”仏像”と聞けば、学生時代の修学旅行で見たことがあるという人が多いだろう。しかし、近年は、そんな仏像がブームである。
奈良・興福寺の「阿修羅像」が東京国立博物館で展示され九十万人超が訪れた平成二十一年あたりからだろうか。
熱烈なファンを生み、これがきっかけで仏像全般に関心を持つ人が増えたようだ。
アイドル仏像!?
今年も興福寺の「阿修羅像」のもとに三十五万人を超える観覧者が押し寄せ、ブーム再燃である。彼らの関心は専(もっぱ)ら鑑賞。
古代インドから日本に伝来する中で発展していった仏像は、国宝一号の「広隆寺・弥勒菩薩像」をはじめ、その多くが文化的価値という面で高い評価を受けている。
テレビの某鑑定番組では
「家の庭から出てきた」
「先祖代々の家宝」
として仏像が登場するが、祈る対象というより美術品、嗜好(しこう)として受け入れられている。
近年は「阿修羅像」だけでなく東寺の「帝釈天」もまた、仏像界第一のイケメン(かっこいい男性のこと)とアイドル扱い。あらぬ形で持ち上げられた仏像の、微笑みの奥に困惑が見え隠れするのは気のせいか。
何のために造立するのか
そもそも、仏像は何のために造立されたのか。
仏像の誕生は、諸説あるが、仏滅後約五百年の頃に、仏を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)する者たちによって顕わされたようだ。彼らは釈尊を象(かたど)った像を崇(あが)め、給仕することをもって功徳を得て、仏の境界に近づこうとした。当たり前であるが、仏像は「拝む」ために顕わされた、信仰の対象物である。
人々は釈尊像の他にも、当病平癒(とうびょうへいゆ)を願って薬師仏を、極楽往生(おうじょう)のために阿弥陀仏と、多種多様の仏を造立して、幸せを仏像に託(たく)してきた。
仏像に対する気持ちは、現代人にも伝わっていて、寺院にいけば、目の前の仏像がどのような仏か知らずとも、安らぎや有り難みを感じ、自然と手を合わせてしまうという人が多い。そしてこれからも、「祈り」のない時代は、来ないであろう。
末法では無用の長物
そんな有り難そうに見える仏像も、今の世では全く用を成さないことを、人々は知らない。釈尊は大集(だいしっ)経というお経で、
「我が法の中に於いて闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん」(御書 八三六㌻)
と説かれ、自身の教えでは人々を救えない混沌(こんとん)とした時代が来ると予証(よしょう)された。
それが末法と呼ばれる、今の世である。よって今は、いくら拝んだところで、仏像に利益はない。
さらに言えば、仏像、つまり本尊とは願いを叶えるだけの存在ではない。総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「仏像の道理の上から考えた時、対境となる本尊如何によって、我々の日々の生活における考え方・思想も影響されていく(趣意)」(六巻抄 四二㌻)
と示されている。正しい本尊に向かい、妙法を唱えることで我々は正しい功徳・思想を得て、清く正しい人生を送っていくことができるのである。
それはまた、誤った対境に手を合わせれば、悪影響を被(こうむ)るということでもある。何の効力もない仏像を置いて、参拝者に手を合せさせる邪宗寺院は、
「徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)」(御書 一四五八㌻)
と成り下がっていて、本尊である仏像の中には悪鬼魔神が入り込んでいるのだ。
仏像は謗法の起因
日蓮大聖人は、
「夫雪至って白ければ、そむるにそめられず。漆(うるし)至ってくろければ、しろくなる事なし。此よりうつりやすきは人の心なり。善悪にそめられ候。」(同 一〇七二㌻)
と仰せられ、人の心は対境によって移ろい変わると御指南である。
邪宗寺院であろうと博物館であろうと、あなたが惹(ひ)かれているその像は、けっして御仏(みほとけ)の像ではなく”魔像”である。
気おつけて! 手を合わせたり、頭を下げたりした時点で、あなたの心は魔によって蝕(むしば)まれているのだから・・・。
(大白法 第九七一号 平成二十九年十二月十六日)
奈良・興福寺の「阿修羅像」が東京国立博物館で展示され九十万人超が訪れた平成二十一年あたりからだろうか。
熱烈なファンを生み、これがきっかけで仏像全般に関心を持つ人が増えたようだ。
アイドル仏像!?
