大聖人の御金言・御歴代の御指南を無視
「手続(てつぎ)の師」を否定せんとの歪(ゆが)んだ師弟観
「無恥(むち)」なのか、「無知」なのか!?
「創価新報」のお粗末(そまつ)な慧妙誹謗(ひぼう)
『創価新報』三月十六日号の「法華講救済のために」という何ともお節介な記事で、「ゆがんだ師弟観」として、本紙二月一日号を引き
"手続 (てつぎ) の師"、に関する誹謗(ひぼう)を並べている。 いわく、
〈同紙では、「大聖人己来の血脈を受け継がれた御当代の上人が手続ぎの師匠なのであり、この師匠に対して深く信を取らなければならない」「御法主上人に信伏随従する弟子檀那こそ、大聖人が仰(おお)せの『我が弟子』に当たる」などと強弁。
ところが、法主への服従が「当宗古来よりの根本教義」といいながら、裏付けとなる御聖訓は一つも書かれていないのだから、笑止千万である。
もとより、”法主に信伏随従しなければ功徳はない”などという邪義を正当化できる御文など、どこにもない>
と。邪義に永く染まっていると、記憶力も著しく減退するらしい。
「裏付けとなる御聖訓」は彼奴等にも当然わかっているものとして挙げなかったのだが、すっかり忘れてしまった(あるいは最初から知らなかった)
編集子のために、その一端を挙げておこう。
大聖人は日興上人に法を伝授(でんじゅ)し
「代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なり」と
まず、『新池御書』には
「今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争(いか) でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華
経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり」
(御書一四六一頁)
と仰せられ、仏の入滅後は「解悟の智識」たる「僧」を仏の代理者として、生身の仏のごとく敬うべきことを御示しである。その「僧」
とは、『南条殿御返事』に
「法妙なるが故に人貴し」(御書一五六九頁)
また『持妙法華問答抄』に
「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(御書二九八頁)
等と仰せのごとく、尊極無上の法を護持される方をいうのである。 しかして、
『二箇相承』に
「 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書一六七五頁)
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。 背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」
(同頁)
と御示しのごとく、大聖人から法を伝授(血脈相承)され、護持・伝承される第二祖日興上人こそ、まさしく大聖人御入滅後の「解悟の智識」として、仏のごと
く敬うべき御方であり、それに「背く在家出家共の輩は非法の衆」となる。
さらに『百六箇抄』に、
「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首己下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るま
で、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」
(御書 一七〇二頁)
と示され、また第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に
「而して後、法を日目に付し、日目亦(また) 日道に付す、今に至るまで四百余年の間(あいだ)一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無
し」(六巻抄六五頁)
と示されるように、日興上人の後は日目上人、日道上人等の御歴代上人が、あたかも一器の水を一器に移すがごとく甚深の法を継承されてきたのだから、その嫡々付法の上人を仏のごとく仰ぐべきは当然である。
それ故、大聖人は、『御本尊七箇相承』に
「代々の聖人悉く日蓮なり」(聖典四九二頁)
と御示しになっているものと拝するのである。
筋道の上から「手続の師」を定(さだ)む
「日蓮と同意」の正意(しょうい)も明確
こうした筋道の上から、第九世日有上人は、
『化儀抄』に
「手続 (てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏、高祖己来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能 (よ)く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり。是れを即身成仏と云うなり」(聖典一二〇二頁)
「先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり。 住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり」
(聖典一二〇六頁)
すなわち、手続の師(我々を御本尊に取り継いでくださる現実の師)には、大聖人以来御歴代上人の命が受け継がれているのだから、その師を固く定めて信仰せねばならぬ、そこに即身成仏の大利益が生ずるのである、また歴代先師方はすでに入滅されて、今おられるのは御当代上人(大石寺住職) のみであり、この上人の御覧になるところが諸仏聖者の御覧になるところなのである、と御教示あそばされている。
見よ、本紙が、”手続の師”について論じた記事には、以上のごとく裏付けとなる御金言·御聖訓が揃(そろ)っているではないか。 こんなことも知らずに、
「笑止千万」などと笑っている無知こそ恥ずべきである。
しかして『新報』は、<広宣流布の使命を担う要件は、「日蓮と同意」であるか否かである>として、<大聖人と、同じ心、同じ精神で、広布への実践を貫く人>が創価三代の会長である、と結論付けようとしているが、前に示した御指南によって考えれば、”日蓮大聖人に同意”,とは ”御当代御法主上人に同意”でなくてはならない。子供にでもわかる道理である。
我々はどこまでも御金言と仏法の道理に則(のっと)って、師弟子の道を守り、異流儀の徒輩を折伏してまいりたい。
(慧妙 令和四年四月十六日号)
「手続(てつぎ)の師」を否定せんとの歪(ゆが)んだ師弟観
「無恥(むち)」なのか、「無知」なのか!?
