最近、顕正会では盛んに総本山第六十六世日達上人の御臨終の相についての誹謗(ひぼう)中傷を喧伝(けんでん)している。
日達上人が昭和五十四年七月二十二日に御遷化(せんげ)あそばされてから四十年近く経って、葬儀にも出ていない浅井を筆頭に会員総出で「悪臨終」「堕獄(だごく)の相」などと口汚く罵(ののし)る様は、人間としての品性を疑うものだ。
それもその根拠が明白であるならばまだしも、「又聞き」であるのだから質が悪い。これはまさに「名誉棄損」の極みと言うべきである。
日達上人の縁戚?
この誹謗は、男子部のNという人間の体験発表をもとに行われている。このNという人物は、「塔中に勤務していた母は日達上人の縁戚で、入院中三回見舞いに行った」とし、その母から聞いた話として、「御相承の前日に臨終してしまった」「医師が二時間にも及ぶ心臓マッサージをしたが助からなかった」「縁戚として葬儀に参列した際に見た臨終の相は、今まで見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄(あびごく)を恐れ叫んでいるかのような相であった」などと語っている。(顕正新聞平成三十年十月五日付)
日達上人のご親族や直弟子の方々、さらには当時総本山に勤められていた御僧侶や従業員の方にお聞きしたところ、全員が「そんな人物に心当たりはない」とのこと。果たして、「縁戚の母」とは一体誰なのであろう。
すばらしい御臨終の相
では実際に御遷化時はどういう状況であったのか。
日達上人のは七月十七日に福岡・妙流寺での御親修を終え、総本山にお戻りになられてから体調を崩(くず)され、御遷化三日前の十九日に入院あそばされた。
お身内によると、「二十一日の夕方をご家族と一緒に穏やかに過ごされ、夕食も普通にとられました。その際、翌日の御自身の予定を側近の方に伝えられていたほどです。そして就寝され、その数時間後に、成住壊空の法理のもと、肉体としての寿命を全うされて、日達上人は御臨終を迎えられました。その御姿は穏やかで御尊顔はふっくらと、頬は赤みをおびていました」ということである。
得体(えたい)の知れない縁戚と、現実のお身内のどちらの証言が信頼に堪えるものかは、言うまでもない。
証言への疑問
その上で、実在するかどうか判らない「縁戚」による証言の疑問点を洗い出してみる。
第一に、わずか二日半の入院で、お身内以外の者が三回もお見舞いに行くことなど、到底あり得ないことである。
第二に、仮に本当の縁戚であったとして、「御相承の前日」などと述べることはありえない。御相承の大事を、一般信徒に先に公表される道理などないからである。
第三に、御臨終に立ち会われたのは、日達上人令夫人とご子息、そして側近の方のみである。しかも「二時間に及ぶ心臓マッサージ」など行われていない。
そして最大の疑問点として第四に、御臨終の相についてである。お別れが行われたのは七月二十四日の御密葬である。当時の『大日蓮』の記事から判ることは、密葬と言っても親族をはじめ僧侶・信徒・寺族・来賓の千人を超えるであろう参列者のもとに奉修されている。
お別れで御尊顔を拝した全僧侶・親族・寺族・代表信徒、おそらく数百人が、
「生前と変わらない、すばらしい尊い相をなされていました」
と証言している。
この多くの証言と、たった一人の怪しい「縁戚」との違いは決定的である。
人の道に外れる顕正会
このようにNの発表には多くの疑問点があるが、それよりも断ぜられるべきは、確証のない「又聞き」を、さも真実であるかのように言い切る、浅井ら顕正会の体質そのものである。
さらに、このような妄言をもとに臨終の相を悪(あ)し様(ざま)に言うことは人道に悖(もと)る行為でもある。それを平然とやってのけるのが顕正会であり、しかもでっち上げだ。
本宗僧俗は、このような悪質なでっち上げを盲信する顕正会員に、真実を粘り強く教えていかなければならない。
(大白法 第九九四号 平成三十年十二月一日)
日達上人が昭和五十四年七月二十二日に御遷化(せんげ)あそばされてから四十年近く経って、葬儀にも出ていない浅井を筆頭に会員総出で「悪臨終」「堕獄(だごく)の相」などと口汚く罵(ののし)る様は、人間としての品性を疑うものだ。
それもその根拠が明白であるならばまだしも、「又聞き」であるのだから質が悪い。これはまさに「名誉棄損」の極みと言うべきである。
日達上人の縁戚?
