「信教の自由」が謳(うた)われた明治維新から百五十年が経過した今日も、宗教について深く考えることなく
「我が家は代々〇〇宗だから」
とか、
「うちおお墓は〇〇寺にあるから」
と、過去からの慣習のままに誤った宗教による先祖供養が広くなされていることは、本当に残念である。
菩提寺決定の経緯
日本国憲法の第二十条に、
「信教の自由は、何人(なんびと)に対してもこれを保障する」
とある通り、今日の日本では信教や宗教活動の自由が保障されている。しかし、江戸時代までは「寺請(てらうけ)制度」という宗教統制の制度によって、全く不自由であった。
日本国民は「檀家」として、宗旨の正邪を問わず近隣の仏教寺院に所属することが義務づけられた。これは禁教であるキリスト教を規制するのと同時に、今日で言う戸籍を管理するという目的もあった。
例えば当時、引っ越しや結婚に際しては、正式な国民であることを証明するために、菩提寺から「〇〇寺の檀家である」という証文を発行してもらう必要があり、衆生救済という仏教本来の目的とはかけ離れた、行政加担の一面を有した。
このような時代、本宗への改宗を望んだ多くの人々が、この制度による抑圧に苦しんだ歴史もある。
今こそ人々は、”正しい宗教”を自ら選ぶべき時である。
鳥竜(おうりょう)と遺竜(いりょう)の故事
中国にこのような故事がある。
昔、鳥竜(おうりょう)(父)と遺竜(いりょう)(子)という書道家の親子がいました。道教を信じていた鳥竜は臨終に際して遺竜に
「仏教の経典を書写してはいけない。特に『法華経』だけは絶対に書写してはいけない」と遺言しました。
ある時、法華経に深く帰依していた王様は遺竜に対して法華経の書写を命じました。遺竜は何度も辞退しましたが、王様は他の書家の字がどうしても気に入らず、遺竜に対して再度、
「法華経の題目だけは書くように」と強く命じました。
遺竜は王命に抗(あらが)えず、ついに父の遺言に背(そむ)いて「妙法蓮華経巻第一」から「妙法蓮華経巻第八」までの題目(計六十四文字)を書きました。
その日の夜、遺竜は親不孝になったことを嘆きましたが、父・鳥竜が夢の中に現われ、このように言いました。
「私は法華経を誹謗(ひぼう)した罪で無間地獄に堕(お)ちて苦しんでいた。しかし、おまえが書いた法華経八巻の題目六十四文字が仏となって、私を無間地獄から救ってくれたのである。おまえは私の遺言に背いたが、その題目書写の
功徳により私は救われたのだ」。
この出来事から、鳥竜は法華経に深く帰依するようになりました。
という話だ。
唯一真実の法華本門の正法によって先祖供養を行っていかなければならない、ということを教える故事である。
本物の供養を
宗教はどれも同じではない。その教え、あるいは修行が、その人の人生に大きく影響する。
例えば浄土宗・浄土真宗は「この苦しい娑婆世界を捨てて、極楽浄土に生まれ変わりましょう」と教える。
そういう教えであるから、自然と信徒は浄土への強い恋慕(れんぼ)を抱き、現実の人生や生活を忌避(きひ)して、無意識のうちに生きる気力を失ってしまうという、恐ろしい宗教なのである。
先祖から尊い命を受け継ぎ、今日を生きる我々は、亡くなった父母・祖父母等の幸せを思うならば、恩ある大切な人の三世に亘(わた)る幸せのため、やはり正しく追善回向するべきである。
”供養”とは、今を生きる私たちが、正しい信仰によって受けた大きな功徳の一分を先祖に回向(えこう)することだ。
したがって私たち自身が功徳に充(み)ち満ちた幸せな境界でなければ、先祖供養などできない。
お彼岸も間近。正しい日蓮正宗の信仰を知っている私たちは、一人でも多くの人に正しい信仰と先祖供養の在(あ)り方を伝えていく尊い使命があることを、けっして忘れてはならない。
