会長に就任して、教団を率
(ひき)いるようになる。
昭和二十三年に 「立正交成会」、さらに昭和三十五年には「立正佼成会」と改称して現在に至る(この年は、奇しくも池田大作が創価学会第三代会長に就任した年であった)。
以上が立正佼成会設立までの略歴であるが、お分かりのように、日敬は、幼い頃から邪宗に触れて謗法の害毒を被(こうむ)りつつ事あるごとに新たな邪宗教に鞍(くら)替えしている。
自らが熱心に信仰している宗派が不幸の根本原因とも知らずに、邪宗教を渡り歩き、最終的には佼成会の教祖へと成り上がったのである。
さて、日敬が教団創立当初から池田大作と張り合ってきたことは冒頭でふれたが、それは、日敬の以下のような活動からも垣間見ることができる。(教団のHPより)
「人を救い、世を建て直す」。その願いと使命感を胸に、以来、一心に法華経に帰依し、慈悲の実践に徹しました。 また「真の平和は宗教心の涵養(かんよう)による以外にはない」との信念から、「国民皆信仰」、「明るい社会づくり運動」を提唱すると共に、世界の平和境建設をめざして宗教者同士が手を携(たずさ) える必要性を訴え、国内外で積極的に宗教協力活動を展開。 WCRP(世界宗教者平和会議)やACRP (アジア宗教者平和会議)の創設・運営に力を尽くしました》と、法華経の慈悲行の実践などという建前のもと、世界平和活動に精を出し、その成果として「宗教界のノーベル賞」といわれるテンプルトン賞の日本人初の受賞をはじめ、アルバート・シュバイツァー博士の生誕百年を記念して創設された「ユニクェスト・シュバイツァー賞」、ローマ教皇庁の「大聖グレゴリウス勲章」、キリスト教・ユダヤ教国際協議会の「インターフェイス・メタリオン (宗教対話促進賞)」など、数多くの賞を受けたことを、大々的に宣伝している。
日敬もまた、池田大作と同じく勲章・名誉称号を求め、その収集に没頭していたようだ。
仏法では、食(むさぼ)る行為を煩悩の三毒の一つに挙げて餓鬼道の要因としているが、欲得に溺(おぼ)れた日敬は、まさに餓鬼道の境涯に堕ちたる衆生であった。
大聖人は
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」
(御書五七七頁)
と仰せられ、正法に背 (そむ)く謗法者からの賛嘆を、最大の恥であると戒められているが、日敬にはそのような精神が寸分もなかった、といえよう。
そもそも法華経の精神は、
「法華折伏・破権門理」
と言われるように、法華経以外の邪法の存立を許さず、その非を責めて正法に帰伏せしめることにある。
ゆえに、日敬が「宗教者同士が手を携える必要性」を訴え、法華経に背く宗教とも共存しようとすること自体が、すでに法華経の精神に違背する行為であると知らなければならない。
(慧妙 令和二年十一月一日)