「創価新報」のお粗末(そまつ)な慧妙誹謗(ひぼう)
『創価新報』三月十六日号の「法華講救済のために」という何ともお節介な記事で、「ゆがんだ師弟観」として、本紙二月一日号を引き
"手続 (てつぎ) の師"、に関する誹謗(ひぼう)を並べている。 いわく、
〈同紙では、「大聖人己来の血脈を受け継がれた御当代の上人が手続ぎの師匠なのであり、この師匠に対して深く信を取らなければならない」「御法主上人に信伏随従する弟子檀那こそ、大聖人が仰(おお)せの『我が弟子』に当たる」などと強弁。
ところが、法主への服従が「当宗古来よりの根本教義」といいながら、裏付けとなる御聖訓は一つも書かれていないのだから、笑止千万である。
もとより、”法主に信伏随従しなければ功徳はない”などという邪義を正当化できる御文など、どこにもない>
と。邪義に永く染まっていると、記憶力も著しく減退するらしい。
「裏付けとなる御聖訓」は彼奴等にも当然わかっているものとして挙げなかったのだが、すっかり忘れてしまった(あるいは最初から知らなかった)
編集子のために、その一端を挙げておこう。
大聖人は日興上人に法を伝授(でんじゅ)し
「代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なり」と
まず、『新池御書』には
「今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争(いか) でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華
経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり」
(御書一四六一頁)
と仰せられ、仏の入滅後は「解悟の智識」たる「僧」を仏の代理者として、生身の仏のごとく敬うべきことを御示しである。その「僧」
とは、『南条殿御返事』に
「法妙なるが故に人貴し」(御書一五六九頁)
また『持妙法華問答抄』に
「持たるゝ法だに第一ならば、持つ人随って第一なるべし」(御書二九八頁)
等と仰せのごとく、尊極無上の法を護持される方をいうのである。 しかして、
『二箇相承』に
「 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書一六七五頁)
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。 背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」
(同頁)
と御示しのごとく、大聖人から法を伝授(血脈相承)され、護持・伝承される第二祖日興上人こそ、まさしく大聖人御入滅後の「解悟の智識」として、仏のごと
く敬うべき御方であり、それに「背く在家出家共の輩は非法の衆」となる。
さらに『百六箇抄』に、
「白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首己下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るま
で、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」
(御書 一七〇二頁)
と示され、また第二十六世日寛上人の『文底秘沈抄』に
「而して後、法を日目に付し、日目亦(また) 日道に付す、今に至るまで四百余年の間(あいだ)一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無
し」(六巻抄六五頁)
と示されるように、日興上人の後は日目上人、日道上人等の御歴代上人が、あたかも一器の水を一器に移すがごとく甚深の法を継承されてきたのだから、その嫡々付法の上人を仏のごとく仰ぐべきは当然である。
それ故、大聖人は、『御本尊七箇相承』に
「代々の聖人悉く日蓮なり」(聖典四九二頁)
と御示しになっているものと拝するのである。
筋道の上から「手続の師」を定(さだ)む
「日蓮と同意」の正意(しょうい)も明確
こうした筋道の上から、第九世日有上人は、
『化儀抄』に
「手続 (てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏、高祖己来代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能 (よ)く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり。是れを即身成仏と云うなり」(聖典一二〇二頁)
「先師先師は過去して残る所は当住持計りなる故なり。 住持の見たもう所が諸仏聖者の見たもう所なり」
(聖典一二〇六頁)
すなわち、手続の師(我々を御本尊に取り継いでくださる現実の師)には、大聖人以来御歴代上人の命が受け継がれているのだから、その師を固く定めて信仰せねばならぬ、そこに即身成仏の大利益が生ずるのである、また歴代先師方はすでに入滅されて、今おられるのは御当代上人(大石寺住職) のみであり、この上人の御覧になるところが諸仏聖者の御覧になるところなのである、と御教示あそばされている。
見よ、本紙が、”手続の師”について論じた記事には、以上のごとく裏付けとなる御金言·御聖訓が揃(そろ)っているではないか。 こんなことも知らずに、
「笑止千万」などと笑っている無知こそ恥ずべきである。
しかして『新報』は、<広宣流布の使命を担う要件は、「日蓮と同意」であるか否かである>として、<大聖人と、同じ心、同じ精神で、広布への実践を貫く人>が創価三代の会長である、と結論付けようとしているが、前に示した御指南によって考えれば、”日蓮大聖人に同意”,とは ”御当代御法主上人に同意”でなくてはならない。子供にでもわかる道理である。
我々はどこまでも御金言と仏法の道理に則(のっと)って、師弟子の道を守り、異流儀の徒輩を折伏してまいりたい。
(慧妙 令和四年四月十六日号)
「創価新報」の慧妙誹謗は無信・無学を丸出し