昨今は、三密回避のためとあってか様々な宗派が、法要や法話などをインターネット上で紹介している。
浄土宗もその手法で布教活動をしており、ホームページに開祖の法然が著わした同宗根本聖典の『選択本願念仏集 (選択集)』を
解説するものがあった。
捨(す)てよ閉(と)じよ閣(さしお)け抛(なげうて)
その中で「捨てよ」「閉じよ」「閣け」「抛て」と、かなりきつい言い方で否定されているのは、浄士三部経以外の一切の経典である。
『選択集』に目を通す人は少ないと思われるので少し紹介する。
①法華経等の粗雑(そざつ)な修行を捨てて、浄土三部経の正しい行を修(おさ)めなければならない。 どうして百人が百人とも往生できる正行(念仏) を捨て、千人に
一人も往生できない雑行(ぞうぎょう)に堅く執(とら)われてよかろうか。
②釈尊は機根に随って法を説く時、一切経の修行の門を開かれるけれども、念仏行を説かれた後は他の門は閉じられる。
③他を閣いて、選んで浄土三部経に帰依(きえ)しなければならない。
④よって、浄土三部経以外の雑行を抛って、正行のみを修めなさい。
といったところである。さらに一切経を、「群賊」「邪見」「悪見」「邪雑人(じゃぞうにん)」等と悪(あ)し様(ざま)に批判している。
そして浄土宗では、阿弥陀如来こそ本仏であり、「釈尊の本懐」は阿弥陀如来の本願である念仏を衆生に教え、西方極楽浄土へ往生させること、と説く。
仏説違背(いはい)の『選択集』
果たして『選択集』の言い分は正しいか。
結論から言えばノーで先の①②③④は法然の己義(こぎ)邪見。仏説違背(いはい)も甚(はなは)だしい。
証文は数多いが、真の「釈尊の本懐」である仏説、法華経から意を取って挙げてみよう。
・もしこの法華経を聞くならば、一人として成仏しない者はいない (法華経一一八㌻)。
・これまでの浄土三部経等の方便経を正直に捨てて、 真実の法華経を説く(同一二四㌻)。
・法華経以外の経典を一偶(げ)一句すら受持してはならない (同 一八三㌻)。
・私(釈尊) の滅後·末法では、必ずこの法華経を受持しなさい。この人は仏道において成仏することは疑いない (同 五一七㌻)。
と、 釈尊が一切衆生救済のために法華経を持(たも)たせようとしたことがよく判る。
法華経以前の経である浄土三部経の中の観無量寿経では、西方極楽浄土の阿弥陀如来は王妃韋提希(いだいけ)夫人の請(こ)いに応じて説かれた。
我が子に夫を幽閉(ゆうへい)され、次いで自身も囚(とら)われて憔悴(しょうすい)した韋提希夫人は、「かつてのように目連尊者と阿難尊者を遣わしてください」と霊鷲山(りょうじゅせん)の釈尊に向かって礼拝し、願った。たちまちに目連と阿難を遣わした釈尊は自身も王宮に姿を現わし、王妃の見たいと言った極楽浄土を見せ、阿弥陀如来を観ずる法を教えたのである。
しかしその経中、説かれた本人の釈尊が、法華経を「捨閉閣地(しゃへいかくほう)」せよなど、当然のことながら、どこにも説かれてはいない。阿難も
韋提希夫人も、浄土三部経で往生したのではなく、法華経によって即身成仏が叶ったのである。
そもそも阿弥陀如来は、釈尊の方便教の中で現われた権(か)りの仏であり、裟婆世界の衆生とは縁のない仏である。したがって我々がいかに念仏を行じても、阿弥陀如来によって救われることはない。
日蓮大聖人が、
「方便の念仏を信じて、真実の法華を信ぜざさらん者は、無間地獄に堕(お)つべきなり」(御書 三八㌻)
と断じられる通りである。
「捨閉閣抛」すべきは『選択集』
浄土宗は、令和六年に開宗八百五十年を迎えるという。それほど長きにわたって、無数の人々が法然の邪義に翻弄(ほんろう)され、現在もまたそうであることを思うと、胸が締め付けられる。
今世で成仏はできないと悲観して極楽浄土に往生を願うことで、生きることに無力となり、いよいよ苦しみが増す、恐ろしい教えだ。
念仏。『選択集』こそ「捨閉閣抛」すべきである。
先祖から受け継いだ宗派だからと、何ら疑問を持たずにこの邪義に染まる人々を、折伏して救っていこう。