今年も興福寺の「阿修羅像」のもとに三十五万人を超える観覧者が押し寄せ、ブーム再燃である。彼らの関心は専(もっぱ)ら鑑賞。
古代インドから日本に伝来する中で発展していった仏像は、国宝一号の「広隆寺・弥勒菩薩像」をはじめ、その多くが文化的価値という面で高い評価を受けている。
テレビの某鑑定番組では
「家の庭から出てきた」
「先祖代々の家宝」
として仏像が登場するが、祈る対象というより美術品、嗜好(しこう)として受け入れられている。
近年は「阿修羅像」だけでなく東寺の「帝釈天」もまた、仏像界第一のイケメン(かっこいい男性のこと)とアイドル扱い。あらぬ形で持ち上げられた仏像の、微笑みの奥に困惑が見え隠れするのは気のせいか。
何のために造立するのか
そもそも、仏像は何のために造立されたのか。
仏像の誕生は、諸説あるが、仏滅後約五百年の頃に、仏を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)する者たちによって顕わされたようだ。彼らは釈尊を象(かたど)った像を崇(あが)め、給仕することをもって功徳を得て、仏の境界に近づこうとした。当たり前であるが、仏像は「拝む」ために顕わされた、信仰の対象物である。
人々は釈尊像の他にも、当病平癒(とうびょうへいゆ)を願って薬師仏を、極楽往生(おうじょう)のために阿弥陀仏と、多種多様の仏を造立して、幸せを仏像に託(たく)してきた。
仏像に対する気持ちは、現代人にも伝わっていて、寺院にいけば、目の前の仏像がどのような仏か知らずとも、安らぎや有り難みを感じ、自然と手を合わせてしまうという人が多い。そしてこれからも、「祈り」のない時代は、来ないであろう。
末法では無用の長物
そんな有り難そうに見える仏像も、今の世では全く用を成さないことを、人々は知らない。釈尊は大集(だいしっ)経というお経で、
「我が法の中に於いて闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没(びゃくほうおんもつ)せん」(御書 八三六㌻)
と説かれ、自身の教えでは人々を救えない混沌(こんとん)とした時代が来ると予証(よしょう)された。
それが末法と呼ばれる、今の世である。よって今は、いくら拝んだところで、仏像に利益はない。
さらに言えば、仏像、つまり本尊とは願いを叶えるだけの存在ではない。総本山第二十六世日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「仏像の道理の上から考えた時、対境となる本尊如何によって、我々の日々の生活における考え方・思想も影響されていく(趣意)」(六巻抄 四二㌻)
と示されている。正しい本尊に向かい、妙法を唱えることで我々は正しい功徳・思想を得て、清く正しい人生を送っていくことができるのである。
それはまた、誤った対境に手を合わせれば、悪影響を被(こうむ)るということでもある。何の効力もない仏像を置いて、参拝者に手を合せさせる邪宗寺院は、
「徒(いたずら)に魔縁の栖(すみか)」(御書 一四五八㌻)
と成り下がっていて、本尊である仏像の中には悪鬼魔神が入り込んでいるのだ。
仏像は謗法の起因
日蓮大聖人は、
「夫雪至って白ければ、そむるにそめられず。漆(うるし)至ってくろければ、しろくなる事なし。此よりうつりやすきは人の心なり。善悪にそめられ候。」(同 一〇七二㌻)
と仰せられ、人の心は対境によって移ろい変わると御指南である。
邪宗寺院であろうと博物館であろうと、あなたが惹(ひ)かれているその像は、けっして御仏(みほとけ)の像ではなく”魔像”である。
気おつけて! 手を合わせたり、頭を下げたりした時点で、あなたの心は魔によって蝕(むしば)まれているのだから・・・。
(大白法 第九七一号 平成二十九年十二月十六日)