大御本尊と唯授一人(ゆいじゅいちにん)血脈は一体不二
御法主上人に背(そむ)く浅井は一闡提人(いっせんだいにん)
顕正会の機関紙『顕正新聞』(十月五日号)では、九月二十五日に、さいたま市文化センターで行った九月度総幹部会について報道している。
その中で、会長・浅井昭衛は、「本門戒壇の大御本尊こそ、まさしく日蓮大聖人の出生の本懐であり、一切衆生の根源の法であられる」
「池田大作のたばかりにより、この大御本尊を捨て奉った学会員は、必ず『入阿鼻獄』となる。
何とも不憫(ふびん)である。私は八百万学会員を救いたい」「遥拝勤行とは、末法の三毒強盛の凡夫を、戒壇の大御本尊に繋(つな)ぎまいらせる秘術である」
などと言っている。相も変わらぬ、狭く偏(かたよ)った我執と、旺盛な自己顕示欲で己義を構え、優宗護法の士を気取っているのである。
そして、巧みに日蓮正宗の教義を盗んで大石寺を騙(かた)り、会員らを扇動する。浅井の教学は独自性に乏しいが、本宗教学に似せて人々を惑(まど)わすから、返って罪が深い。
こうした浅井の本性を知る者から見れば、その厚顔無恥は、ただ呆(あき)れるばかりである。
しかし、浅井のたばかりに踊らされる顕正会員のため、今回は日蓮正宗の信仰の基本を確認し、その誤りの一端を示そう。
日蓮正宗の教義信仰の根幹は、本門戒壇の大御本尊本門と唯授一人の法体血脈である。
まず、本門戒壇の大御本尊は、究竟中の究竟、一閻浮提総与の三大秘法総在の本尊ともいう。
日蓮大聖人は、末法の一切衆生に即身成仏の大利益を得せしめんがため、弘安二年十月十二日、一期御化導の本懐、唯一総要の尊体として、この大御本尊を御図顕あそばされたのである。そして、
『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す』(御書 一八八三㌻)
との仰せのごとく、日興上人以来の御歴代上人が、この大御本尊の法体を血脈相承され、今日、総本山大石寺の奉安堂に厳護されているのである。
日蓮正宗の僧俗は、無始已来の謗法罪障消滅のため、師弟の筋目を守り、日蓮正宗宗門が定める手続きを経(へ)て、特別に本門戒壇の大御本尊への御開扉が許される。
本宗の僧俗において、根源の御本尊を内拝し奉り、想像もつかない大利益を受けた体験は、数え切れないのである。
しかるに、創価学会は平成二十六年十一月八日付の『聖教新聞』で、会則の変更を発表し、会長・原田稔が「弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と、大御本尊への信仰を放棄を宣言した。大聖人の出世の本懐を捨てた創価学会の会則変更は、おのずと学会の教義及び信仰の基本の矛盾(むじゅん)を露呈(ろてい)する。学会員は組織の都合により、即身成仏の根源である大御本尊を失い、一人ひとりが誹謗(ひぼう)正法の失(とが)を負うのだから不憫である。
しかし、だからといって、創価学会と同じく血脈法水に背いた顕正会では、創価学会を救うことはできない。
日寛上人は、仏宝は日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は日興上人とお示しである。
この下種三宝の法体を正しく伝持する御歴代上人は、外用(げゆう)の辺は往持三宝の意義における僧宝と拝するが、内証の辺は三宝一体の尊体にまします。我等衆生は、法体の下種三宝に深く帰依し奉るとともに、血脈付法の御歴代上人に信伏随従し奉るところに、成仏の大功徳が生ずるのである。
したがって、血脈付法の御法主上人に背き、三宝に背く顕正会の信行で積めるのは謗法の罪障のみである。
破和合僧の重罪を犯した浅井が、いかに会員をたばかろうとも、その行業の結果は、必ず相応の現証として現れよう。ただし、
「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし」(御書五七一㌻)
と仰せどおり、罪深き一闡提人(いっせんだいにん)は、今生で厳罰は出ない。冥罰を受け、いずれ現れる臨終の相という裁きを、ただ受け止めるしかないのである。
顕正会員は、これら浅井の誑惑(おうわく)から目を覚まし、まずは日蓮正宗寺院を訪ねて法華講の一員となろう。そして、御法主上人の御指南のもと、宗祖大聖人の御教えのまま、信心修行に励んで、創価学会員へ責めの折伏を行じていこう。