(大白法 第一〇四五号 令和三年一月十六日)
浄土宗もその手法で布教活動をしており、ホームページに開祖の法然が著わした同宗根本聖典の『選択本願念仏集 (選択集)』を
解説するものがあった。
捨(す)てよ閉(と)じよ閣(さしお)け抛(なげうて)
その中で「捨てよ」「閉じよ」「閣け」「抛て」と、かなりきつい言い方で否定されているのは、浄士三部経以外の一切の経典である。
『選択集』に目を通す人は少ないと思われるので少し紹介する。
①法華経等の粗雑(そざつ)な修行を捨てて、浄土三部経の正しい行を修(おさ)めなければならない。 どうして百人が百人とも往生できる正行(念仏) を捨て、千人に
一人も往生できない雑行(ぞうぎょう)に堅く執(とら)われてよかろうか。
②釈尊は機根に随って法を説く時、一切経の修行の門を開かれるけれども、念仏行を説かれた後は他の門は閉じられる。
③他を閣いて、選んで浄土三部経に帰依(きえ)しなければならない。
④よって、浄土三部経以外の雑行を抛って、正行のみを修めなさい。
といったところである。さらに一切経を、「群賊」「邪見」「悪見」「邪雑人(じゃぞうにん)」等と悪(あ)し様(ざま)に批判している。
そして浄土宗では、阿弥陀如来こそ本仏であり、「釈尊の本懐」は阿弥陀如来の本願である念仏を衆生に教え、西方極楽浄土へ往生させること、と説く。
仏説違背(いはい)の『選択集』
果たして『選択集』の言い分は正しいか。
結論から言えばノーで先の①②③④は法然の己義(こぎ)邪見。仏説違背(いはい)も甚(はなは)だしい。
証文は数多いが、真の「釈尊の本懐」である仏説、法華経から意を取って挙げてみよう。
・もしこの法華経を聞くならば、一人として成仏しない者はいない (法華経一一八㌻)。
・これまでの浄土三部経等の方便経を正直に捨てて、 真実の法華経を説く(同一二四㌻)。
・法華経以外の経典を一偶(げ)一句すら受持してはならない (同 一八三㌻)。
・私(釈尊) の滅後·末法では、必ずこの法華経を受持しなさい。この人は仏道において成仏することは疑いない (同 五一七㌻)。
と、 釈尊が一切衆生救済のために法華経を持(たも)たせようとしたことがよく判る。
法華経以前の経である浄土三部経の中の観無量寿経では、西方極楽浄土の阿弥陀如来は王妃韋提希(いだいけ)夫人の請(こ)いに応じて説かれた。
我が子に夫を幽閉(ゆうへい)され、次いで自身も囚(とら)われて憔悴(しょうすい)した韋提希夫人は、「かつてのように目連尊者と阿難尊者を遣わしてください」と霊鷲山(りょうじゅせん)の釈尊に向かって礼拝し、願った。たちまちに目連と阿難を遣わした釈尊は自身も王宮に姿を現わし、王妃の見たいと言った極楽浄土を見せ、阿弥陀如来を観ずる法を教えたのである。
しかしその経中、説かれた本人の釈尊が、法華経を「捨閉閣地(しゃへいかくほう)」せよなど、当然のことながら、どこにも説かれてはいない。阿難も
韋提希夫人も、浄土三部経で往生したのではなく、法華経によって即身成仏が叶ったのである。
そもそも阿弥陀如来は、釈尊の方便教の中で現われた権(か)りの仏であり、裟婆世界の衆生とは縁のない仏である。したがって我々がいかに念仏を行じても、阿弥陀如来によって救われることはない。
日蓮大聖人が、
「方便の念仏を信じて、真実の法華を信ぜざさらん者は、無間地獄に堕(お)つべきなり」(御書 三八㌻)
と断じられる通りである。
「捨閉閣抛」すべきは『選択集』
浄土宗は、令和六年に開宗八百五十年を迎えるという。それほど長きにわたって、無数の人々が法然の邪義に翻弄(ほんろう)され、現在もまたそうであることを思うと、胸が締め付けられる。
今世で成仏はできないと悲観して極楽浄土に往生を願うことで、生きることに無力となり、いよいよ苦しみが増す、恐ろしい教えだ。
念仏。『選択集』こそ「捨閉閣抛」すべきである。
先祖から受け継いだ宗派だからと、何ら疑問を持たずにこの邪義に染まる人々を、折伏して救っていこう。
(大白法 第一〇四五号 令和三年一月十六日)