(大白法 第一〇〇一三号 令和元年九月十六)
「我が家は代々〇〇宗だから」
とか、
「うちおお墓は〇〇寺にあるから」
と、過去からの慣習のままに誤った宗教による先祖供養が広くなされていることは、本当に残念である。
菩提寺決定の経緯
日本国憲法の第二十条に、
「信教の自由は、何人(なんびと)に対してもこれを保障する」
とある通り、今日の日本では信教や宗教活動の自由が保障されている。しかし、江戸時代までは「寺請(てらうけ)制度」という宗教統制の制度によって、全く不自由であった。
日本国民は「檀家」として、宗旨の正邪を問わず近隣の仏教寺院に所属することが義務づけられた。これは禁教であるキリスト教を規制するのと同時に、今日で言う戸籍を管理するという目的もあった。
例えば当時、引っ越しや結婚に際しては、正式な国民であることを証明するために、菩提寺から「〇〇寺の檀家である」という証文を発行してもらう必要があり、衆生救済という仏教本来の目的とはかけ離れた、行政加担の一面を有した。
このような時代、本宗への改宗を望んだ多くの人々が、この制度による抑圧に苦しんだ歴史もある。
今こそ人々は、”正しい宗教”を自ら選ぶべき時である。
鳥竜(おうりょう)と遺竜(いりょう)の故事
中国にこのような故事がある。
昔、鳥竜(おうりょう)(父)と遺竜(いりょう)(子)という書道家の親子がいました。道教を信じていた鳥竜は臨終に際して遺竜に
「仏教の経典を書写してはいけない。特に『法華経』だけは絶対に書写してはいけない」と遺言しました。
ある時、法華経に深く帰依していた王様は遺竜に対して法華経の書写を命じました。遺竜は何度も辞退しましたが、王様は他の書家の字がどうしても気に入らず、遺竜に対して再度、
「法華経の題目だけは書くように」と強く命じました。
遺竜は王命に抗(あらが)えず、ついに父の遺言に背(そむ)いて「妙法蓮華経巻第一」から「妙法蓮華経巻第八」までの題目(計六十四文字)を書きました。
その日の夜、遺竜は親不孝になったことを嘆きましたが、父・鳥竜が夢の中に現われ、このように言いました。
「私は法華経を誹謗(ひぼう)した罪で無間地獄に堕(お)ちて苦しんでいた。しかし、おまえが書いた法華経八巻の題目六十四文字が仏となって、私を無間地獄から救ってくれたのである。おまえは私の遺言に背いたが、その題目書写の
功徳により私は救われたのだ」。
この出来事から、鳥竜は法華経に深く帰依するようになりました。
という話だ。
唯一真実の法華本門の正法によって先祖供養を行っていかなければならない、ということを教える故事である。
本物の供養を
宗教はどれも同じではない。その教え、あるいは修行が、その人の人生に大きく影響する。
例えば浄土宗・浄土真宗は「この苦しい娑婆世界を捨てて、極楽浄土に生まれ変わりましょう」と教える。
そういう教えであるから、自然と信徒は浄土への強い恋慕(れんぼ)を抱き、現実の人生や生活を忌避(きひ)して、無意識のうちに生きる気力を失ってしまうという、恐ろしい宗教なのである。
先祖から尊い命を受け継ぎ、今日を生きる我々は、亡くなった父母・祖父母等の幸せを思うならば、恩ある大切な人の三世に亘(わた)る幸せのため、やはり正しく追善回向するべきである。
”供養”とは、今を生きる私たちが、正しい信仰によって受けた大きな功徳の一分を先祖に回向(えこう)することだ。
したがって私たち自身が功徳に充(み)ち満ちた幸せな境界でなければ、先祖供養などできない。
お彼岸も間近。正しい日蓮正宗の信仰を知っている私たちは、一人でも多くの人に正しい信仰と先祖供養の在(あ)り方を伝えていく尊い使命があることを、けっして忘れてはならない。
(大白法 第一〇〇一三号 令和元年九月十六)