(慧妙 平成三十年十一月十六日号)
御法主上人に背(そむ)く浅井は一闡提人(いっせんだいにん)
顕正会の機関紙『顕正新聞』(十月五日号)では、九月二十五日に、さいたま市文化センターで行った九月度総幹部会について報道している。
その中で、会長・浅井昭衛は、「本門戒壇の大御本尊こそ、まさしく日蓮大聖人の出生の本懐であり、一切衆生の根源の法であられる」
「池田大作のたばかりにより、この大御本尊を捨て奉った学会員は、必ず『入阿鼻獄』となる。
何とも不憫(ふびん)である。私は八百万学会員を救いたい」「遥拝勤行とは、末法の三毒強盛の凡夫を、戒壇の大御本尊に繋(つな)ぎまいらせる秘術である」
などと言っている。相も変わらぬ、狭く偏(かたよ)った我執と、旺盛な自己顕示欲で己義を構え、優宗護法の士を気取っているのである。
そして、巧みに日蓮正宗の教義を盗んで大石寺を騙(かた)り、会員らを扇動する。浅井の教学は独自性に乏しいが、本宗教学に似せて人々を惑(まど)わすから、返って罪が深い。
こうした浅井の本性を知る者から見れば、その厚顔無恥は、ただ呆(あき)れるばかりである。
しかし、浅井のたばかりに踊らされる顕正会員のため、今回は日蓮正宗の信仰の基本を確認し、その誤りの一端を示そう。
日蓮正宗の教義信仰の根幹は、本門戒壇の大御本尊本門と唯授一人の法体血脈である。
まず、本門戒壇の大御本尊は、究竟中の究竟、一閻浮提総与の三大秘法総在の本尊ともいう。
日蓮大聖人は、末法の一切衆生に即身成仏の大利益を得せしめんがため、弘安二年十月十二日、一期御化導の本懐、唯一総要の尊体として、この大御本尊を御図顕あそばされたのである。そして、
『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す』(御書 一八八三㌻)
との仰せのごとく、日興上人以来の御歴代上人が、この大御本尊の法体を血脈相承され、今日、総本山大石寺の奉安堂に厳護されているのである。
日蓮正宗の僧俗は、無始已来の謗法罪障消滅のため、師弟の筋目を守り、日蓮正宗宗門が定める手続きを経(へ)て、特別に本門戒壇の大御本尊への御開扉が許される。
本宗の僧俗において、根源の御本尊を内拝し奉り、想像もつかない大利益を受けた体験は、数え切れないのである。
しかるに、創価学会は平成二十六年十一月八日付の『聖教新聞』で、会則の変更を発表し、会長・原田稔が「弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と、大御本尊への信仰を放棄を宣言した。大聖人の出世の本懐を捨てた創価学会の会則変更は、おのずと学会の教義及び信仰の基本の矛盾(むじゅん)を露呈(ろてい)する。学会員は組織の都合により、即身成仏の根源である大御本尊を失い、一人ひとりが誹謗(ひぼう)正法の失(とが)を負うのだから不憫である。
しかし、だからといって、創価学会と同じく血脈法水に背いた顕正会では、創価学会を救うことはできない。
日寛上人は、仏宝は日蓮大聖人、法宝は本門戒壇の大御本尊、僧宝は日興上人とお示しである。
この下種三宝の法体を正しく伝持する御歴代上人は、外用(げゆう)の辺は往持三宝の意義における僧宝と拝するが、内証の辺は三宝一体の尊体にまします。我等衆生は、法体の下種三宝に深く帰依し奉るとともに、血脈付法の御歴代上人に信伏随従し奉るところに、成仏の大功徳が生ずるのである。
したがって、血脈付法の御法主上人に背き、三宝に背く顕正会の信行で積めるのは謗法の罪障のみである。
破和合僧の重罪を犯した浅井が、いかに会員をたばかろうとも、その行業の結果は、必ず相応の現証として現れよう。ただし、
「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし」(御書五七一㌻)
と仰せどおり、罪深き一闡提人(いっせんだいにん)は、今生で厳罰は出ない。冥罰を受け、いずれ現れる臨終の相という裁きを、ただ受け止めるしかないのである。
顕正会員は、これら浅井の誑惑(おうわく)から目を覚まし、まずは日蓮正宗寺院を訪ねて法華講の一員となろう。そして、御法主上人の御指南のもと、宗祖大聖人の御教えのまま、信心修行に励んで、創価学会員へ責めの折伏を行じていこう。
(慧妙 平成三十年十一月十六日号)
浅井よ創価学会の誤りを哀れむ前に、まず自分自身の誤りを認めて会員に詫びよ!