前回において、牧口常三郎氏、戸田城聖氏、さらには池田大作も、本門戒壇の大御本尊を中心とする信仰をしていたことを示した。
今回は、どのような過程で大事な本尊観が変遷(へんせん)していったかを見てみることにする。
本尊観の変遷は、池田が会長に就任し、権力が安定してから起こっているが、特に今回は、破門後から見てみる。
池田は
「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」
(『聖教新聞』平成五年九月十九日付 三面)
と、破門後の初期段階では、本門戒壇の大御本尊が中心であると指導している。しかし、また本尊に関して、
「宗祖日蓮大聖人が、『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』と言われたのである。信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊がなんだ。寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です。一応の。機械です、幸福製造機だもの。」
(平成五年九月七日・本部幹部会での発言テープ)
と発言し、御本尊を物体と称した。
ここで日付に注目してみると、先の『聖教』に載(の)った指導は九月十六日であり、物体であるとの発言をしたのは九月七日である。
このように、言っていることが変わっている様(さま)は、まさに頭破作七分であり、宗門に敵対し純粋な信仰をすることができなくなった末の姿である。
この時期、学会では、日寛上人の御本尊を利用したコピー曼荼羅を大量に制作する。当時の秋谷会長は、
「このたび、学会から授与される御本尊は、大聖人直結、大御本尊根本の信心教学を確立された第二十六世日寛上人御書写の御本尊であります」
(『聖教新聞』平成五年九月八日付三面)
と発表している。ここでは、あくまでも大御本尊を中心とする、と述べている。
だが、平成十六年には勤行を「方便・自我偈」だけの方式に改変し、その際に祈念文を新たに制定した。
祈念文では、従来の二座の観念文を 「一闇浮提総与・三大秘法の御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と変更し、少しずつ本門戒壇の大御本尊ということを薄めにかかった。
そして、極めつけが「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います」
(『聖教新聞』平成二十六年十一月八日付三面)
の規則改正である。
ここにおいて、完全に本門戒壇の大御本尊を信仰における受持の対象としない、と発表した。じつに、破門以来二十年以上をかけて、本尊観を変えてきたのである。ここにおいて、学会は本門戒壇の大御本尊を中心としてきた歴代会長の指導を切り捨て、独自の本尊観を立てる団体となった。
それから数年が経(た)つが、学会の本尊制定に関しては、さらに不明瞭となってきている。つまり、よく分からない状態のままである。
まさにここまできた創価学会である。
(慧妙 令和三年二月一日号)
今回は、どのような過程で大事な本尊観が変遷(へんせん)していったかを見てみることにする。
本尊観の変遷は、池田が会長に就任し、権力が安定してから起こっているが、特に今回は、破門後から見てみる。
池田は
「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」
(『聖教新聞』平成五年九月十九日付 三面)
と、破門後の初期段階では、本門戒壇の大御本尊が中心であると指導している。しかし、また本尊に関して、
「宗祖日蓮大聖人が、『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』と言われたのである。信心の二字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊がなんだ。寛尊は『信心の中にしか本尊はない』と。ただの物です。一応の。機械です、幸福製造機だもの。」
(平成五年九月七日・本部幹部会での発言テープ)
と発言し、御本尊を物体と称した。
ここで日付に注目してみると、先の『聖教』に載(の)った指導は九月十六日であり、物体であるとの発言をしたのは九月七日である。
このように、言っていることが変わっている様(さま)は、まさに頭破作七分であり、宗門に敵対し純粋な信仰をすることができなくなった末の姿である。
この時期、学会では、日寛上人の御本尊を利用したコピー曼荼羅を大量に制作する。当時の秋谷会長は、
「このたび、学会から授与される御本尊は、大聖人直結、大御本尊根本の信心教学を確立された第二十六世日寛上人御書写の御本尊であります」
(『聖教新聞』平成五年九月八日付三面)
と発表している。ここでは、あくまでも大御本尊を中心とする、と述べている。
だが、平成十六年には勤行を「方便・自我偈」だけの方式に改変し、その際に祈念文を新たに制定した。
祈念文では、従来の二座の観念文を 「一闇浮提総与・三大秘法の御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と変更し、少しずつ本門戒壇の大御本尊ということを薄めにかかった。
そして、極めつけが「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います」
(『聖教新聞』平成二十六年十一月八日付三面)
の規則改正である。
ここにおいて、完全に本門戒壇の大御本尊を信仰における受持の対象としない、と発表した。じつに、破門以来二十年以上をかけて、本尊観を変えてきたのである。ここにおいて、学会は本門戒壇の大御本尊を中心としてきた歴代会長の指導を切り捨て、独自の本尊観を立てる団体となった。
それから数年が経(た)つが、学会の本尊制定に関しては、さらに不明瞭となってきている。つまり、よく分からない状態のままである。
まさにここまできた創価学会である。
(慧妙 令和三年二月一日号)
二座の観念文から「本門戒壇の大御本尊」の文言が消えた学会版経本。創価学会の本尊観の変節は、観念文を変えた平成16年頃から顕著になった。