この誹謗は、男子部のNという人間の体験発表をもとに行われている。このNという人物は、「塔中に勤務していた母は日達上人の縁戚で、入院中三回見舞いに行った」とし、その母から聞いた話として、「御相承の前日に臨終してしまった」「医師が二時間にも及ぶ心臓マッサージをしたが助からなかった」「縁戚として葬儀に参列した際に見た臨終の相は、今まで見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄(あびごく)を恐れ叫んでいるかのような相であった」などと語っている。(顕正新聞平成三十年十月五日付)
日達上人のご親族や直弟子の方々、さらには当時総本山に勤められていた御僧侶や従業員の方にお聞きしたところ、全員が「そんな人物に心当たりはない」とのこと。果たして、「縁戚の母」とは一体誰なのであろう。
すばらしい御臨終の相
では実際に御遷化時はどういう状況であったのか。
日達上人のは七月十七日に福岡・妙流寺での御親修を終え、総本山にお戻りになられてから体調を崩(くず)され、御遷化三日前の十九日に入院あそばされた。
お身内によると、「二十一日の夕方をご家族と一緒に穏やかに過ごされ、夕食も普通にとられました。その際、翌日の御自身の予定を側近の方に伝えられていたほどです。そして就寝され、その数時間後に、成住壊空の法理のもと、肉体としての寿命を全うされて、日達上人は御臨終を迎えられました。その御姿は穏やかで御尊顔はふっくらと、頬は赤みをおびていました」ということである。
得体(えたい)の知れない縁戚と、現実のお身内のどちらの証言が信頼に堪えるものかは、言うまでもない。
証言への疑問
その上で、実在するかどうか判らない「縁戚」による証言の疑問点を洗い出してみる。
第一に、わずか二日半の入院で、お身内以外の者が三回もお見舞いに行くことなど、到底あり得ないことである。
第二に、仮に本当の縁戚であったとして、「御相承の前日」などと述べることはありえない。御相承の大事を、一般信徒に先に公表される道理などないからである。
第三に、御臨終に立ち会われたのは、日達上人令夫人とご子息、そして側近の方のみである。しかも「二時間に及ぶ心臓マッサージ」など行われていない。
そして最大の疑問点として第四に、御臨終の相についてである。お別れが行われたのは七月二十四日の御密葬である。当時の『大日蓮』の記事から判ることは、密葬と言っても親族をはじめ僧侶・信徒・寺族・来賓の千人を超えるであろう参列者のもとに奉修されている。
お別れで御尊顔を拝した全僧侶・親族・寺族・代表信徒、おそらく数百人が、
「生前と変わらない、すばらしい尊い相をなされていました」
と証言している。
この多くの証言と、たった一人の怪しい「縁戚」との違いは決定的である。
人の道に外れる顕正会
このようにNの発表には多くの疑問点があるが、それよりも断ぜられるべきは、確証のない「又聞き」を、さも真実であるかのように言い切る、浅井ら顕正会の体質そのものである。
さらに、このような妄言をもとに臨終の相を悪(あ)し様(ざま)に言うことは人道に悖(もと)る行為でもある。それを平然とやってのけるのが顕正会であり、しかもでっち上げだ。
本宗僧俗は、このような悪質なでっち上げを盲信する顕正会員に、真実を粘り強く教えていかなければならない。
(大白法 第九九四号 平成三十年十二月一日)